いつかこういう日が来るだろうと思っていた。思ってはいたが、想像以上に早くやってきた。
翌日、〝隔離室〟に黒沢が来た。昼休みだった。ガラッと音を立ててドアを開けて、いきなり入ってきた。
「よお、マイ」
軽く手を上げて、もう一方の手はポケットに突っ込んだまま、大股でズカズカと近づいてくる。自分の教室に入ってきたような顔で、笑みさえ浮かべていた。
昨日から僕は密かに観察していた。黒沢が、マイの復帰に気づいているかどうかということを。いつもと変わらず郡司ら取り巻きとおしゃべりしたり、スマホを見たりしていた。
だけど、気がついていないはずはない。何しろ学年の中心人物なのだ。あいつのところには、情報を持っていくやつがたくさんいる。もう昨日のうちに乗り込んでくるのではないかとヒヤヒヤしていた。今日もだ。
だから、心構えはできていた。とはいえ、来た後にどうするというシミュレーションまで完成していたわけではない。むしろ妙案が浮かばず、来たらどうしよう、どうすればいい?とただ不安になっていただけだった。
どうする。いや、迷う必要はない。マイを守るために、戦うだけだ。
ガシャン!
食べかけの弁当箱を置くと、思った以上に大きな音がした。でも、そんなこと気にしている場合じゃない。椅子を蹴立てて立ち上がる。心臓がはね上がって、早くも手の中にジトッと汗がにじんだ。
どうする、どうする。
ものすごいスピードで黒沢が近寄ってくる。
どうする。
手の届く範囲に来たら、とりあえず殴ったらいいか?
黒沢は取り巻きを連れてきていた。直後に郡司、郡司といつも一緒にいる女子2人、そして新田。福井という岩出のポジションに収まった、小柄なデブもいる。
絶望的だった。
黒沢の強さは、誰よりも僕がよく知っている。あの頃の僕ではないとはいえ、思い出すだに黒沢は強い。フィジカルが強い。殴り合いはもちろん、つかみ合いでも勝てる自信はなかった。その上、新田もいる。仮に黒沢を押し返せたとしても、その後に新田にボコボコにされることは目に見えていた。
だけど、僕がやられたら、その後、こいつらはマイに何をする? それを思うと、ビビってなんていられなかった。たとえボコボコにされても、立ち塞がるつもりだった。
「なんだよ〜。学校に来ていたんなら、俺んとこ来いよ。冷たいな〜」
黒沢はヘラヘラと笑いながら、さらに近づいてくる。
「まあくん」
マイを守ろうとして、かばった左手に温かい感触があった。チラッと振り返と、マイの指だった。ピクピクと痙攣している。嫌な予感がした。
「はっ、はっ」
マイの顔が真っ赤だ。胸を押さえて、必死に呼吸しようとしている。だけど、全然できていない。苦しそうに目をつぶって、顔を伏せた。
これはヤバい。こんな時に過呼吸の発作が出た。
「マイ、息止めて、息」
椅子の背にかけていたブレザーを、頭からかける。
「マイ、ゆっくり息吐いて。ゆっくり」
背中をなでる。おばさん、確かこんなふうにやっていたな。
「おい、マ…」
また黒沢が何か言おうとしているが、今はそれどころではない。チラッと目を向けて、またマイに視線を戻す。その時、黒沢の後ろにいる新田の目が、ギラリと光ったような気がした。
ボコッ
え?
ボコッって、何?
マイの背中をさすりながら振り向いて、目を疑った。
新田が黒沢を殴っていた。真顔で、ワイシャツの襟首をつかんでいる。拳を大きく後ろに引くと、十分にためて黒沢の顔面を打ち抜いた。拳がほおから鼻のあたりにめり込み、黒沢の頭がガクンと揺れる。鼻血が噴き出るところが、スローモーションのように見えた。
不意打ちだったのだろう。黒沢が防御できないのをいいことに、新田は滅多打ちにした。顔、顔、うつむいたところに腹。黒沢はたまらずにその場にうずくまる。新田は、倒れ込んだ黒沢の腹を蹴り上げた。黒沢はぐえっと変なうめき声を出して、床に倒れて丸くなった。机にぶつかって、ガシャンと音がする。
新田は全くの無表情だった。怒りとか、憎しみとか、そんなこと一切、顔に出さずに、淡々と黒沢を殴って、蹴った。
その場にいる全員が固まって、一方的な暴行を見ていた。
「や、やめえ! 新田!」
最初に反応したのは郡司だった。
新田に背後から飛びついて、引き剥がそうとする。新田は郡司のブレザーをつかむと、簡単に片手で振り払って突き飛ばした。
「キャーッ!」
〝隔離室〟の住人の一人である女子生徒が悲鳴を上げた。郡司は床にひっくり返る。ピンクのパンツが丸見えになる。こいつ、またオーバーパンツ履いてない。
「新田くん、やめて!!」
「新田くん、なんで?!」
連れの女子2人はおののきながら遠巻きに叫ぶだけで、助けようとしない。福井に至っては、顔を引きつらせて早々に逃げ出してしまった。職員室に行ったのかもしれない。かもしれないと思っているうちに、宮崎先生が他に何人かの男性教諭を連れて、教室に飛び込んできた。
「やめろ、新田!」
新田を羽交締めにして、黒沢から引き離す。スイッチが入ってしまったのだろう。新田は男性教諭の一人を振り解くと、よりにもよって宮崎先生を殴った。黒縁の眼鏡が吹っ飛ぶ。
黒沢は床に倒れ込んで、ピクリともしない。
騒ぎを聞きつけたのか、職員室からさらに応援の先生が駆けつけてきて、新田はようやく取り押さえられた。どこかへ連れ去られていく。黒沢も先生たちの肩を借りて、どこかへ連れていかれた。
「マイ、大丈夫?」
心臓が早鐘を打っている。自分の手もブルブル震えていた。だけど今はマイだ。ブレザーの隙間からのぞいた。
まだ苦しそうだけど、発作が起きたばかりの、息が止まりそうな息遣いではない。「ふう、ふう」と苦しそうながらも、一定の間隔で息を吐いている。保健室。保健室に連れて行かないと。
そこでハッとした。あの様子では、おそらく黒沢は保健室だ。同じ空間に連れていくわけには行かない。ここで対処しないと。
大騒ぎになったので、昼休みとあって大勢の生徒が野次馬で集まってきていた。「何があったん?」「けんか?」と口々に言い合っているのが聞こえる。教室に入ってこないのだけが、救いだった。
「あの……」
マイの背中をさすっていると、いつも〝隔離室〟にいる女子生徒から声をかけられた。恐る恐る、声をかけてくる。
「あの……よかったら、私の席、使っていいよ」
何年生かわからない。もしかしたら2年生の先輩かもしれない。いつも窓際の後方に座っている子だ。確かに、あそこの方が野次馬どもの目にはつきにくい。それは助かる。こんな時に優しくしてくれるなんて、なんて親切な人なんだ。僕はマイを抱えたまま、頭を下げた。
「ありがとうございます」
移動しよう。
マイに立てる?と尋ねると、声を出さずに小さくうなずいたので、頭からブレザーをかけたまま、肩を抱いて後方の席に連れて行った。
「まあ…くん……」
席に座ると、荒い呼吸のままで話しかけてきた。
「何?」
机の上に置いていた僕の右手を両手で取ると、爪を食い込ませて、痛いくらい握りしめた。
「一緒に……いて…」
もちろんだ。こんな状態だし、あんなことがあった後なのに離れるわけには行かない。
「うん。大丈夫。そばにいる」
マイは僕の右手を引っ張ると、手のひらに顔を埋めた。いつもの落ち着く体勢だ。ただ、眼鏡をかけたままだ。痛くないのだろうか。
「黄崎! 大丈夫?!」
やっと香川先生が教室に飛び込んでくる。僕は事情を説明して、午後の授業を抜けさせてもらうことにした。保健室には思った通り黒沢がいるとのことだったので〝隔離室〟でマイの回復を待った。
◇
マイは5時間目の途中に復活した。
「ああ、苦しかった……」
そう言って無理に力なく笑った。苦しかったどころではないと思う。
「マイ、もうきょうは帰ろうか?」
ハラハラする。心配で仕方がない。
「ああ、いや…。大丈夫。まあくん、クラスに戻らなくてええの?」
「香川先生に言うて抜けさせてもらった」
「そうなんや。ごめんね」
「謝らんでええよ」
少し落ち着いたみたいで、よかった。背中をポンポンと軽く叩いてあげる。
「ほんま、ごめん」
「ええって」
マイは、はあ〜と深いため息をついて、机に突っ伏した。
「マイ、無理して学校来んでええから。キツかったら全然休んでええし。途中で帰ってもええんやし。不登校の先輩が言うんやから、間違いない」
僕の経験から言えば、そうなのだ。
「いやぁ…それは嫌やなぁ」
マイは下を向いたまま、小さな声で不満げに言った。
「なんで」
顔を上げた。僕のブレザーを着ていたことに気づいて脱ぐと、椅子の背にかけた。
「だって、まあくんは学校行くやん?」
「うん。でも、僕とマイでは事情が違うし」
「まあくんと一緒に、この高校を卒業したいから」
サラッと言った。
「ああ、そうか」
「うん」
ああ、そうか。
って、えっ! 今、なんて? 一緒に卒業したいって……。
この前、チラッと考えた自分の思い込みとあまりに一致していたので、驚いた。そして、胸がドキドキし始める。
え…なんか、うれしい。もう一度、言って。
「え、なんて?」
「なんてって、何が?」
「え、いや…その…一緒に卒業って……」
「するよ。するから、頑張ってるんやん」
ダメだ。なんか食い違ってしまった。マイは一瞬、怪訝な顔をしたが、すぐに素に戻った。僕のドキドキを知ってか知らずか、鞄から分厚いクリアファイルを取り出す。
「一緒にプリントする?」
うん。する。一緒にするわ。