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第57話 負けたくない

 新田に誘われた試合はまだまだ先だったが、空手の試合の日はあっという間にやってきた。


 公式な試合は、真正館所属だった5月以来。ネバギバ移籍後は、初めてだ。黒沢に失神&失禁KO負けして、マイが黒沢と付き合い始めたことが発覚して、ダブルの悪夢となったあの日以来だった。1週間前からガチガチに緊張して、明日斗にアドバイスを求めて何度もLINEを送った。


 『緊張するのはどうしようもないから、そういうものだと受け入れろ』


 何のアドバイスにもなっていない。


 『相手より強ければ勝つ、弱ければ負ける。それだけのことだ』


 何だかカッコいいことを言っているような気がするが、負けるのは嫌だ。


 マイに勉強を教えている時は基本的にマイのことで頭がいっぱいになるのに、この1週間だけはふとした時に試合のことをいろいろと考えてしまい「まあくん、めっちゃ緊張してるやん」と突っ込まれた。


 負けたくない。今度は勝ちたい。


 直前まで全くペースを落とさずに練習していると、碧崎さんから「もうそんなにやらなくていい。疲れを抜いた方がいい」と注意された。だけど、僕が練習している間に相手はもっと練習して、もっと強くなっているのではないか?という不安に襲われて、ペースを落とせなかった。


 「好きにやらせてやればええ。高校生やし、少々無茶しても当日には回復するやろ」


 代表はその辺りは割と適当で、気が済むまでやらせてくれた。正規のクラスが終わった後も翔太にビッグミットを持ってもらって、閉館時間まで自主練した。毎日、ジムを出る時にはその場でぶっ倒れて寝てしまいたくなるくらい、くたくただった。


 当日はカチコチに緊張しているところをマイと母さんに見られたくなくて、先に家を出た。


 試合会場は舞洲アリーナのサブアリーナ。前回、試合に出た時に選手控え室だったところだ。会場で翔太と合流して、受付を済ませる。今回、高校生初級重量級へのエントリーは3人。真正館ではどんなに人数が少なくてもトーナメントだが、真正会館は巴戦だった。初戦で敗退しても、もう一回、戦える。重量級なので計量はない。第1試合まで、2時間ほどあった。


 選手の正式なウォーミングアップのスペースはなかった。みんな会場の隅や廊下で体をほぐしていて、僕もメインアリーナの廊下でやることにした。準備運動をしてからミット打ち。3分間を3セットやってから、試合時間と同じ2分間で2セット。寒さと緊張で全然、体が温まってこない。息は切れて汗もかいているのに、手足の指先は冷たいままだった。


 「雅史、リラックス」


 珍しく翔太が声をかけてくれる。それくらい、はたから見ても緊張していたのだろう。翔太は受け返し程度の軽いスパーの相手までしてくれたけど、相変わらず体が温まった感覚はなかった。


 「試合が始まる。戻ろう」


 促されてサブアリーナに戻る。こんなに翔太に話させているなんて、僕はよほどひどい状態に見えているに違いない。


 ここはメインアリーナと違い、観覧席はない。みんな団体ごとに分かれて、壁際に張り付いている。ネバギバは入り口から一番遠い位置に陣取っていた。


 今回の参加者は僕を含めて5人。僕、ミユちゃん、小学3年生のユウダイくん、一般の部(高校生以上35歳以下)に参加する豊岡さんと串本さん。2人とも真正館の経験者で、社会人になって空手から離れ、ネバギバに入ってまた再開したクチだった。


 アップ時に着ていたジャージーを脱いで、ネバギバの道着に袖を通す。ひと際、異彩を放つ「NEVER GIVE UP」の文字。ついにこの道着を着て戦う時が来た。エンブレムにそっと触れると、緊張がほどけていくような気がした。少し体が熱くなって、身が引き締まる。


 すぐにユウダイくんの試合が始まった。小3男子の中級軽量級に出場。初戦は他流派同士の対戦で手数で圧倒して勝利。幸先がいい。


 続いてミユちゃん。小5女子の上級重量級にエントリー。ミユちゃんは実際は軽量級なのだが、同じ体重同士では相手にならないので、重量級に出ている。初戦は真正会館の選手だった。相撲取りのように大きく、背も高い相手をフットワークで翻弄し、突きの連打と前蹴りで押し込んだ。


 仲間たちの試合を応援していると、さらに緊張がほぐれてきた。試合を終えたミユちゃんが戻ってくる。ほおを赤く染め、前髪を上げた額に汗が光っている。完勝だったとはいえ、大きな相手にそれなりにしんどい試合をしてきたようだった。


 「ナイスファイト!」


 ハイタッチをしようと手を出すと、無視された。翔太とはニヤッと笑ってハイタッチしているのに。


 「まあくん、来たよ」


 マイと母さんがやってきた。多少、緊張がほぐれていたとはいえ、愛想よく何か話すような余裕はない。2人はネバギバが荷物を集めている一角に座った。


 もうすぐ試合だ。軽くシャドーをして、集中する。しばらくすると、碧崎さんもやってきた。パーカーにジャージーというカジュアルな出立ちだ。


 「ヒトシくん、遅いわ! もう1試合目、終わってしもたで」


 プンプンと怒っているミユちゃんに突っ掛かられて、苦笑いしている。


 「ミユちゃん、セコンド要らんやろ」


 殴りかかるミユちゃんと、じゃれている。兄妹みたいだ。


 「要るわ!」


 「次、誰なん?」


 「あ、僕です」


 なんとなく会話が耳に入っていたので、振り向いて手を上げた。


 「じゃあ、セコンド行くわ」


 碧崎さんはミユちゃんの頭をぐりぐりとなでると、僕の方にやってきた。


 セコンドかあ。前、試合に出た時はセコンドなんていなかった。試合中、パニックってアドバイスが聞き取れなかったらどうしよう。碧崎さんは厳しいので、後でめちゃくちゃ叱られるような内容にはしたくないな。


 どんどんマイナスな方向にばかり、思考が行ってしまう。


 とか何とかやっている間に、1試合目が始まった。試合場に行き、初めて自分の対戦相手と会う。背は低いが、ガッチリとしたラガーマンみたいな体格だった。この背丈で重量級ってことは、だいぶ筋肉が多いんだろうな。強そうだな。また緊張してきた。呼吸が浅くなって、心臓がバクバクし始めた。


 「負けたら許さんぞ」


 背後から、ミユちゃんのドスのきいた声が聞こえる。プレッシャー、かけんなよ。


 「たぶん、ガンガン前に出てくるタイプだろう。ストレートと前蹴りで近寄らせるな。どっちも上から打ち下ろせ。足を止めるな。接近したら膝蹴りな」


 碧崎さんが僕の肩に手を置いて、ささやき声でアドバイスを送る。


 「あと、一発受けるまで、攻撃するな」


 これは練習中からずっと口酸っぱく言われていたことだ。ディフェンスからリズムを作るのが碧崎流。先に攻撃してうまく行かないと、その時点で崩れてしまうのだという。


 「集中だ。プラン通りにやれ。一か八かは要らない」


 背後から、僕の肩をポンポンと叩く。わかりました。だけど、プラン通りにできるかなあ。緊張で、もう頭が真っ白になってきた。


 前の試合が終わり、選手が試合場を出る。審判が手を上げて、僕たちを招き入れた。一礼して、試合場に入る。足元がフワフワして、宙を歩いているみたいだった。


 「まあくん、ファイト!」


 マイの声援が聞こえた。


 「正面に、礼! お互いに、礼!」


 審判の合図で、相手と向き合う。ここで初めて、相手と目が合った。


 体格と同じく顔もゴツい。まさにラグビー部にいそうだ。軽く微笑んでいる。いいな、笑う余裕があって。自分では見ることができないが、僕の顔は今、緊張でこわばって、真っ青になっているはずだ。


 「構えて、始め!」


 突っ込んできた。手を前に出して突きをいなす。ローキックが来る! 膝を上げて、カットした。


 よし。一発、受けたぞ。そう思った瞬間、ドッといろいろな音が聞こえてきた。さっきまで緊張で、何も聞こえていなかったのに。ザワザワという観客の声、碧崎さんの「自分のリズム!」というアドバイス、マイの「ファイト!」という応援。おお、聞こえる。聞こえるぞ。


 気がつけば、場外ギリギリだった。危ない。フットワークを使って回り込む。追いかけてくるところを、ジャブで迎撃した。拳が、相手の胸の分厚い筋肉に食い込む感触があった。おっ、当たったぞ。


 どうやら相手は、防御するつもりはあまりないらしい。プレッシャーをかけて追い詰めて、打ち合いに持ち込みたいみたいだ。僕のジャブをガツンガツンと胸板に浴びながらも、薄笑いを浮かべて強引に前に出てくる。


 しつこいな。


 必死になって回り込みながら、左ジャブ、右ストレートと胸元に打ち込む。パンチの打ち終わりに距離を詰めてくるので、膝蹴り。だが、あまり効いてないみたいだ。膝蹴りをもらいながら前進して、パンチを集めてきた。胸、お腹に衝撃を感じる。筋肉に力を入れて防御する。それでもドシッと背中まで響くような威力があった。


 「雅史、足を止めるな! 回れ、回れ!」


 碧崎さんの指示が飛ぶ。


 そうだ。打ち合ったらまずい。相手は主催者側の選手だから、それだけですでに有利なのだ。僕と五分に打ち合えば、審判は身内の選手を勝たせる。どう見ても僕が勝っているという試合にしなければいけなかった。


 回り込んで、距離を取った。相手が再び追いかけてくるところに左ジャブ、前蹴り。相手は眉間に皺を寄せて、ちょっと苦しそうな顔をして、止まった。止まったぞ。そこを逃さずワンツー、前蹴り。奥歯を食いしばって、つま先を腹筋にめり込ませるようにして蹴る。相手の笑みが一瞬、消えた。


 「いいぞ、押し込め! 蹴りはいらん!」


 碧崎さんのアドバイスが、よく聞こえる。相手は必死で押し返そうとするが、僕のリーチは長い。押し返してくるところにゴツン、ゴツンとパンチが当たる。


 必死になってパンチを打ち込んでいると、相手が下がり始めた。チャンスだ。


 「待て! 待て!」


 気がついたら、場外に押し出していた。審判に止められて、試合場の中央に呼び戻される。


 「雅史、ラスト30! 最後までリズムを崩すな!」


 「続行!」


 審判の合図と同時に、相手はまた突進してくる。近寄らせてたまるものか。当たる感覚は、もうわかったぞ。接近してくるところに左ジャブ。続いて右ストレート。胸元に集中させて押し込む。


 「足、動かして! 足!」


 「まあくん! 頑張れ! ファイト!」


 「城山! いけ! 城山!」


 いろいろな人の声が聞こえる。


 心臓は破裂寸前だった。胸の奥の方が、焼けるように痛い。必死になって息を吸おうとするけど、全然足りない。だけど、あとちょっとだ。こんなに、みんなが応援してくれているんだ。それに勝って応えたい。そのために最後まで、攻め切らないと。


 勝つまでやるんだ。あとちょっとだ。


 相手は、もう笑っていなかった。試合前の、余裕の笑みはなかった。泣いているような、怒っているような、潤んだ目。ああ、この人も必死なんだ。


 怖かった。こんな必死にやっている人に、僕が勝てるのだろうか? いじめられっ子で、まだまだ初心者の僕が。唇が震える。いやいや、今は怖がっている場合じゃない!


 「まあくん、ラスト! スパート!」


 マイの声が聞こえる。負けるのは嫌だ。負けたくない。


 息が苦しい。パンチを打ち続けて、呼吸をしている暇がない。拳が体にぶつかるたびに、視界の隅がチカチカと光るように感じるのは、なんなのだろう。相手の胸に拳が当たるたびに、腕が肩からちぎれて落ちそうだ。だけど、試合終了まで、止めるわけにはいかない。


 「やめ、やめ!」


 ピピピピッ


 審判の声に、試合終了を告げるタイマーのアラームが重なった。

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