目次
ブックマーク
応援する
2
コメント
シェア
通報

第49話 過呼吸

 マイの学校への復帰は、簡単ではなかった。


 うん、まあ、そうだろう。不登校になったことがある僕には、よくわかる。だって、学校に行けなくなった人間にとって、学校は怖いところなんだもの。できれば二度と行きたくない。でも、未成年で、親に食わせてもらっていて、しかも学生であるのならば、行かなきゃいけない。そんな根拠のない理由で、みんな無理やり復帰しようとする。


 そして、苦しむ。


 苦しむくらいなら、行かなければいい。


 不登校歴の長い僕と僕の家族は、その境地に達していた。卒業日数が足りないとか、そんな理由でもない限り、嫌なところに近づく必要はない。学校の外にも人生はある。父さんがそう言ってくれた時には、本当に気持ちが楽になった。


 朝、僕が迎えに行くはずだったのに、寝癖を直せなくてもたもたしていたら、マイの方が先に来てしまった。


 「おはよ」


 玄関先で久しぶりに見た制服姿は、ガラリとイメージが変わっていた。


 「高校デビューするねん」


 入学式当日。太ももの半ばまで丈を短くしたミニスカートにスリムフィットのYシャツ。ブレザーを格好良く着こなして、常にジャージー姿だった中学時代から鮮やかに変身した。女子ってすげえなと感心したものだ。


 きょうはまた違う意味ですごいと思う。よくこんなに変えてきたものだ。


 マイは、スラックスを履いていた。


 清栄学院の制服が比較的、自由なことは以前にも話した。基本、女子はブレザーにスカートなのだが、スラックスを履いても構わない。なんて言ったっけ。最近流行りのジェンダー? あれを意識しているらしい。


 マイはスカートが好きだ。それもミニが。小学生の時からそうだった。もちろんオーバーパンツは常時、着用している。


 「かわいいやろ?」「このスカート、かわいいやろ?」


 何度も聞かれた。そのマイがスカートではないことに、衝撃を受けた。


 髪もずっと襟足が見えるくらいのショートカットだったのに、今は肩口にかかるくらいだ。しかも、中学時代からずっとコンタクトだったのに、眼鏡をかけている。地味子はうちでだけと思っていたら、どうやらこのスタイルで学校に行くらしい。女子力満開でイケイケだった春先に比べると、すっかり守りに入ったように見える。


 「ズボンなんや」


 おはようをすっ飛ばして、思っていたことがそのまま口を突いて出た。


 入院してから、こんなことを言えば傷つくのではないか、これは聞かない方がいいのではないかと、ずっと気を使ってきた。今もそうだ。ただ、それをすると会話がスムーズに進まないことがよくあった。僕が考えている間に、マイが先に何か話してしまうのだ。


 「そうやねん。イメチェンや」


 聞かれて嫌なことではなかったようだ。ブレザーの裾をつまむと、くるり、くるりと左右に回ってみせた。


 「どう? こんなんも似合うやろ?」


 スラックスが似合うかどうかよりも、肩口でふわふわ揺れている髪の方に目がいく。セミロングっていうの? 悪くない。いや、むしろ、いい。


 「うん、似合う、似合う」


 油断すればだらしなくにやけてしまいそうだ。それを必死に押しとどめて、できるだけ真顔で言ってみた。


 「何やそれ。気のない返事やな」


 マイは少しムッとしたようだ。真剣に言ったつもりなんだけどなあと思いながら、靴を履く。


 「ほら、2人とも。ちょっと急ぎなさい」


 マイのお母さんが待っていた。久々の登校とあって先生と話をする。なので、一緒に学校に行くのだ。


 玄関先ではどうということはない顔をしていたが、駅に向かって歩き出すと、マイの表情は見る見るうちに硬くなっていった。


 「あ、黄崎やん」

 「黄崎、おはよ」


 何人かの女子生徒が声をかけてくる。マイは軽く笑って小さな声で「おはよ」と言っているが、緊張しているのは明らかだった。表情が硬いし、先ほどから頻繁に小さなため息をついている。


 緊張しているというより嫌な記憶、これから起きるかもしれない嫌な妄想と戦っている。


 学校に行けば自分がやったこと、やられたことを少なくない人間が知っている。きっと後ろ指を刺されるだろう。どんなことを言われるのだろう。以前の友人たちは、変わらずに付き合ってくれるだろうか。自分の味方でいてくれるだろうか。それを想像すると、恐怖で足がすくむ。


 マイの胸中を察すると、胸が痛かった。


 電車に乗っている間、おばさんがたわいもない話をしていたが、僕たちはずっと黙っていた。


 駅で降りる。時間的に清栄学院の生徒だらけだ。さすがにブレザーを着ている生徒が増えたが、まだ半袖ポロシャツも目立つ。もうすぐ12月だぞ? だけど、今年は秋が全くなくて、つい先日まで気温20度の日があったのだから、仕方がない。


 左手の小指が何かに触れた。そうかなと思って見ると、やはりマイの手だった。あまり力を込めず、添えるように僕の指をつかんでいる。振り返ってみると、マイは青白い顔をして、さっきよりもずっと不安そうだった。細い左手を、そっと握り返す。大丈夫。無理しなくていいよ。ゆっくり手を引くと、のろのろと進み始めた。


 黄崎だ。

 あれ、黄崎ちゃうの。


 どんどん追い越されていく中、ささやく声が聞こえる。やめろ。見せ物じゃないんだ。


 改札へと降りる階段の上で、マイの足はついに止まってしまった。


 「どないしたん?」


 マイのお母さんが振り返る。


 僕の左手を握っている手が、冷たかった。もうはっきりとわかるくらい、震えている。


 はっ、はっ、はっ


 なぜ息が荒くなったのかと思った。


 「はっ、はっ、はっ」


 息が浅い。僕の小指を握っている手に、ギュッと力がこもる。目の焦点が合っていなかった。


 え、ちょっと。なんかおかしいぞ。僕が手を添えるのと同時に、マイは胸を押さえてしゃがみ込んだ。


 「大丈夫?」


 マイは顔を真っ赤にして、目もギュッとつぶっている。しゃがんでいられずに、地面に手をつく。おばさんが駆け寄ってきた。


 「発作やねん。過呼吸の。まあくん、ちょっと手伝って。あそこのベンチに行こ」


 さすがに切羽詰まった声で、マイを抱き起こした。


 うわあ、なんだこれ。


 2人で抱えるようにして、ホームのベンチまでマイを運んだ。すごく苦しそうだ。前髪の間から、脂汗がにじんでいるのが見える。おばさんはマイの耳元で話しかけた。


 マイ、まず息、止めてみよか。

 はい、じゃあ、ゆっくり吐いて。

 ふー。ふー。


 「まあくん、これ覚えといてや」


 真剣な顔で僕の方をチラリと見ながら、マイの背中をさする。その目は笑っていない。


 ぎゅっと目を閉じて、汗をかく時期でもないのに流れるほど汗をかいて、苦しそうな様子から目が離せなかった。


 どれくらい時間が経ったのか、わからなかった。結構長い時間、ベンチにいた気がする。途中で駅員さんがどうしました、救急車呼びましょうかと来たくらいだから。でも、おばさんは慣れているのか、愛想笑いさえ浮かべながら、しばらくしたら治ります、もう少し休ませてもらえますかと言って断っていた。


 マイが立ち上がれるようになると一度、改札を出てから回れ右して帰宅した。おばさんは「まあくんは学校、行ってええよ」と言ってくれたが、マイが僕の手を離さなかった。


 そういえば昔、こんな場面があった記憶がある。母さんとマイと一緒に学校に行きかけて、僕は途中で足がすくんで行けなくなって、母さんが「マイちゃんは学校、行きなさい」と言って、マイが何度も振り返りながら学校に行ったという記憶が。


 あの時、置いて行かれた気がして、すごく寂しかった。それを思い出したので「僕も一緒に帰ります」と言って、家までついて行った。おばさんは申し訳なさそうに何度も「ごめんね、付き合わせて」と言っていたけど、こんなに強く手を握られては、僕だけ学校に行くことなんてできない。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?