明日斗はスパゲティを山盛りに巻き付けて口に運びかけていたフォークを置くと、どんぐりまなこをさらに見開いた。
「えっ、それから毎晩、マイで抜いてんの?!」
「しいっ! 声がデカいわ!」
そんなに驚かなくてもいいだろう。思わず焦る。場所は駅前のいつものサイゼリア。明日斗はボロネーゼ2皿目に取り掛かっているところだった。
日曜日の午後だった。朝から翔太と走りに行って、ヘロヘロになって明日斗と合流し、少し遅いランチを一緒に食べた。
暑さと消耗で食欲がなくて、ペンネアラビアータにホットスパイスをいっぱいかけて、無理やり喉に押し込む。明日斗はボロネーゼに別添えのペコリーノを山盛りかけて食べていた。同じ練習終わりなのに、この差はなんなんだ。よくそんな脂っこいもの、食べられるな。明日斗の食欲がうらやましかった。
「さすがに毎晩はない」
ごめん。嘘ついた。最近、毎晩、マイでオナニーしています。
「ふーん」
明日斗は改めてスパゲティをほおばる。口いっぱいになって、まともな返事ができない。
だって、仕方ないじゃないか。
マイのそばにいたくて、あの翌日、勉強を教えるという名目で早速、家に行った。
「まあくん、悪いけど、まあくんの部屋に行ってええ?」
なぜか玄関まで出てきたマイが、真剣な表情で言う。
「え、僕の部屋がええの?」
ちょっと意味がわからないが、逆らわないことにした。今のマイには、聞かない方がいいことがたくさんある。マイが僕の部屋に来るなんて、小学生の時以来じゃないかな。あの頃は雨が降れば僕の部屋に来て、漫画を読んでいた。
乱雑にいろいろなものが積み上げてある部屋に招き入れる。
主に服。それから漫画。あと格闘技用品。ボクシンググローブにオープンフィンガーグローブ、キックレガース、ラッシュガードとかファイトパンツは毎日のように使うので、その辺りに積み上げてある。机の周囲はいろいろなものを置きすぎて狭いので、ベッドと本棚の間の狭いスペースにちゃぶ台を置き、隣に座って勉強を教えることにした。
ち、近い。
マイからフワッといい匂いがする。シャンプーかなんかの匂い。いや、今は夕方なのに、そんなわけないだろう。まだ風呂に入るには早すぎる。じゃあ、これって何の匂いなのよ。この、鼻腔をくすぐる甘い香りは。
ドキドキする。
鼓動が聞こえているんじゃないかと、恥ずかしくなる。ああ、今、絶対に赤くなっている。気づかれなければいいけど。
不覚にも、ギンギンに勃起していた。
「まあくん!」
「え!」
突然、声をかけられて心臓がはね上がった。
「ほら、時間もないし、ボーッとしてないで、はよやろうよ」
マイは数枚のプリントを出して、ちょっと怒った顔で「ここやん、ここ」とシャーペンで指差している。
「やろう」なんて言わないで。
マイとやる
その字面だけで、いろいろ妄想してしまう。
「で、その、マイと超接近戦をやっているにもかかわらず、寝技に持ち込むことができなくて、悶々として一人で延長戦をしているというわけやな。わかった」
明日斗は本当にうれしそうにニヤッとした。自分でもうまいこと言ったと思ったのだろう。悔しいけど、その通りだ。
「違うわ!」
思わず声を荒げる。いや、違うことはない。認めろよ、自分。
はあ。
明日斗が2皿目を食べ終わろうとしているのに、僕はまだ1皿目を食べ終わっていない。食が進まないのは、練習後で疲れているというだけではないのかもしれない。
「まあ、ええやんか。抜いたらテストステロンがドバーッと出るらしいから、筋肥大にはええらしいよ。誰やったか忘れたけど、ボディビルダーで一日5発、抜いてる人がいるって聞いたことがあるわ」
テストステロンって何だよ。
最近、明日斗はこういう専門用語をたくさん使うようになった。強くなるためにいろいろと勉強しているらしい。そんなことより、またメニューを開いて何か追加しようとしている食欲には、驚きしかない。
「せやけど、雅史、ちょっと筋トレの効果、出てきたんとちゃう? 明らかに足とか肩とか、デカなってんで」
いや、君ほどじゃないよ。明日斗は春に比べれば、めちゃくちゃデカくなっていた。胸の厚みがすごい。肩や首も太くなって、まるでプロレスラーのようだ。
きょうは日曜日だけど、マイのところに行くべきだろうか。金曜日、マイは随分と遅くまで僕の部屋で勉強していた。恐る恐る「なんで僕の部屋なん?」と聞くと、シャーペンを置いて体を伸ばし、真顔でうーん、何でかな?と言った。
「ウチのエリアじゃないから?」
何だかよくわからない答えが帰ってきた。しかも、疑問形だ。
「こっちの方が集中できるわ。いろいろ思い出さなくて済むし。自分の部屋だと、なんかボーッとすんの」
そう言って、手のひらで顔をゴシゴシと擦る。
ああ、そうか。
自分の部屋で一人でやっていると、いろいろ思い出すんだ。
落ち着くと言ってくれたのは、ちょっとうれしかった。僕のそばは安心すると言ってくれているように聞こえたからだ。
土曜の夜は走りに行くので、昼ごはんを食べてから3時間くらい、勉強に付き合った。走りに行っていると言うと、驚いていた。
「え、そんなに真剣にやってるの?」
部屋のよく見えるところにグローブがゴロゴロ転がっていたので、初日に空手道場を辞めて、総合格闘技ジムに移ったことは話していた。ただ、マイの中では僕はスポーツが苦手というイメージが強く、ハードに自主練をするほどハマっていることが理解しづらかったらしい。
土曜日はマイとの勉強を終えてから走りに行って、ヘトヘトになって疲れて帰ってきたのに、またオナニーしてしまった。だって、部屋にマイの香りが残っていたんだもの。
そして、今日が日曜日だ。
マイは明日から学校に復帰する予定。きょうも会っておいた方がいい気がする。
「そしてまた悶々とするわけや」
明日斗はさっきから楽しそうにニヤニヤしている。
「違うわ! ああ、いや。する。するわ」
もういいや。素直になろう。
「ええやんか。いろいろあったけど、マイは雅史の元に帰ってきたわけやし、それで今、ラブラブなんやろ?」
「そうなんか? ラブラブなんは俺だけで、マイはそうじゃないかもしれへん。マイはまだ心の片隅のどっかで、黒沢に未練があるかもしれへん」
「いや、そんなことないって! どこからどう見ても、ラブラブやんか!」
「そうかなあ」
コップに残っていた水を一気飲みする。
はあ、うまい。
「雅史、もうマイのこと離したらあかんで。もっともっと筋トレして、マイを守れる男にならんと。マイの居場所は、雅史の隣なんやから」
明日斗は右腕をギュッと曲げて、力こぶを見せた。うわっ、すげえ。ボディービルダーかよ。それを左手でパンパンと叩いて、鼻の穴を広げる。
確かにそれは、そう思う。
明日斗、ありがとう。なんか、勇気わいてきたわ。
夕食後、マイを訪ねた。
僕を待っていたみたいで、プリントを入れたクリアケースを手に、すぐに出てきた。例によって、僕の部屋に行く。ちゃぶ台で、ほのかにマイの体温を感じながら、勉強を教える。
僕、ちゃんと教えられてんのかな?
「わかる?」
マイの真剣な表情をのぞき込む。キラキラした瞳がきれいだ。少しふっくら感が戻ってきたほっぺたが、かわいい。
「え、めっちゃわかるよ。まあくん、教える、めっちゃうまいよ」
マイは顔を上げると、ホワンと微笑んだ。
眼鏡の地味子さんが、本当に愛おしかった。