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第47話 退院

 それから数日後、学校から帰宅すると、母さんが弾んだ声で「マイちゃん、家に帰ってきたわよ」と言うので、荷物を置いてすぐに顔を見に行った。チャイムを押す。思わず顔がにやけそうになるのを、一生懸命抑える。おばさんが出てきて、上がって行きなさいよとリビングに通された。


 マイは食卓に座って、学校からもらったものだろう、分厚いプリントの山を見ていた。デサ◯トのロゴが入った紺色の長袖Tシャツに、グレーのスウエットパンツ。足は素足だった。伸びた髪を後頭部でくくっている。今日も眼鏡姿だった。


 なんと、地味な。


 中学生の頃は、おしゃれとはあまり縁がない感じだった。部活で忙しそうだったし、いつも学校のジャージーを着ている記憶しかない。だけど、高校進学と同時にピンクとか女の子っぽい色の服を着るようになり、華やかにイメチェンした。その頃を思えば、すごい方向転換だ。


 僕に気がつくと、パッと顔をほころばせて「あ、まあくん」と言った。


 「おかえり」


 帰ってきた時には、こう言うと決めていた。なんというか、万感の思いだ。


 「ただいま」


 少し首を傾げてチラッと視線を外して、はにかんだ笑みを浮かべる。地味子に転向しても、にじみ出るかわいらしさは隠しようがない。おばさんに促されて、マイの向かい側に座る。テーブルの上は新聞とか薬の袋とかで雑然としていた。


 「プリント、めっちゃたまってるやん」


 「そうやねん。3カ月分。はよ追いつかへんと」


 マイはプリントをまとめると、テーブルの上でトントンと四隅をそろえた。頭は悪くない。公立は進学校に挑戦したくらいだから、むしろいい方だ。その気になれば、すぐに追いつくだろう。


 「教えたろか」


 「うん。教えてほしい」


 何気なく口にした提案に即座に乗ってきたので、ちょっとびっくりした。大丈夫、自分でやるわと言うと思っていた。


 マイはプリントをテーブルに置くと、膝の上に手を置いて、背筋を伸ばした。真正面から僕を見る。はにかんだ笑みは消えて、真剣な表情だ。


 「学校にも、一緒に行ってほしい」


 「うん」


 「駅までとちゃうで。教室まで」


 「うん」


 そうか。もう駅で黒沢が待っていることはないんだな。


 「お願いします」


 そう言うと、深々と頭を下げた。ふざけた響きは一切なかった。


 これはなんとなくわかる。マイは学校に行くのが怖いのだ。中学校時代の僕と一緒だ。あの時、マイは毎日、僕の家に来て、学校へ連れて行ってくれた。不登校になった生徒用の部屋(不登校なのに部屋が用意されているなんて、変な話だ)の前まで、一緒に来てくれた。


 「わかった」


 あの時、マイがやってくれたことを、今度は僕がやる番なんだ。


 「一応ね、来週から学校に行ってみようと思っているのよ」


 おばさんがニコニコ笑いながら、割って入ってきた。


 「最初の日は学校へのあいさつもあるから私も行くんだけど、次の日からは、まあくんと一緒だったらいいかなって」


 サイダーの入ったコップを、僕とマイの前に置いていく。シュワシュワという音が耳に心地いい。


 「いいっスよ」


 任せてくれ。僕は胸を張って、そこそこ力を込めて返事をした。


 帰りしな、マイが玄関まで見送りに来てくれた。隣なんだから、わざわざいいのに。一緒に玄関を出てドアを閉めると、僕のシャツを引っ張った。


 「どうしたん」


 振り返ると、さっきよりもさらに真剣な顔をして、鼻の前で人差し指を立てて「静かに」と言うポーズをする。手招きをするので身を屈めると、僕の耳元に口を寄せた。手で口元を隠して、ささやきかけてくる。


 生暖かい吐息がかかる。うわっ、ゾクッとする。


 「あんな、ウチ、学校行くつもりやけど、行けへんかもしれへんねん」


 マイはそういうと、シャツの裾をぎゅっと握った。


 「ああ、うん」


 わかるよ。行かなきゃと思って家を出ても、途中で足がすくんでしまう日がある。マイは少し顔を離すと、眉毛に力を込めた。わかった?と言いたげだ。ちゃんと理解したことを、伝えてあげないと。


 「そんな日は、一緒に帰ろうよ」


 僕にとっては当たり前だったのだが、マイにとっては普通ではなかったようだ。


 「え! ええの?」


 目を見開いて驚いている。


 「ええよ」


 「まあくんも欠席になんで」


 「たまにサボってるから、構へんよ」


 迷惑をかけるけど、ごめんねとでも言いたかったのだろうか。想定外に僕が簡単にマイの無理(僕にとっては無理でもなんでもない)を聞いてしまったので、驚いた後に、少し拍子抜けしたような顔をしていた。


 「僕は不登校のプロやで」


 笑って、冗談めかして言ってみた。ちょっとヤバいかなと思いつつ。


 だけど、マイも少し笑って、ホッとした表情を見せた。


 「そんなプロ、聞いたことないわ」


 そう言って、僕の肩を平手で軽く叩く。笑っている。一緒にふざけあった昔みたいに、また笑っていた。胸がキュンとする。不意に愛おしさが込み上げてきて、無性に抱きしめたくなった。


 たぶん、今この時も、マイは辛い記憶と戦っている。学校に行けば、嫌でもあのことを思い出す。学校に行こうとするだけで、思い出すだろう。


 それでも、もう一度、学校に行こうとしている。そのために、僕に助けを求めている。抱きしめて、絶対に守ってやると伝えたかった。


 「今週は、まだ学校に行かへんねん。基本的にうちにいるから。勉強、教えて。たぶん、ずっと勉強してる。いつでも来てええよ」


 抱きしめたい。だけど、まだ付き合ってもいないのに、そんなことできない。僕がモヤモヤと葛藤している間に、マイはニコッと笑ってそう言って、バタンとドアを閉めて家の中に戻って行ってしまった。


 バイバイ、また明日ね。


 黄崎家の前に一人、立ち尽くす。マイの声が、いつまでも耳にこびりついて離れなかった。

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