黒沢も新田も、翌日から学校を休んだ。クラスの、学年の主を失って、教室はなんだかふわふわと落ち着かない感じだった。学年を仕切っていたトップと、その切り込み隊長がいなくなったわけで、代わりに誰が支配者になるのかなと注意深く見ていた。いじめられっ子は、そういうことに敏感でなければならない。
黒沢の後釜に座る人間は、すぐには現れなかった。まあ、そりゃそうだろう。完全なワンマン支配だったから。
岩出の一件以来、黒沢グループで僕に接触してくる人間は新田以外、いなかった。その新田も別に暴力を振るったり、言葉で傷つけてくるわけではない。結果的に岩出を不登校に追い込んだことで、一目置かれるようになったのかもしれなかった。
とはいえ、警戒は怠らなかった。
マイが通院で学校を休む日は、僕も学校をサボって朝からネバギバに行った。マイが家に戻ってきて以来、朝から晩までジムにいる日が格段に減ってしまい、それに伴って練習量も激減してしまっていた。
「いやいや、激減って。それでも普通の人がやらないくらいやってるでしょ」
僕が「激減です」と言うと、岡山さんは小さな目をむいて大袈裟に驚いた。
「週3で夜クラスに来て、毎週末走っていれば、十分に多いよ。普通、週2で自主練なしくらいなんだから」
「そうなんですか?」
「プロになるには足りない」
翔太が真顔で口を挟んできた。
「それはそうとあの人、どなたですか?」
僕は翔太を無視して、岡山さんに聞いた。見たことがない人が朝クラスに来ていた。
若い。小さな切れ長の目に、薄い唇。ちょっと怖い感じがするものの、少年の面影を残した顔立ちを見ると、僕とそう変わらない年齢なのかもしれない。ただ、体がすごい。マットスペースで開脚のストレッチをしているのだが、足の太さが半端ではない。肩や背中も、シャツ越しでもかなり分厚いことがわかる。
「ああ、
岡山さんがにこやかな顔を崩さずに説明してくれた。
「僕は知っています」
翔太がまた真顔で割り込んでくる。
「すごい体してますけど」
「うん。もうプロだからね。昨年の全日本アマ修の3位だよ。まだ高校生なのに、すごいよね」
え! 思わず息を飲む。あれで3位? あんなすごい体なのに3位なの? もっとすごい人がいるの? むしろそっちの方が驚いた。
「は〜い、練習始めるよ〜」
代表がのんびりした声を出しながら、ミネラルウォーターのペットボトルを片手にマットスペースにやってきた。
「きょうは始める前に、紹介したい人がいま〜す。じゃあ仁志、よろしく」
マイクのように使っていたペットボトルを、碧崎少年に渡す。立ち上がると、僕らの方に向いた。
「あ、どうも。碧崎です」
ボソボソとしたしゃべり方。そのままペットボトルを代表に返す。自己紹介、短っ。でも、それでいいらしい。代表は何も言わずにペットボトルを受け取った。
「知っている人は知っていると思うけど、彼はうちのOBです。中3までいたんかな? プロになりたくて、もっといいジムに行きました。で、めでたくプロ資格を手にしたのですが、それでは飽き足りずに、来年から格闘技やるためにアメリカに行きます。もう高校卒業やからね。それまでの間、うちで練習します。というわけでよろしく」
説明している時に、ミユちゃんがジムに入ってきた。
「あ、ヒトシくんや!」
珍しくニッコリと笑って、手を振る。
「ミユちゃん、久しぶり」
碧崎くんではないな。年上だから碧崎さんだ。仏頂面を崩して、照れ臭そうに手を振り返した。シャイなのかもしれない。
練習が始まった。シャドーしている間、視界の端でずっと観察していたけど、全然、軸がぶれない。腕も脚もきれいに伸びて、実に美しいフォームだった。
「仁志、ちょっとその子、見たってくれ。もうすぐ試合なんや」
代表に言われて、僕は碧崎さんにミットを持ってもらうことになった。
「じゃあ、ジャブ」
……。
なんなんだ、これは。ムスッとしているし、指示が最低限なので、怒られているみたいだ。1セット終わったところで碧崎さんはミットを外した。手招きして、ジムの隅に連れていかれる。なにか気に障ること、したかな? ソワソワしながら、ついていった。
「自分、全然、手が伸びてへんねん」
碧崎さんはムスッとしたまま、軽くジャブを出した。僕の真似だろうか。肩をすくめ、肘を伸ばし切らずにちょこちょこと打つ。えっ。以前に比べて、随分と腕を長く使えるようになったと思っていたんだけど。
碧崎さんは、僕のフォームを直し始めた。以前、代表や千葉さんにされたように、構えた僕の腕や背中に手を添えて、もっとこういう感じで…と直していく。背を伸ばして、胸張って。腕を伸ばして。基本は千葉さんに習った姿勢とよく似ていたけど、肘や肩の位置、腰を回す範囲など、細かいところをいろいろと修正された。
「次、試合、いつ?」
ムスッとしたまま聞かれる。
「2週間後です」
「間に合わへんな」
碧崎さんはボソッと言って、少し遠くを見て考えてから「まあ、ええわ」と言った。
ちょっとイラッとする。こっちは今度こそ本当に勝ちたいと思って日々、練習しているんだ。それを「まあ、ええわ」で済ませてほしくなかった。
「間に合わへんけど、今、調整したところはこれからずっと意識してやって」
そう言って再びミットをつけると、マットスペースにまた連れていかれる。延々と「手を伸ばせ」と言われた。
スパーが始まった。
プロだかなんだか知らないが、僕の腕が人より長いところを見せてやる。いの一番で、碧崎さんに「お願いします」と挑戦した。
ところが、全くパンチが当たらない。
ジャブで攻め込んで、入ってきたら突き放すつもりでやっているのに、ジャブは外されて、打ち終わりにカウンターをもらって、全く敵わない。千葉さんのように、軽やかなフットワークでほんろうするという感じではない。むしろ、あまり動いたように見えないのに、寸前で僕のパンチはかわされ、焦って踏み込むと確実に反撃された。
しかも、破壊力が半端ではない。マススパーで軽くしか当てていないのに、電柱で殴られたような衝撃だ。電柱で殴られたことないけど。ゴツン!とものすごく硬いパンチをおでこにもらって、目から火花が飛んだ。
なんだこれ!
何ひとつ思うようにやらせてもらえず、わずか2分で息が上がった。終わるや否や、ミユちゃんがニコニコしながら碧崎さんのもとに駆け寄ってきた。
「ヒトシくん、お願いします!」
「押忍」
ミユちゃんなら、この人をどう攻略するのだろうか。じっと見ていると、細かいフェイントを入れながら攻め込んでいく。でも、当たらない。全部、ガードの上。ディフェンスがめちゃくちゃうまい。あんなに相手の攻撃がよく見えるのは、なぜだろう?
午前クラスが終わっても、碧崎さんは居残っていた。
「仁志、2人にフルコンも教えたってくれよ」
代表の指示で、午後は碧崎セミナーが始まった。
「ヒトシくん、城山はまだ全然、自分のよさがわかってへんねん。なんとかして」
ミユちゃんが目をキラキラさせながら訴えている。どうやら、碧崎さんのことがめちゃくちゃ好きみたいだ。お兄ちゃん大好きみたいな好きなのか、それとも異性として好きなのかは、よくわからないけど。
「そうやなあ。でも、試合までには無理」
碧崎さんは微笑みながら僕をチラッと見ると、改めてバッサリとぶった斬った。
「あかんって。チャンピオンのスパーリングパートナーが初戦敗退なんて、カッコ悪すぎる。試合までになんとかして」
ミユちゃんはすがるような眼をして食い下がる。
「無茶言うなあ」
碧崎さんは苦笑いした。
「あの…。僕からもお願いします」
僕もおずおずと頭を下げた。碧崎さんはつけかけていたミットを、また外した。呆れた顔をして、僕を見る。端正な顔立ちだ。切長の目、引き締まった口元。ミユちゃんも侍っぽい顔をしているけど、碧崎さんはまさしく侍という雰囲気を漂わせていた。
「簡単にできることちゃうねん」
笑みが消えて、ちょっと怒った顔になる。
「はい。でも次の試合、勝ちたいんです」
ちょっとビクッとしたけど、引き下がらないぞ。僕だって本気なんだ。
「カノジョが見にくるからな」
ミユちゃんがニヤニヤしながら、茶々を入れた。
「しゃあないなあ」
碧崎さんは右手でパーを作ると、僕の目の高さに上げた。
「これ、打ってみ」
えっ、なんだろう。なんでミットじゃないんだ。意味がわからなかったけど、言う通りにした。
「はい」
ピシッ。碧崎さんの手のひらに、僕の拳頭が当たる。我ながらスナップの利いた、いいパンチだ。しっかり腕も伸びている。
「じゃあそのまま足を止めて、次はここ打ってみ」
少し後退する。
遠いな。
ピシッ。
「あかん。体は前に行ったらあかん。腕を伸ばすだけ。もう一回」
え、体、前に出ていたかな。そんなつもりはなかったけど。
「はい」
この後、ジャブの猛特訓を受けた。それこそ左の背中が肉離れしかけるくらい。今までと全然、違う。手を伸ばしていると思っていたのは、錯覚だった。肩や背中が、まだまだ縮こまっていた。碧崎さんの言う通りにすると、僕のパンチは足を踏み出さなくても、もっと遠くまで届いた。
僕と年齢は2つしか変わらないのに、こんなに考えて練習しているなんて。これがプロになる人の思考なんだ。明日斗が「プロになる」と常々話しているので、プロを割と身近に感じていたけど、全然違う。フィジカルはもちろんだけど、メンタル…思考が全然違うのだ。ちょっとでも目にもの見せてやると思った自分の傲慢さが、恥ずかしかった。