マイの学校への復帰は、簡単ではなかった。
うん、まあ、そうだろう。不登校になったことがある僕には、よくわかる。だって、学校に行けなくなった人間にとって、学校は怖いところなんだもの。できれば二度と行きたくない。でも、未成年で、親に食わせてもらっていて、しかも学生であるのならば、行かなきゃいけない。そんな根拠のない理由で、みんな無理やり復帰しようとする。
そして、苦しむ。
苦しむくらいなら、行かなければいい。
不登校歴の長い僕と僕の家族は、その境地に達していた。卒業日数が足りないとか、そんな理由でもない限り、嫌なところに近づく必要はない。学校の外にも人生はある。父さんがそう言ってくれた時には、本当に気持ちが楽になった。
朝、僕が迎えに行くはずだったのに、寝癖を直せなくてもたもたしていたら、マイの方が先に来てしまった。
「おはよ」
玄関先で久しぶりに見た制服姿は、ガラリとイメージが変わっていた。
「高校デビューするねん」
入学式当日。太ももの半ばまで丈を短くしたミニスカートにスリムフィットのYシャツ。ブレザーを格好良く着こなして、常にジャージー姿だった中学時代から鮮やかに変身した。女子ってすげえなと感心したものだ。
きょうはまた違う意味ですごいと思う。よくこんなに変えてきたものだ。
マイは、スラックスを履いていた。
清栄学院の制服が比較的、自由なことは以前にも話した。基本、女子はブレザーにスカートなのだが、スラックスを履いても構わない。なんて言ったっけ。最近流行りのジェンダー? あれを意識しているらしい。
マイはスカートが好きだ。それもミニが。小学生の時からそうだった。もちろんオーバーパンツは常時、着用している。
「かわいいやろ?」「このスカート、かわいいやろ?」
何度も聞かれた。そのマイがスカートではないことに、衝撃を受けた。
髪もずっと襟足が見えるくらいのショートカットだったのに、今は肩口にかかるくらいだ。しかも、中学時代からずっとコンタクトだったのに、眼鏡をかけている。地味子はうちでだけと思っていたら、どうやらこのスタイルで学校に行くらしい。女子力満開でイケイケだった春先に比べると、すっかり守りに入ったように見える。
「ズボンなんや」
おはようをすっ飛ばして、思っていたことがそのまま口を突いて出た。
入院してから、こんなことを言えば傷つくのではないか、これは聞かない方がいいのではないかと、ずっと気を使ってきた。今もそうだ。ただ、それをすると会話がスムーズに進まないことがよくあった。僕が考えている間に、マイが先に何か話してしまうのだ。
「そうやねん。イメチェンや」
聞かれて嫌なことではなかったようだ。ブレザーの裾をつまむと、くるり、くるりと左右に回ってみせた。
「どう? こんなんも似合うやろ?」
スラックスが似合うかどうかよりも、肩口でふわふわ揺れている髪の方に目がいく。セミロングっていうの? 悪くない。いや、むしろ、いい。
「うん、似合う、似合う」
油断すればだらしなくにやけてしまいそうだ。それを必死に押しとどめて、できるだけ真顔で言ってみた。
「何やそれ。気のない返事やな」
マイは少しムッとしたようだ。真剣に言ったつもりなんだけどなあと思いながら、靴を履く。
「ほら、2人とも。ちょっと急ぎなさい」
マイのお母さんが待っていた。久々の登校とあって先生と話をする。なので、一緒に学校に行くのだ。
玄関先ではどうということはない顔をしていたが、駅に向かって歩き出すと、マイの表情は見る見るうちに硬くなっていった。
「あ、黄崎やん」
「黄崎、おはよ」
何人かの女子生徒が声をかけてくる。マイは軽く笑って小さな声で「おはよ」と言っているが、緊張しているのは明らかだった。表情が硬いし、先ほどから頻繁に小さなため息をついている。
緊張しているというより嫌な記憶、これから起きるかもしれない嫌な妄想と戦っている。
学校に行けば自分がやったこと、やられたことを少なくない人間が知っている。きっと後ろ指を刺されるだろう。どんなことを言われるのだろう。以前の友人たちは、変わらずに付き合ってくれるだろうか。自分の味方でいてくれるだろうか。それを想像すると、恐怖で足がすくむ。
マイの胸中を察すると、胸が痛かった。
電車に乗っている間、おばさんがたわいもない話をしていたが、僕たちはずっと黙っていた。
駅で降りる。時間的に清栄学院の生徒だらけだ。さすがにブレザーを着ている生徒が増えたが、まだ半袖ポロシャツも目立つ。もうすぐ12月だぞ? だけど、今年は秋が全くなくて、つい先日まで気温20度の日があったのだから、仕方がない。
左手の小指が何かに触れた。そうかなと思って見ると、やはりマイの手だった。あまり力を込めず、添えるように僕の指をつかんでいる。振り返ってみると、マイは青白い顔をして、さっきよりもずっと不安そうだった。細い左手を、そっと握り返す。大丈夫。無理しなくていいよ。ゆっくり手を引くと、のろのろと進み始めた。
黄崎だ。
あれ、黄崎ちゃうの。
どんどん追い越されていく中、ささやく声が聞こえる。やめろ。見せ物じゃないんだ。
改札へと降りる階段の上で、マイの足はついに止まってしまった。
「どないしたん?」
マイのお母さんが振り返る。
僕の左手を握っている手が、冷たかった。もうはっきりとわかるくらい、震えている。
はっ、はっ、はっ
なぜ息が荒くなったのかと思った。
「はっ、はっ、はっ」
息が浅い。僕の小指を握っている手に、ギュッと力がこもる。目の焦点が合っていなかった。
え、ちょっと。なんかおかしいぞ。僕が手を添えるのと同時に、マイは胸を押さえてしゃがみ込んだ。
「大丈夫?」
マイは顔を真っ赤にして、目もギュッとつぶっている。しゃがんでいられずに、地面に手をつく。おばさんが駆け寄ってきた。
「発作やねん。過呼吸の。まあくん、ちょっと手伝って。あそこのベンチに行こ」
さすがに切羽詰まった声で、マイを抱き起こした。
うわあ、なんだこれ。
2人で抱えるようにして、ホームのベンチまでマイを運んだ。すごく苦しそうだ。前髪の間から、脂汗がにじんでいるのが見える。おばさんはマイの耳元で話しかけた。
マイ、まず息、止めてみよか。
はい、じゃあ、ゆっくり吐いて。
ふー。ふー。
「まあくん、これ覚えといてや」
真剣な顔で僕の方をチラリと見ながら、マイの背中をさする。その目は笑っていない。
ぎゅっと目を閉じて、汗をかく時期でもないのに流れるほど汗をかいて、苦しそうな様子から目が離せなかった。
どれくらい時間が経ったのか、わからなかった。結構長い時間、ベンチにいた気がする。途中で駅員さんがどうしました、救急車呼びましょうかと来たくらいだから。でも、おばさんは慣れているのか、愛想笑いさえ浮かべながら、しばらくしたら治ります、もう少し休ませてもらえますかと言って断っていた。
マイが立ち上がれるようになると一度、改札を出てから回れ右して帰宅した。おばさんは「まあくんは学校、行ってええよ」と言ってくれたが、マイが僕の手を離さなかった。
そういえば昔、こんな場面があった記憶がある。母さんとマイと一緒に学校に行きかけて、僕は途中で足がすくんで行けなくなって、母さんが「マイちゃんは学校、行きなさい」と言って、マイが何度も振り返りながら学校に行ったという記憶が。
あの時、置いて行かれた気がして、すごく寂しかった。それを思い出したので「僕も一緒に帰ります」と言って、家までついて行った。おばさんは申し訳なさそうに何度も「ごめんね、付き合わせて」と言っていたけど、こんなに強く手を握られては、僕だけ学校に行くことなんてできない。