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第53話 再開

 マイは翌日、初めて登校できた。


 ただ、クラスには行かない。小中学時代の僕と同じように、学校には行けても、クラスには行けない生徒が行く教室へと行った。本人はクラスに行くつもりだったが、登校しておばさんと一緒に職員室に直行し、香川先生から「少しずつ慣れようね」と別名〝隔離室〟行きを告げられた。


 その教室は南校舎の1階、職員室を出て階段を挟んだ向かい側にある。先生がすぐに見に来ることができるからだ。不登校になった生徒は、まずはここでクラスに復帰するためのリハビリを行う。時間割り通りに勉強して、帰宅する。基本的にプリントだ。手の空いている先生が来て、遅れた分の勉強を教えてくれることもある。少なくとも花中ではそうだった。


 ここにスムーズに来て、なんの障害もなく勉強してクラスメイトと一緒に下校できるようになれば、復帰に前進というわけだ。すでに数人の生徒が来ていた。座席間は可能な限り広く取ってあり、後方の端に一人ずつ。真ん中にも一人いる。


 「黄崎はここね」


 香川先生はニコッと笑うと、窓際の前方の席を手のひらでポンと叩いた。


 なんでそんなことまで知っているかというと、マイが手を離してくれず、僕もこの教室に来ているからだ。握っている力が強い。救命ロープでも、こんな力ではつかまないだろうというくらい、強く握りしめている。駅からずっとだ。唇を一直線に結んだまま全く話そうとしないし、肩に力が入っている。発作こそ起こしていないが、かなり緊張しているのがわかる。


 「お母さんと話してくるから、ちょっと待ってて。城山、少し一緒にいてあげてくれるかな? 宮崎先生には少し遅れるかもしれませんって言っとくから」


 香川先生は僕に話しかけた。嫌だと言っても、マイが離してくれそうにない。


 「大丈夫です」


 促して座らせる。マイは椅子をものすごく重そうにぎいいと音を立てて引くと、少しためらった。それからガタガタと音を立てて座ってから、ようやく手を離してくれた。表情が硬くて、目が泳いでいる。僕も隣の席に座った。


 「大丈夫?」


 カバンから筆箱を取り出し終わったタイミングを見計らって、声をかけた。


 「うん。頑張る」


 マイはこっちを見ていない。こわばった表情のまま、教室の開きっぱなしのドアの向こうを見ている。


 朝イチなので、教室へ向かう生徒が次々に通る。知り合いがいるのではないか。見つかるのではないか。岩出がいるのではないか。黒沢がいるのではないか。見つかれば、何を言われるのだろう。不安と恐怖が胸に渦巻いているのが、手に取るようにわかる。


 これは、ずっとそばにいないといけないかもしれない。


 前の方の席なので、ドアの向こうを通る生徒からよく見える。チラリチラリと見ていく連中がいる。2、3年生には顔を知られていないが、1年生ならばマイだとわかるやつもいるだろう。復帰したと知れ渡るのも、時間の問題だ。誰かが通りがかるたびに、マイの肩がピクリと揺れた。眼鏡のブリッジを押し上げる指が、かすかに震えている。


 黒沢の耳に入った時に、やつがここにやってくるのではないかという危惧があった。


 マイは黒沢のことをもう好きではないが、あっちはどう思っているかわからない。まだ都合のいい女だと思っているかもしれない。あるいは、やつのことだ。冷やかしに来るかもしれない。それがマイにどんなダメージを与えるか。想像するとゾッとした。お腹がシクシクと痛くなる。だが、今は我慢だ。


 香川先生がおばさんと一緒に戻ってきた。1限目開始の2分前くらいだった。


 「じゃあ、マイ、お母さん、帰るからね。頑張ってね」


 優しくほほ笑むと、そう言って頭を撫でる。


 「うん。ありがと」


 マイは顔を上げて、ニコッとした。だが、笑みが固い。


 「城山も、もういいぞ。早く教室へ行け」


 香川先生に言われて立ち上がる。


 「まあくんも、ありがとうね」とおばさん。「いえ」と短く返事をした。


 マイをチラッと見た。気のせいか、すがりつくような目だ。うわー、行きにくい。


 「休み時間に来るわ」


 後ろ髪を引かれる思いだった。


 「うん」


 マイは手を差し出してきた。一瞬、なんだろう?と思いつつ、手を握り返してみる。そのまま握手する。


 「1時間目が終わったら、また来るわ」


 「うん」


   ◇


 ダメだ。全然、集中できない。


 香川先生がいたから大丈夫だとは思いつつ、また過呼吸の発作を起こしているのではないか、何か不都合なことが起こっているのではないかと、気が気ではなかった。授業が終わると、何気ない顔をして〝隔離室〟へと行った。出ていくときは意識してゆっくりと歩いていたが、気がついたら小走りになっていた。すでに香川先生はおらず、マイが机に突っ伏していた。


 机の上で両腕を投げ出して、溶けかけの氷みたいになっている。背中が小さく上下している。寝ているわけではなさそうだ。近寄って、そっと背中に触れてみた。


 「あああ…」


 何やら小さなうめき声を発した。


 「どうだった?」


 ドアを背に、隣の席に座る。マイが少しでも、外から見えないように。


 「めっちゃ疲れた…」


 マイは腕を引き寄せると顔の下で組んで、はあ〜と深いため息をついた。


 結局、この日は、休み時間のたびにマイのもとへ駆けつけた。昼休みには弁当も一緒に食べた。マイはトイレ以外は全く教室の外に出ず、そのトイレでさえも、誰にも会わないように授業中に行っていた。


 放課後は「もうちょっと待ってから出よう」と、生徒がある程度、下校したのを見計らってから帰途に着いた。幸いなことに黒沢には会わなかった。岩出は学校に来ていない。あいつも不登校の仲間入りなのだろうか?


 駅を出て、ようやく肩の力が抜けたのがわかった。「めっちゃ疲れた」を連発しているが、少し声のトーンが明るい。


 「これくらいでこんな疲れてたら、先が思いやられるなあ」


 ため息をついて、うーんと伸びをする。ぼやいているが、言葉には安堵の色が混じっていた。


 「久しぶりの学校やったし、しようがないよ」


 「早く普通に行けるようになりたいわ」


 それは少々、気が早いと思う。


 僕の経験から言わせてもらえば、学校に復帰しても、その日の体調とか気分によって行けない日が出てくる。そこで焦って無理に行くと、もっとメンタルのコンディションが悪くなる。


 「ゆっくりでええよ。行きたくない気分の日があるかもしれへんし」


 「そういうわけにはいかへんよ。遅れも取り戻さないといけないし……」


 マイはブレザーの襟をいじりながら、自分に言い聞かせるように言った。


 こんなに学校に行かないといけないとマイを追い立てるものは、なんなのだろうか。


 もしかして、僕? 僕と一緒に学校に行きたいから? いやいや、そんなことはあるまい。それはいくらなんでも、考えすぎだ。でも、最近の仲睦まじさを思い返せば、その可能性はゼロではない。いやいや、ないない。そもそも付き合ってもいないのに、仲睦まじいってなんだよ!


 顔が赤くなるのを感じる。気づかれないように、そっと首をすくめた。


 「まあくん?」


 「わあっ」


 突然、声をかけられてびっくりした。


 「何を妄想してんの? 顔も赤いし。なんかエッチなこと考えてるん?」


 少し怒った顔をして、僕の横っ腹を小突く。すでに処女喪失したやつに、エッチなこととか言われたくねえ。


 「いや、違う。違うよ」


 「これやから思春期の男子は」


 呆れたように言って、少しあごを突き出すようにしてフンと鼻で笑った。


 あ、この笑い方。昔からマイがよくやる笑い方だ。どうだ、参ったかって時にする顔。こういう懐かしい部分が残っているのを確認して、少しうれしくなる。


 「今晩、練習行くん?」


 「あ、行く。ごめんやけど」


 「勉強、どうする?」


 「その後でええ?」


 「じゃあ、わからへんところ、まとめとく」


 マイはニカッと笑った。


 練習を終えて午後10時くらいに帰宅して、その後に勉強を教えた。うちの食卓にマイが来て、晩飯を食っている僕の隣であれやこれやと質問する。小一時間くらいやって、帰っていく。大変だったけど、短時間でも頼ってくれるのはうれしかった。父さんも帰ってきて、竜二もリビングにいて昔、マイが3人目の子供みたいに、うちに入り浸っていた頃を思い出した。

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