新田による黒沢襲撃事件があってから3日後、マイはようやく僕を解放してくれた。
一緒にいたかったので別に解放してくれなくても全然、構わないのだけど、本人が真剣に「まあくんは自分の教室で授業を受けてきて」と言うので、断って余計なストレスを感じさせるのもどうかと思って、教室に戻った。
黒沢はまだ学校を休んでいた。梅田に聞いたところによれば、肋骨をはじめ複数箇所を骨折して、自宅療養しているのだとか。
ざまあみろ。
一方の新田は、黒沢だけではなく宮崎先生も殴ったことで無期停学になった。
あの時、新田はなぜ黒沢を殴ったのだろう。黒沢の手足となって、黒沢が殴りたい相手を殴ってきた切り込み隊長だったのに。それが〝主人〟に牙をむくとは。
僕たちを助けてくれたのか? 聞きたいことはたくさんあった。
休み時間のたびに、マイの顔を見に行く。
「そんなに毎回、来んでええよ」
困った顔をしているけど、口元は微妙にニヤついている。
「そういうわけにはいかない」
「なんなん? そんなに会いたいん?」
茶化すようにして、僕を上目遣いに見た。
「うん」
素直にうなずくと、耳まで真っ赤になった。あっちを向いて前髪をいじりながら、照れている。
〝隔離室〟にいる生徒は大体、いじめられっ子の陰キャども(僕もそうだけど)なので、休み時間に友人が訪ねてくるやつなんて、他にいない。休み時間のたびに隣に誰かがいるのは、マイだけだった。
「あの、ありがとう」
マイは自分の指先を触りながら、モジモジする。その仕草が愛おしい。
「どういたしまして」
僕は胸を張った。
「あの、ありがとうついでなんやけど」
「なんでしょう」
「購買でホットドッグ、買ってきて」
えへへ…と照れ臭そうに笑った。
「え」
「最近、お弁当が足りなくて」
マイは本来、よく食べる方だ。いや、はっきり大食いと言っていい。入院中に食べる量が激減して、復帰後のお弁当は「これで足りるのか」というほど少なかった。そもそも弁当箱のサイズが半分以下になっていた。それが足りなくなったということは、食欲が少し戻ってきたということだ。
よかった。
「ええよ。1個でええ?」
「1個でええよ。2個も食べへん」
恥ずかしがって眉根を寄せると、僕の肩をグイと押す。
◇
購買に行ってホットドッグを買い、マイに届けて教室に戻ろうとしていると、目の端にチラリと違和感を覚えた。
あれ?
誰か見知った人がいたような気がする。足を止めて、窓の外を見る。中庭の向こう、北校舎1階の柱の影に、見覚えのある背の高い人影があった。
新田だ。
新田は薄笑いを浮かべながら、親指を立てて「こっちに来い」というジェスチャーをしている。行くべきか、行かざるべきか。以前なら行かないの一択だった。
新田はいじめっ子側の人間だし、それでなくとも学校一のトラブルメーカーだ。だけど、学校中を揺るがした(と梅野が言っていた)黒沢襲撃事件は、何度考えても、僕たちを助けてくれたとしか思えなかった。
ならば、僕は新田と話すべきだ。
授業が始まりそうだったけど、僕は新田が消えた北校舎の裏へ向かった。
新田は校舎裏の土手で待っていた。
「来ないかと思ったぞ」
学生服ではなかった。白地に水色のラインが入ったオーバーサイズのパーカーに、黒いジャージーのパンツ。ポケットに手を突っ込んで、爽やかに笑っている。
「停学中じゃないの」
少し距離を置いて、立ち止まった。
「そうだよ」
「見つかったら期間延長やで」
「見つからないから大丈夫だよ」
胸を張ってハハハと笑った。その自信はどこから来るんだ。まあ、いいや。それよりも…。
「この前のあれ」
こいつが本当に、そんなことをしてくれたのだろうか。黒沢が蹴ったり殴ったりしやすいように、僕を押さえつけていたのに。理由もなく、僕に暴力を振るっていたのに。
「マイを助けてくれたんか」
新田は一歩、近寄ってきた。
「結果的にそうなったけど、俺は城山を助けたつもりだったよ」
照れくさそう笑って、下を向く。
「前、言ったじゃん」
顔を上げる。
「城山を傷つけるんなら、たとえ黒沢でもぶっ殺すって」
そういう文言だったかどうか記憶にないけど、それと似たようなことは確かに言われた。
「殺すつもりでいったのに、あいつ死ななかった。タフやな」
怖いことを、笑いながらサラッと言った。
やっぱりそうだったのか。ほめられたことではない。その後、宮崎先生も殴っているんだし、やはり新田はイカれた暴走マシーンだ。だけど、言っておかなければいけなかった。僕はスッと息を吸って、お腹に力を入れた。
「助けてくれて、ありがとう」
新田は目を見開いて、驚いた顔をした。
「え? なんて?」
「だから、ありがとうって」
新田は少し固まっていた。川から吹き上がってくる風が、フワフワの前髪を揺らす。ポケットから手を出して、照れたように人差し指でほおをポリポリとかくと「そんなこと言われるとは、思わなかったな」と言った。
「それでお前、なんで停学中に学校に来たんだよ。リスキーだろ」
さっきから疑問だったことを聞いた。明らかに僕に会いに来てるだろ。
「城山に会いに来たんだよ」
あごをなで回しながら、照れ臭そうに言う。ほら、やっぱり。
「何。まだ何かあるの」
拳に力を入れて、少し身構える。
「俺、もう学校に戻らないかも知れないし。だから、対戦の約束しとこうかなって」
「しつこいな。やらないってば」
「ちゃんとルールのあるところでも、ダメか?」
新田はパーカーのポケットから、くしゃくしゃになったA4用紙を取り出した。僕に向かって、差し出す。なんだろうと思っている間に近づいてきて、手渡された。うかつに接近を許してしまったが、新田は何もしなかった。
「それ。そこでやらないか?」
折りたたんだ紙を指差すので開いてみると、何かの大会の要綱だった。
なになに、キックボクシング大会『ナックルズ』……。
え、めちゃくちゃ真面目な大会じゃん。ちゃんと世代別、体重別だし、防具の規格も明記してある。開催は来年3月だった。
「3カ月あったら準備できるだろ。俺もボクサーだからさ。キックに対応する時間がほしいし」
新田を見た。あれ、こいつ、こんな顔ができるんだ。いつも笑っていても、本当に心の底から笑っているのかわらかない不気味さがあるのだが、今は実に楽しそうに笑っている。
「一度きりでいいからさ。思い切り、殴り合いしよう。で、負けた方が掘られるんな」
えへへぇといやらしい笑い声を出す。うわあ、前言撤回。やっぱりこいつ、気持ち悪い。ゾゾッとする。
「少し考えさせてくれ」と、とりあえず答えを保留して、その場から逃げるようにして去った。例によって背後から、新田の「またここで待ってるぞ!」という、うれしそうな声が聞こえた。