午後練が終わると2人してまた駅前のコーヒーショップに行って、ミラノサンドで腹ごしらえをした。あまり引っ張ってマイに負担をかけてもいけない。夜は1コマだけ出て帰ろう。
夜1クラス目は打撃で、試合も近いのでフルコンルールでの練習だった。参加者多数。次から次へと「あの子、誰?」「彼女?」と声をかけられる。内心、ニヤニヤしているのだが、我慢して表情には出さない。終わって着替えて帰ろうとしたところで、千葉さんにバッタリ会った。僕とマイを見比べて、微妙な笑みを浮かべる。
「え、城山ぁ、この子、誰ぇ?」
わざと粘っこい話し方をして、スーツ姿のまま僕の胸をつついた。
「あ、この子はですね」
「彼女ぉ?」
ニタァと実にうれしそうに笑いながら、僕を見上げる。最後まで聞けっちゅうの。思わず横目でチラリとマイを見る。少し目を見開いて、千葉さんの勢いに気圧されているようだ。
「なんだ、城山も隅に置けないな! こんなかわいい彼女がいたなんて! もう練習に来られなくなっちゃうんじゃね?」
千葉さんはもう我慢できないとばかりに笑い出すと、僕の胸に逆水平チョップを食らわせた。うぐっ。一瞬、息が詰まる。
「女ができると、格闘技やめちゃうやつ、多いからな…」
いつの間にか、Tシャツ短パンに着替えた長崎さんがそばに来ていた。少し怖い顔をしている。
「そうそう。女の子と遊んでいた方が、ずっと楽しいからねえ。城山はまだ高1だろ? 若いからなおさらじゃん?」
千葉さんはめちゃくちゃ楽しそう。今にも踊り出しそうだ。
「違うっす! そんなんじゃないです! マイは幼馴染なんです!」
変な汗をかきながら、必死になって言い返す。
「マイちゃんって言うんだ。え〜、どうなのぉ? 城山は彼女じゃないって言ってるけどぉ」
千葉さん、いじりが止まらない。
「違います! そんなんじゃないんです! 彼女じゃないとはひと言も言ってません!」
「何、こんなにかわいいのに彼女じゃないの? じゃあ、俺にもチャンスあるかな?」
長崎さんは真顔のまま、僕の耳元でささやいた。僕の話、聞いてました?
「お前は既婚者だろうが!」
千葉さんは笑顔満開で長崎さんにツッコむ。2人の漫才が始まった。たぶん、長崎さんもニヤニヤしたいに違いない。一生懸命、真顔をキープしている。それを千葉さんが「何、澄ましてるんだよ」といじり出した。
あはは…。矛先が変わってよかった。愛想笑いをして、マイを促して玄関へ向かう。カウンターにいた代表が、手招きしていた。マイを置いてそばに行く。
「はい」
代表は立ち上がると、僕の目を見て、いつもの真顔でボソッと言った。
「あのな、また連れて来ていいからな」
意外な言葉に、思わず「えっ」と声が漏れた。代表は僕の首の後ろをつかむと、グッと自分の顔のそばに引き寄せた。声を低くして、僕にしか聞こえないくらいの声でささやいた。
「女を連れてきた方が、集中できるやつもおるからな。そういうタイプになれ」
そういうと手を離して、僕のお腹をポンと叩いた。ニコリともしない。でも、なんだか背中を押されたみたいで、うれしかった。
「はい。ありがとうございます」
一礼すると、ジムを出た。
◇ ◇ ◇
「きょうは一日、付き合ってくれて、ありがとう」
わずか一駅なので、歩いて帰ることにした。もう11月も終わりかけているのに、まだブレザーだけで大丈夫だ。今年の秋はどうなっているんだろう。冬はいつ来るんだ。
「どういたしまして。ウチもまあくんの知らない一面が見られて、楽しかったわ」
マイはぶらぶらと大きく手を振って、大股でついてくる。ニコニコして、機嫌は良さそうだった。
「退屈じゃなかった?」
「退屈じゃないといえば、嘘になるかな。もう少し勉強を教えてほしかった」
肩を並べる。夜風がマイの伸びた後ろ髪を揺らしていた。
「こんなにたくましかったなんて全然、知らんかった。なんか、うれしかった」
マイは肘でポンと僕の腕を小突いた。
「たくましい?」
「そうやで。たくましい」
そんなつもりは全然なかったけど、ずっと僕を見ているマイが言うのだから、そうなのだろう。
「実は、まあくんがウチを支えると言った時、ちょっとだけ『あのまあくんが?』って思ったんよ」
「失礼やな」
とは言ったものの、無理もない。今までの僕たちの関係はといえば、マイが僕を支えていたのだ。
「ごめんごめん」
マイは顔の前で小さく手を合わせた。
「だけど、きょうの姿を見ていたら、ウチの知っているまあくんと全然、違った。頼もしいわ。かっこいい」
かっこいいと言われて、顔が熱くなる。
「ほめても、なんも出えへんよ」
「あはは。いつも勉強、教えてもろてるお礼やん」
マイはそっと僕の左手に触れた。最初はためらいがちに小指に触れて、少し迷うようにしてから、手を包み込んだ。温かい。ホッとするぬくもりだ。
「きょうは、いっぱい知らん人に会っても大丈夫やった。明日は学校、行けるかな?」
僕が手を握り返すと、マイは顔を上げた。オレンジ色の街灯の光を受けて、ほおが赤く染まっている。
「無理せんでええよ」
「無理するよ。はよ学校に戻りたいもん」
楽しそうだった。楽しそうにそう言えるようになったのは、前進のように思えた。
「まあくんと一緒に、学校行きたいもん」
こっちを見て、ニコッと笑う。
かわいい。
今、手を繋いでいる。はたから見れば、彼氏彼女以外の何者でもない。だけど、まだ告白していない。付き合ってほしいと言っていない。今、ここで言ってしまうべきか。
「マ…」
「12月の試合、見に行っていい?」
言ってしまえと思った瞬間、先に口を開かれた。機先を制されて言葉を飲み込む。試合? 見にくる? それって結構、マイにとっては勇気がいることなんじゃないのかな?
「え? 空手の試合やで? 嫌なこと、思い出さへん?」
「それを乗り越えるのも、ウチがやらなあかんことやから」
立ち止まった。マイの目は真剣だった。
乗り越えないといけない、か。ずっと、いじめから逃げてきた僕とは違う。そもそもマイが戦っているものは、いじめとは少し違う。トラウマというべきか。
無理して戦ってほしくなかった。戦って苦しんでいる姿を見たくなかった。できれば逃げて逃げて、逃げ切ってほしかった。トラウマと戦うのは難しいと思う。僕は戦ったことがない。ここまでずっと逃げっぱなしだ。
マイが戦っているのは、黒沢の影だ。その胸中を想像すると、自分のことではないのに辛かった。
「わかった。でも、絶対無理せんといて」
「うん」
また歩き出す。
聞けば、傷つけてしまうかもしれない。だけど、聞かないわけにはいかなかった。
「ねえ」
「何?」
ひと呼吸、置く。
「黒沢のこと、今はどう思ってるん?」
マイの方を見ることができない。
沿道を自動車が駆け抜けていく音が、やけに大きく聞こえる。ああ、邪魔だな。もっと静かに走れよ。
「どう、と聞かれると、難しいな」
淡々とした声だった。
「好きか嫌いかなら、今は嫌いだよ」
マイは足を止めた。僕も足を止めて振り返ると、目を伏せている。ふうと一つ、息をついた。
「あんな男に引っかかった自分は、ほんまにアホやったなって……」
マイの右手にぎゅっと力がこもる。
「たぶん、人生でワーストの後悔やわ。若気の至り……ってやつかな。そんなんじゃ、済まないよね」
そっと顔を上げて、僕を見た。寂しくほほ笑む。取り返しのつかないことをしてしまったという思いが、微妙な笑みに込められているように感じた。
「じゃあ、もう付き合ってないということで、いいの?」
「うん」
マイはまた目を伏せたが、僕が見ている気配を感じて、顔を上げた。目と目が合う。
「そう…」
「…うん」
見つめあった。鼓動が早くなる。
じゃあ、僕と付き合って。
そう、すんなり言えたら、どんなに楽だろう。ドキドキという心臓の音が、頭の中で反響している。これを聞いただけでもだいぶ覚悟が必要だったのに、さらにもう一歩、踏み込む勇気は、この時の僕にはなかった。
マイがイメチェンしたのは、身持ちの固そうなビジュアルに変えたかったからだ。そうやって過去のあやまちを乗り越えようとしている時に、支えてやると言った僕が、すぐまた恋愛に巻き込むのは間違っている。喉元に出かかった「付き合って」を、僕は改めてぐっと飲み込んだ。
マイのほおが赤い。街灯のせいなのか、それとも……。
「帰ろっか」
「…うん」
そのまま家まで手を繋いで帰った。玄関で別れるとき、手を離すのが名残惜しくて、ギリギリまで指先に触れていた。