9月も下旬になった頃、母さんから半ば無理やり、マイのお見舞いに行かされた。
「母さん、今日ちょっと行けないから。代わりにこれ、差し入れで持っていって」
朝、仕事に行く前に、りんごが入った買い物袋を強引に押し付けてきた。母さんは病院に行くたびに、差し入れを持って行っていた。抗議の眼差しを向けてみたものの、バタバタと身支度をしていて、僕の顔を見ようともしない。無視である。
「いいけどさ。学校、休んでいい?」
「いいわよ」
そう言い残すと靴を履いて、さっさと出て行ってしまった。母さんは、僕が学校をサボることに、あれこれ言わない。小学校の頃から度々、不登校になっているので、自分の子供が学校に行かないことに抵抗が全くなかった。
放課後に行きたくなかった。
学校が終わってから行けば、マイの友人や先生たちといった学校関係者に会う可能性があった。彼らとバッタリ会うのは、嫌だった。特に黒沢とは。
黒沢は郡司に乗り換えたと聞いた。学校でも今の彼女は郡司だということになっている。だけど、それでマイとの関係が切れたのかどうか、わからない。はたから見れば確実に切れているけど、まだ本人たちに確認したわけではない。実はまだ2人の関係が続いている可能性も、完全には否定できない。
面会時間は午後1半時からなので、午前中はネバギバで練習して、昼飯を食べずに急いで病院へ向かった。駅から病院へは歩いていくには少し遠い。かといってバスに乗るほどでもない。そもそもバスは20分に一本しかなく、駅に着いた時にはちょうど出た後だった。
仕方ない。歩いて行こう。
さっき練習で汗をかき切ったはずなのに、駅前を離れる頃には額から汗が吹き出した。手の甲で拭うと、シャツの背中がベットリと張り付いているのを感じた。脇の下にも、汗が伝う感触がある。
暑い。顔にふわりと吹き付ける風も、暖房の温風のようだ。
ああ、そうだ。りんごなんかより、差し入れして喜ぶものがある。それを買っていこう。歩いていくことになって、むしろよかった。僕は手近なコンビニに飛び込んで、マイの好物を買った。
母さんから、部屋が変わったと聞いていた。3階の手前の部屋。ここだ。入り口のプレートに「黄崎真依」とある。また個室だった。ドアが開いていた。部屋をのぞき込みながら、開いたドアをノックする。
「あら、まあくん」
何か飲んでいたのか、ベッド脇の椅子に腰掛けていたおばさんは目を見開いて、紙コップを置いて口元を拭いた。それからにこやかに笑う。入院直後に会った時と比べると、少し元気になった印象を受けた。
「こんにちは」
部屋はクーラーが効いていた。さっきまで猛暑の屋外にいたから、気持ちいい。以前の部屋と広さは変わらない。ただ、前回は壁際が枕元だったのに、今回は廊下側が枕元になっていた。ベッドの置き方が違う。
「これ、母さんから差し入れです」
ベッドサイドに歩み寄り、買い物袋を差し出す。おばさんは立ち上がって受け取ると「いつもありがとうねえ」と微笑んだ。
少し顔色がよくなった。入院直後は、青白い顔をしていたのに。
マイは起きていた。僕が入ってきたのに気づいたのか気づいていないのか、ベッドの上で上体を起こして、ボーッと窓の外を見ている。
痩せたな
それが第一印象だった。
マイは「健康的」という言葉がピッタリと当てはまるタイプだった。小さい頃から外遊びが好きで、小学生の時は年がら年中、男子のように真っ黒けに日焼けしていた。中学校に上がって多少、それを気にするようになって美容液を付けたりはしたものの、それほど色白にはならなかった。剣道で鍛えて太ももがむっちりと太く、いかにもスポーツ少女といった感じだった。
今のマイは、僕が知っているマイとはだいぶ、違う。
ほおがこけているし、布団の上に出している腕も、骨と皮だけになってしまったかのように細い。昔の健康優良少女の印象が強いだけに、落差が激しくて、別人を見ているみたいだった。肌も不健康に青白い。トレードマークだったショートヘアは、伸びてボサボサだ。薄いピンク色のパジャマは本来ならかわいらしい感じがするのだろうけど、今はマイの弱々しさを強調しているようにしか見えなかった。
「マイ、まあくんが来たわよ」
おばさんは細い、これも骨張った肩に手を置いて呼びかける。反応はない。少し困ったような顔をしてこちらを向くと「機嫌のいい時は、反応があるんだけどね」と寂しげに微笑んだ。
「まあくん、来て早々で申し訳ないんだけど、おばちゃん、ちょっと買い物に行ってきてええかな? すぐ戻ってくるから」
ごめんねと申し訳なさそうな顔をして財布を手にすると、「ごゆっくり」と言いながら出て行った。
2人きりになった。
買い物袋の中から、あれを取り出す。この暑さで溶けていなければいいけど。
マイが好きなのは、これだ。チョコレートの「ルック」。中にフルーツ味のクリームが入っている。小さい頃からの大好物だ。願いも虚しく見事に柔らかくなっていたけど、味に変わりはないだろう。ベッド脇の椅子に腰掛けて包み紙を開けると、マイの視界に入るように差し出した。
「ルック、買ってきた」
最初は反応がなかった。
どこか外でトラックか何か、大型車が後退している時のピー、ピーという警告音がなっている。
少ししても反応がないので箱をもう少し差し出すと、意識を取り戻したかのように、ゆっくりとこちらを向いた。
入院直後の、幽鬼のような険しい表情ではなかった。ただ、いつも笑顔で感情豊かだったマイを知っている身からすれば、魂が抜けたような顔をしていた。目の焦点が合っていない。
「好きやろ?」
箱に目を落とす。
なかなか取ろうとしないので、一つつまんで取り出して、ベッドの上に放り出されている手のひらに置いた。マイは、途中で落とさないかと思わず手を貸したくなるほどものすごいスローモーションで、それを口に運んだ。
もぐもぐもぐ…。細かく動かしている唇に、溶けたチョコが少しついている。
「おいしい?」
無理に笑顔を作って、顔をのぞき込んだ。
はあ……。何を聞いているんだ。
練習が終わって、ここに来るまでの間、ずっと何を話せばいいか考えていた。何があったのか聞くのはタブーに思えた。辛い記憶をほじくり返すことになる。かといって、学校の近況を話すわけにもいかない。僕が話せることといえば、岩出が学校に来なくなったことや、新田に言い寄られていることしかない。これはこれで辛い記憶を呼び起こしてしまいそうだった。
最近、どう? 体調、よくなった?
何を聞いても、傷つけてしまいそうだった。だからもう、余計なことは話さない。2つだけ、言うことを決めていた。
まずは1つめ。
「マイ、この前、二度と来んなって言って、ごめん。本当に、ごめん」
僕は座ったままベッドに手をついて、頭を下げた。
そうだ。まだマイが元気だった時に交わした、最後の会話。マイが黒沢とセックスしたことを告白して、僕はショックでマイを突き放した。小さい頃からの友人だったのに、狂ったように嫉妬して大切な絆を断ち切った。
もし、ああ言っていなければ、マイはこうなる前に僕に相談していたかもしれない。思い過ごしかもしれないけど、相談できる相手がいなくて、こんなことになってしまったのかもしれない。全部、想像だけど、これからマイを支えていくのならば、まずそこをきちんと謝っておかないといけないと思った。
ガシャッ
マイは僕を見ずにチョコレートの箱に指を入れて一つつまみ出すと、うつろな表情のままそれを口に運んだ。
もぐもぐもぐ…。
あっちを向いて口を動かしている。別に、何も言ってくれなくても構わない。
もう1つのことを伝えようとしたところで、不意にマイが口を開いた。
「香川先生がな、来てん」
「がな」の後にンンッと、何か喉に引っかかったようで、小さく咳き込んだ。かすれた、小さな声だった。
あれ…。こんな声だったっけ。ちょっとうるさいくらいの大きな声でしゃべるイメージしかなかったので、そのか細さが意外だった。
「この前な」
こっちを向いた。だけど、焦点が僕の顔に合っていない。
「うん」
「お母さんを部屋から追い出して、『何があったんか、知ってる』って言わはった」
マイは相変わらず小さな声で、淡々と、ゆっくりと話した。
えっ
それは、あまりよくない対応なのでは…。マイはスーと鼻から息を吸うと、ふうーと大きく吐き出して、また窓の方を向いた。嫌な沈黙が流れる。自分の指先が冷たい。病院の外を、バイクが通り過ぎる音がする。それがいつまでも聞こえて、とても長い時間が過ぎたように思えた。
「まあくんは、知ってんの?」
窓の方を向いたまま、静かに尋ねた。ドキッとする。キツい質問だ。知っているといえば傷つくだろうし、知らないといえば嘘をついたことになる。それはそれで、傷つけてしまいそうだった。
顔を伏せて、沈黙するしかなかった。胃のあたりが緊張でモヤモヤする。
「そうか。そうなんや」
マイは何かを嘲るかのように、フンと鼻で笑った。口の端が少し上がる。やっと感情が戻ってきたと思ったら、そんな悲しくなるような反応なのか。
「先生、親に知られたくないんなら、私は絶対に言わへん。力になるから、なんでも話してって言うてた」
声のトーンが少し上がる。怒りの色がにじんでいた。香川先生、それ、信頼を得るには逆効果なのでは…。
「何しに来たん、この人って思ったよ」
そりゃそうだろうな。
「先生が知ってるくらい、学校では噂になってるんやろうね」
これも返事ができなかった。イエスともノーともいえない。
「まあ、しようがないよ。あんなひどい男と付き合ってたウチが全部、悪いんやから。パリピの仲間入りして、浮かれていた罰が当たったんや。ほんま、しょうもない…」
さっきまでの人形みたいな反応からは想像できないくらい、堰を切ったように話し始めた。どんどん早口になって、眉根を寄せて、声が震える。言い終わらないうちに、ブワッと涙があふれ出した。
違う。そんなの絶対に違う。何に対する怒りなのだろう。黒沢なのか、岩出なのか、それとも香川先生なのか。とにかく、マイの涙を見て、何か猛烈に腹が立ってきた。心臓がドクンドクンと早鐘を打っている。
「違う!」
椅子を蹴って立ち上がった。反動で椅子が倒れ、ガシャンと大きな音がする。思った以上に大きな声も出してしまった。
まだ何か言いかけていたマイは、ハッと驚いて口をつぐんだ。通りがかった看護士さんに「どうかしましたか?」と聞かれたが、冷や汗をかきながら「いえ、なんでもないです」と言ってごまかした。
マイの方に向き直る。
「マイは、これっぽっちも悪くない」
少し声のトーンを落とす。
「だって」
「だってじゃない」
手の甲で涙を拭きながら、まだ何か言おうとするのをさえぎる。ポケットからクシャクシャのハンカチを取り出して、渡した。
「はい、これ」
マイはのろのろとハンカチを受け取ると、チラッと目を落としてからそれで涙を拭いた。垂れてきた鼻水もふいて、ブンッと鼻をかむ。
ここに来る前の間に、言おうとしていた、もう1つのことを思い出す。何度も頭の中で練り直して、まとめてきた言葉。マイの心の傷に触れずに、でも、背中を押せる言葉。それを作ってきたつもりだった。椅子をもとに戻すと、改めてベッドサイドに座った。ベッドの上に手を置き、唇を舐めて、ゆっくりと話した。
「過去にどんなことがあっても、これからどんなことが起きても、僕はマイの味方だ」
涙を拭いていたマイは、口を半分開けて、呆気にとられたような表情をした。
確かに、急に話、変わったしな。そんな反応になるよな。
「そんなん」
「待って。最後まで聞いて」
ごくりと唾を飲む。ここからが大事なところだ。僕の誠意と覚悟が、マイに正しく伝わればいいんだけど。
「僕は15年間、ずっとマイに助けてもらってきた。辛い時も悲しい時もマイが引っ張ってくれたから、ここまでやってこられたと思っている。だから、今度は僕がマイを助ける番なんだ。15年分の恩返しをする」
「15年分…」
マイは僕の言葉を、そのまま繰り返した。
「そう」
そうだ。うまく言えた。微笑んで、力強くうなずく。
「15年分?」
「そう。これから15年間、恩返しする」
どうだ、マイ。ちょっと元気、出たかな?
……。
いや、別に15年分を1年に凝縮しても構わないけど。
マイは少し不思議そうな顔をしていた。あれ? なぜだ? 僕のシミュレーション通りならば、にっこり笑って「ありがとう」って言うんだけど。何を考え込んでいるんだろう。うまく伝わらなかったのか?
「15年間、お返しされたら、ウチ、30歳超えてしまうけど…」
マイは下を向いて、指を折って数えている。そんな数字の話をしたつもりは、なんだけど。もう少し詳しく説明した方がいいのか?
「15年間、助けてくれたんだから、これから15年間、僕がマイを助ける。いや、そこで終わりじゃない。その先もずっとだ」
ちょっと焦って早口になったけど、なんかカッコよく言えた。われながらカッコよく言えたぞ。言うことは言ったという達成感があった。
変な沈黙があった。先ほどの気まずい沈黙とは違う。ただ時が止まった感じ。マイが僕を見ている。ゆっくりと、その目の焦点が合い始めた。
ん? なんかマイのほおが赤くなってきてないか? どうしたんだろう。何か変なこと言ったかな。
「え、まあくん、それって…」
ハンカチで鼻を拭き、斜め下を向き、またこちらを向いた。目と目が合う。今度はしっかりと焦点が合った。
「それって、プロポーズしてんの……?」
もじもじして、ぐしゃぐしゃになったハンカチを指先でいじり始めた。それに視線を落として、また僕をチラッと見る。見る見るうちに明らかに真っ赤になった。
え、なんで……。なんでそんなことになるの?
自分の言葉を頭の中で反芻する。
15年間分のお返しをする。その先もずっと…ずっと助ける…ということは、そばにいる…ということは……。
……。
そうかな。そう捉えられても仕方がない言い方だったかな。
急に顔が熱くなる。ドクンと心臓が跳ね上がった。
え、熱っ。
え〜っ
いや、いやいやいやいや……。プロポーズしたつもりはないんだけど、結果的にそういう言い方になってしまったというか…。マイがすでに黒沢と関係が切れているかどうかすらわからないのに、順番が逆じゃね? そもそもまだ正式に付き合ってもいないのに、すっ飛ばしすぎじゃない?
恥ずかしくて、頭が真っ白になる。ドキドキする。
またマイと目が合う。こちらを見ている。久しぶりにしっかり見つめ合った。ああ、マイだ。懐かしさと愛おしさが込み上げてくる。
でも、ちょっと待って。
「え〜っと〜その……。なんというか〜、う〜ん…」
恥ずかしくて、なんとなく立ち上がって後ろ髪をボリボリとかいた。マイも真っ赤になって前髪を触っている。
「あら、あなたたち、何してるの?」
ちょうどいいタイミングで、おばさんが帰ってきた。いや、助かった。
その後、僕たちはりんごをむいてもらって、一緒に食べた。おばさんが最近のはやりのドラマが面白いとか、退院したら駅のそばにできた新しいカフェに行こうとか、そんなたわいもない話をしていたけど、僕はマイを妙に意識してしまって、顔を上げられなかった。マイも終始、うつむいたままだった。時々、チラッと見てみると、あっちもチラチラこっちを見ている。目が合うと恥ずかしくて、またお互いそっぽを向いてしまった。
絶対、今、顔真っ赤やし……。
帰りしなに、おばさんが病室の外まで見送りに来てくれた。僕の耳元に口を寄せると「私がいない間に何があったのか知らないけど、マイがこんなにご機嫌だったのは入院して以来、初めてよ。やっぱりまあくんが最高の薬なんだわ。明日から毎日、来てちょうだい」と真剣な顔をして言う。
毎日!
顔を離すと「毎日は冗談だけど、それくらいの勢いで来て。まあ、順調ならもうすぐ家に帰れそうなんだけど」と言って、ニコッと笑った。
よかった。
母さんに言われて最初は嫌々だったけど、お見舞いに来て、本当によかった。なぜだか、ホッとした。駅に向かう夕暮れの道は、相変わらず暑かった。だけど、行きしなみたいに不快じゃない。心はポカポカと温かかった。
駅前の立ち食いそばに寄ってきつねうどんで腹ごしらえをすると、ネバギバの夜クラスに行った。絶好調だった。まだいろいろなことがクリアできていないはずなのに、久しぶりにマイと話せたことで、僕の心は浮き立っていた。
今なら、なんだってできるような気がした。