もうすぐ退院できると言っていたにもかかわらず、マイが自宅に戻ってきたのは、11月になろうかという時期だった。いつになったら秋が来るのかと思うほど日中は暑く、学校にはまだ半袖ポロシャツで通学していた。
あの後、何度かお見舞いに行った。
大体、母さんと一緒だった。ネバギバの夜クラスに行く前に差し入れを持って病院に立ち寄り、母さんはおばさんの話を、僕はマイの話を聞くという感じだった。
プロポーズの話になった次の時は、なんとも気まずかった。ベッドの上のマイは耳まで赤くなってあっちを向いたままだし、僕もなんとなく声をかけづらかった。
今更、プロポーズじゃありません。とは、言えない。
なんとなく表情や雰囲気から、喜んでくれているような気がした。少なくとも嫌がっている感じはしなかった。だから、撤回することもできなかった。
黒沢とマイに直接、確認したわけではないので確証はないけど、新田と話している限りでは、あの2人の関係はもう終わっている。ならば、僕がマイに恋のアタックしても全然、構わないわけだ。
ただ、だからといってグイグイ行けない事情もあった。僕がそんな歯の浮くような甘いセリフをペラペラしゃべれるようなキャラではないということもあるが、何よりマイは精神面のダメージが大きくて、カウンセリングを受けていた。僕が恋愛沙汰に引き込めば、黒沢とのことを思い出して、また傷ついてしまうのではないかという不安があった。
はあ、難しい。思わず深いため息をつく。
「あんな」
マイがあっちを向いたまま、小さな声で言った。表情は見えない。
「あの…お守りが嫌だったとか言って…ホンマにごめんな…」
ンンッと小さく咳き込む。
ああ、そういえば、そんなこと言われたことがあったな。まあ、事実なので全然、構わないけど。
「あの時は浮かれてて、自分を見失ってた。……ホンマにごめん」
おずおずと、という言葉は、こんな感じの時に使うのだろう。マイはおずおずと、伏し目がちにこちらを向いた。
視線を上げて、少しおびえたような表情で、僕を見る。
また少し髪が伸びた。
きょうは眼鏡をかけている。中学入学以来、ずっとコンタクトだったのだが、やめたのだろうか。それとも、入院生活なので眼鏡なのだろうか。相変わらず以前に比べれば痩せてはいるものの、少し血色がよくなり、いかにも不健康そうな感じではなくなっていた。
「ホンマに、ひどいこと言って…」
まだ続けようとするので、僕はマイの言葉を優しくさえぎった。
「ええよ。もう、ええ」
少し笑ってみよう。
「ええって。ひどいことを言ったのは、僕もやから。もう、ええ。許す」
マイは瞬きをせずに、真顔で長いこと僕を見ていた。ゆっくりと一回、瞬きをする。息遣いが聞こえてきそうな沈黙が、2人の間を流れた。病室の外から、パープーと少し気の抜けたラッパの音が聞こえる。ここは、古めかしい豆腐屋が、ワゴン車で通りかかるのだ。
「全部許す。全部」
ゆっくり、できるだけ優しく、もう一度、言った。
豆腐屋のラッパの音が、遠ざかっていく。随分と時間が経った気がした。
「うん」
マイはようやく少し微笑んで、小さくうなずいた。
やった。やっと僕の言葉で笑ってくれたぞ。入院して以来、やっとだ。うれしくて、心の中でガッツポーズをして、よっしゃ!と絶叫した。
「ウチも全部、許すよ」
マイの言葉が、心なしか躍っているように思える。右手を差し出してきた。
ん…なんだろう。チョコがほしいのか? しまった、買ってきていない。僕がポケットをゴソゴソしだしたのを見て、マイは「違うよ。握手」と言った。
ああ、そうか。マイの右手を握った。
細くなったなと思う。小さい頃から、何度も繋いだ手だ。剣道で鍛えて、女の子にしては分厚い手をしていた。だけど今はか細くて、その面影はない。でも、温かい。確かなぬくもりを感じる。
握り合ったまま、手を振る。
「仲直り、しよう」
マイはほほ笑みながら、自分に言い聞かせるように言った。
「うん。仲直り。親友やから」
自分で口に出してから、しまったと思った。
ずっとお互いに「幼馴染」「親友」と言い合ってきたので、自然とそう言ってしまったが、前回のプロポーズ疑惑発言を踏まえると、違う表現をした方が、よかったかも。少なくとも、その方がマイに安心感を与えたかもしれない。
マイは軽く微笑んだまま、こちらを見ている。僕は言い直した。
「あ、いや。親友から、また」
ちょっとしどろもどろになる。
「え?」
マイは小首を傾げた。
「うん」
「またって何?」
僕の動揺に気づかないのか、不思議そうな顔をする。
「また始めようって」
マイは少し考えていたが、しばらくすると、またほおを赤く染めた。手を離すと、自分のほおを触りながら、ちょっと怒ったような顔をする。
「始めるって、どこに行くつもりなん?」
少し声のトーンを上げた。
「え!」
いや、それはその…あの…か、彼女……とか?
そうだ。言ってしまえ。親友から、彼女になって、と。急にドキドキし始めて、舌の奥にギュッと力が入る。
「え、だから、その…。こう…ずっと一緒っていうか、あの、その…」
ああ、うまく話せない。なんで思った通りのことを、素直に口にできないんだろう。そんな自分が、本当に不甲斐ない。口籠もっている間にどこから話せばいいのかわからなくなって、頭の中がごちゃごちゃになった。
そして2人で赤くなってうつむいていると、母親たちが戻ってきた。
「あらまあ、どうしたの? なんか気まずいことになっちゃったの?」
母さんがおどけた調子で聞く。
その次に行った時も、なんだか気まずくて恥ずかしい雰囲気になったことは、言うまでもない。