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第58話 妄想を力に変えて

 「道着、直して。元の位置に戻って」


 主審は僕を指差している。見ると、道着の上着が大きくはだけていた。はぁはぁと肩で大きく息をしながら、帯の中に押し込んで、整える。道着は汗でびしょびしょだった。胸にも大粒の汗が浮いている。


 試合開始位置に戻って、審判に促されて正面を向く。


 「判定取ります。判定!」


 おおっ


 僕が確認するより前に、翔太たちの歓声が上がった。


 「赤、1、2、主審、赤!」


 僕の方に手が上がる。勝った。勝ったぞ。


 「正面に、礼! お互いに、礼!」


 勝った。マジか。


 ふわふわした気分のまま礼をして、相手の選手と握手をすると試合場を出た。碧崎さんが相手のセコンドに一礼している。


 「お疲れ」


 翔太が駆け寄ってきた。あ、珍しい。うれしそうな顔をしている。荷物を置いている場所に戻ると、マイと母さんが拍手して迎えてくれた。


 「よかった……初勝利、おめでとう……!」


 マイはボロボロと涙をこぼしていた。そこで急に現実に引き戻された。


 いや、まだ1つ勝っただけやし!


 「まだ1つ勝っただけやで。2つ勝ってから喜んでや」


 背後でミユちゃんの冷静な声が聞こえた。


 「そうやな。勝ったからよかったけど、最後は足が止まりすぎや。もっと、ステップで動きながらパンチ出すねん。足が止まってしまうと、パンチしか出せんようになるから。蹴りのチャンスが生まれへんし」


 戻ってきた碧崎さんが、自らステップを踏んで説明してくれたが、半分くらい意味がわからない。


 ただ、最後に足が止まったというのは、自分でもわかっていた。ラスト30秒は足を止めて苦しい打ち合いをした。優勢に試合を進めていたから勝ったものの、五分だったら、判定で負けていたかもしれない。


 「相手が大きかったら、通用せえへん」


 碧崎さんはそこまで言って、僕の背後に視線を向けた。


 「ほら、あんなんが相手やったら。てゆうか、雅史の次の相手って、あれちゃうの?」


 指差した先には、相撲取りでしょと言いたくなるような巨漢がいた。白帯を巻いている。高校生なら、間違いなく僕の次の相手だ。


 「100キロくらいありそう」


 翔太がポツリとつぶやいた。


 「いや、120キロくらいあるんとちゃう? リーチも長いし、雅史が勝っているのは足の長さくらいや。あんなんが相手やったら、もっとフットワークを使って、動き回らんとあかん。てゆうか、あれが次の相手や。足を使って動け。動いて打つ、すぐ動く。一瞬たりとも、同じ場所にいないこと」


 碧崎さんは次から次へと指示を出した。そんなに一度に覚えられない。頭の中がゴチャゴチャになる。その相撲取りみたいな彼が、次の相手だった。数試合後に僕に負けたラガーマンが登場し、彼と試合をしたから間違いない。


   ◇


 高校生初級重量級の部は、5試合ずつ間隔をあけて行われた。つまり、僕は初戦の10試合後に相撲取りと対戦した。その間にユウダイ君が2回戦で判定負けし、ミユちゃんは2回戦を突破。豊岡さんは初戦で判定負けした。


 「いや、すまん。勝ってバトンを渡したかったんだけど」


 豊岡さんは申し訳なさそうに、僕と串本さんにペコペコ頭を下げた。負けたとはいえ、真正会館の選手相手に壮絶に打ち合った末の負けだった。内容は悪くない。他流派でなければ、延長戦になってもおかしくなかった。


 「足を止めて打ち合うと、ああなる。ええか、最後まで足を止めるな」


 第2試合直前。碧崎さんがまた僕の肩に手を置いて、同じことを言っている。


 そうだ。相撲取りとラガーマンの試合を見ていたが、巨体の圧力に圧倒されて、ラガーマンは何度も場外に出された。正面で受け止めたら絶対に敵わない。


 前の試合が終わった。


 「続いて、高校生初級重量級の第3試合を行います。赤、シロヤマ・マサシ選手…」


 聞き取りにくいアナウンスが始まると同時に、審判が手招きする。心臓がドキンと跳ね上がる。でも、1試合目よりはマシだ。一礼して小走りに試合開始位置につく。遅れて、相撲取り君も試合場にノシノシと入ってきた。


 「正面に、礼! お互いに、礼!」


 審判のかけ声。そこで初めて、目を合わせる。


 でっか!


 僕は身長が182センチある。なかなか見上げるような人間には出会わない。その僕が今、見上げている。見上げているだけではない。まるで壁だ。横にも大きすぎる。相撲取り君は小さな目を細めて、僕をにらんでいた。胸を張って、威圧感たっぷりだ。


 いじめっ子なのかな。少なくともこの雰囲気で、いじめられっ子はないわ。


 足だ、足。とにかくフットワークで動き回る。止まったら押し出される。


 「始め!」


 かけ声と同時に左に回り始めた瞬間、一気に間合いをつめられた。


 ドスン! ドスン!


 ボウリングのボールで殴られたような(殴られたことないけど)ボディブローが飛んでくる。後退してダメージを軽減しようとしているのに、内臓をかき出されるような(かき出されたことないけど)強烈な衝撃だ。まだ何もしていないのに、ドッと全身から冷や汗が吹き出す。


 何これ、ヤバっ!


 ドスン! ドスン!


 うわあ、もうどうしようもない。


 「待て!」


 審判が試合を止める。場外だった。何度も場外に押し出されると、最終的に警告が与えられて、相手のポイントになる。見栄えもよくなく、判定にも影響がある。


 「続行!」


 試合場の真ん中に戻って再開するも、すぐに間合いを詰められて、ボディの連打で押し出される。


 「雅史、左のジャブ!」


 2度、何もできずに押し出されて、ようやくパニック状態から抜け出した。開始線に戻ると、ふぅ〜と大きく息をつく。そうだ。とにかくリーチの長さを生かさないと、お話にならないぞ。碧崎さんの指示に従って左を出す。だが、さっきと違って相手が大きすぎて、パンチが当たっているのに押し返された。


 ゴツン、ゴツン!


 拳が相手の胸の筋肉に当たっている感触がある。だけど、ダメだ。当たるけど、壁のような分厚い肉体にはね返される。そして、押し出される。3度目の場外から戻ってくると、審判が僕に「場外に出ない」と注意を与えた。


 まずい。このまま何もできずに負けてしまう。


 「まあくん、頑張れ!」


 マイの叫びに近い応援が聞こえる。頑張りたいのは山々だけど、こんな巨体、押し返せない。


 「あ、審判! すみません」


 心が折れかけた時、背後から碧崎さんの声が聞こえた。


 「なんだね」


 「ウチの選手、出血しています。テーピングしていいですか?」


 見ると確かに、相撲取り君の道着の胸元に点々と血痕があった。自分の手を見る。拳サポーターをしているのに、なぜだろう? よく見ると、左手薬指の第2関節の皮がむけて、少し出血していた。


 審判がうなずく。碧崎さんがテーピングを手に立ち上がって、手招きする。そばへ行った。手を出してテーピングを巻いてもらっていると、スッと顔を寄せてきた。小さな声でささやく。


 「雅史、お前が負けたら、あいつ、お前の彼女をレイプするぞ」


 驚いて目をむいた。えっ? 突然、何を言い出すんですか?


 「な、なんですか?」


 「負けたら、彼女がレイプされる。嫌やろ? 絶対、負けられへんやろ?」


 碧崎さんは僕の顔をのぞき込んだ。その目は真剣だ。


 「……はい」


 「それくらいの気持ちでやれ」


 碧崎さんはテーピングを巻き終わると、僕の肩をポンポンと軽く叩いた。


 「死ぬ気でやってこい」


 最後に見たのは、鼻の頭にシワを寄せている碧崎さんの顔だった。試合開始位置に戻る。あちらを向いて座って待っていた相手が、立ち上がった。


 こんなデブに? こんなブサイクのデブにマイがレイプされる?


 そんなん、絶対にダメだ。突如、猛烈に腹の底から怒りが噴き上がってきた。体が指先までカーッと熱くなる。肺に一気に新しい空気が入ってくるのを感じた。


 絶対に許さないぞ。僕がマイを守るんだ。


 「残り50秒。続行!」


 合図と同時に踏み込んだ。相手は僕の攻撃を避けない。全部、体で受けて押し返す。ならば、渾身の突きをぶち込むまでだ。


 ゴツン!


 左が当たった。でも、相手の圧力に耐えきれず、肘が曲がる。ええい、情けない。もっと力を入れろ! 足を動かす。ステップでくるくる回ってなんていられない。前進だ。


 ゴツン!


 右も当たる。相手の重量で肩が抜けそうだ。だが、それがなんだ。体が砕けても、僕がマイを守るんだ!


 ゴツン! ゴツン!


 奥歯を食いしばって、息を止めて突き込んだ。当たるたびに背中、腰、足までビーンと反動が襲ってくる。いいぞ、こっちも全身で押し返してやる。心臓がバクバクいっている。上等だ。もっと力を出せ!


 同じくらいの長身とはいえ、腕は僕の方が若干長い。しかも前進しながらなので、相手も突き返してくるものの、当たらない。


 こんなやつにマイを奪われてたまるか!


 ゴツ、ゴツ、ゴツン!


 ワンツーからボディブローまで繋げて押し込んだ。肘が、肩が、背中が、腰が、足が、打撃を放つ衝撃で引き裂けそうだ。構うものか。マイを守るためなら、全身が引きちぎれても構わない。


 「うおぉるらぁ!」


 相手は何やら雄叫びを上げながら押し返そうとするが、僕のよく伸びた腕から繰り出すパンチを次々に浴びて、攻勢に出られない。一生懸命押し返して疲れが出てきたのか、口をへの字に曲げて、苦しそうな表情になってきた。


 「そう、長く! 長く使って!」


 碧崎さんの声がよく聞こえる。


 「待て、待て!」


 審判の声で我に返った。相手を場外に押し出していた。開始位置に戻される。


 「雅史、ラスト20!」


 「ラスト20や、まとめろ!」


 相手のセコンドからも指示が飛ぶ。


 「うるるらぁ!」


 雄叫びを上げて襲いかかってくる。


 いやあ、ダメだ。絶対にダメ。こんなやつにマイを渡すわけにはいかない。指一本、触れさせない。間合いに入った瞬間、左ジャブを当てた。ズルズルッと押し込まれるが、相手の前進はそこで止まった。


 よし、反撃!


 ステップワークで左に回り込みながらゴン、ゴン、ゴンと左を当てて、右ストレート。完全に相手の足が止まったので、再びワンツーで押し込んだ。息を吸う。不思議だ。もうヘトヘトのはずなのに、まだ力が沸いてくる。


 渡すもんか。大切なマイを渡すもんか。


 ああ、すごい。


 実際にはそんなこと起きなくて、ただの妄想なのに、それでこんなに力が出るなんて。


 僕がマイを守るんだ!


 ゴツン!ゴツン!!ゴツン!!!


 いい感じでパンチが連打で当たる。


 「やめ! やめ!」


 ピピピピピッ!


 アラームの音とともに、試合が終わった。試合開始位置に戻る。


 「はい、道着直して、正面向いて」


 道着はさっきの試合同様、大きくはだけていた。汗がだらだらと垂れ落ちる自分の薄いお腹を見ながら、上着を帯に挟み込む。肩が大きく上下して、自分の息が経験したことがないほど荒いことに、驚く。後半はだいぶ盛り返したぞ。前半、完全にペースを握られた分を取り戻せただろうか。


 「判定取ります、判定!」


 副審の旗が上がる。


 白、白


 「白、白、主審、白!」


 「よっしゃああああ!!」


 相撲取りが天を仰いで、雄叫びを上げた。


 ……。


 負けた……。


 最初から終盤の戦い方ができていれば、もう少し競った結果になっていたかもしれなかった。


 マイを守れなかった…。


 試合場を出る前に、相撲取りと握手をした。大喜びして、汗まみれのままハグしてくれたけど、僕はハグを返すのはもちろん、目を見ることもできなかった。


 離せ、汚らしい。


 「なんや、だらしない! なんで後半の戦いが最初からできへんの?!」


 真っ先に駆けつけてきたのは、ミユちゃんだった。目を吊り上げて、めちゃくちゃ怒っている。


 「これから決勝やのに、その直前にしょっぱい試合しやがって! このあほんだら! あほ!! あほめ!!」


 ほっぺたも真っ赤にして、珍しく僕に直接、かみついた。


 「まあまあ」


 碧崎さんが割って入った。


 「ヒトシくん! せやかて!」


 碧崎さんはミユちゃんの肩に手を置いて「よし、よし」と言って落ち着かせた。ミユちゃんはまだ言い足りない様子だったが、うぐぐぅとうめいて静かになった。


 「後半、修正できただけでもよかったんとちゃう? まだ初級やで。なかなか途中で変えたりでけへんし」


 「そうなんですか?」


 碧崎さんにも叱られるかなと思っていたので、評価してくれたのは意外だった。


 「うん。でも、試合前に言うてた通りやろ。足止めたら負けるって。メンタルを追い込むまで、それができへんかったというのは、一番の反省点やろな。ここが無法地帯やったら今頃、雅史の彼女はあっちの陣営に拉致されてる」


 碧崎さんは親指立てて、マイを指差した。


 「謝ってこいや」


 そう言って、ニヤッと笑った。


 「そうや! せっかく応援に来てくれたのに金メダルもかけてやれへんのか! この甲斐性なしが! あほ!」


 ミユちゃんがまたエキサイトし始めた。しかし、彼女の罵詈雑言は、なぜこんなにオバサン臭いのだろうか。


 僕は、肩を落としてとぼとぼとマイのところへ向かった。


 「お疲れさま。惜しかったね……」


 マイは胸の前で両手を組んで、優しくねぎらってくれた。まだ何か言おうとするのを、制した。


 「すみませんでした」


 「え?」


 「守れなくて、すみませんでした」


 僕は上半身を90度曲げて、深々と頭を下げた。


 「へ?」


 あかん。不覚にも涙が出てきた。


 「まあくん、どうしたん?! なんで泣いてるん? そんな悔しかったん?」


 マイは驚いて、僕の腕をつかんで揺さぶる。それを碧崎さんがニヤニヤしながら、遠巻きに見つめていた。


 午後から代表も応援に駆けつけてくれた。この日の結果。僕、準優勝。銀メダル。ミユちゃん、優勝。金メダル。ユウダイくん、2回戦敗退。豊岡さん、初戦敗退。串本さん、3位。銅メダル。でした。


 帰り道、銀メダルをマイの首にかけてあげた。


 「ありがとう。ピカピカや。重いね」


 メダルをなでて、ニコニコと喜んでいる。


 黒沢は空手の大会で手に入れた金メダルを、マイにかけてやったのだろうか。調子のいいやつだから、間違いなくかけているだろう。


 僕もいつか、金メダルをかけてあげたい。優勝して、年齢階級別とはいえ、一番になったところを見せてあげたい。こうして応援に来てくれているのだ。それが何よりの恩返しだ。僕は初めて試合で勝った喜びよりも、自分の不甲斐なさに押しつぶされそうだった。

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