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第42話 宮崎先生

 宮崎先生のはげ上がった後頭部を見ながら、後をついて行く。背が高い先生の後頭部をこの角度から眺められるのは、1年生では僕か黒沢くらいしかいないだろう。


 そんな歳ではないと思う。聞いたことがないので正確にはわからないが、たぶんまだ40代だ。その証拠に、耳の上や後頭部の生え際に残った髪は黒々としている。バレーボールで鍛えた体は引き締まってたくましく、顧問を務めている男子バレーボール部の部員たちから、大いに尊敬され、愛されていた。黒縁眼鏡とちょび髭がトレードマークで、いつも洒落たシャツとスラックスでキメている。髪がふさふさならば、さぞかしモテるだろう。


 職員室のドアをガラッと開けた先生はそこで一瞬、立ち止まって室内をぐるっと見回すと「ああ、やっぱり別のところに行こう」と回れ右をした。眼鏡をかけているのですっとぼけた印象があるが、それを外すと思った以上に素顔はダンディーだ。僕は知っている。


 先生は僕を連れて、職員室の隣の応接室に行った。「誰もいないな。よし、使っちゃおう」と言いながら入っていく。応接室はムッとした夏特有の熱気がこもっていた。ドアのそばのクーラーのスイッチを入れて、目の前にあった薄緑色のソファに座った。


 「座れ」


 促されて、向かい側に腰掛ける。座った瞬間、思っていた以上にクッションが沈み込んだ。なぜソファというやつは、こんなに背が低いのか。膝が窮屈で気持ちが悪い。居心地の悪さが、不安な気持ちを増幅させた。


 「単刀直入に聞くわ。今朝、岩出の写真を貼ったのは、城山か?」


 淡々と聞かれた。責めるトーンではなかった。


 「いえ、違います」


 先生は眼鏡のブリッジを左手の中指でスッと上げて、位置を整える。


 「岩出をシメたのは、城山か?」


 引き続き、責める口調ではなかった。冷静に、事実だけを確認したいという意図が感じられた。


 シメたのは確かに僕だ。ただ、写真を撮ったのは別の人間である。素直にイエスと言いづらくて、どう答えたらベストなのか迷ってしまい、口をつぐんだ。


 「今朝、岩出を事情聴取した。シメたのはお前だと言っていたぞ」


 先生は座り直した。浅く腰掛けていたが、深く座り直す。腰を据えて、僕からいろいろと聞き出したいらしい。


 それは嘘じゃありません。でも、写真を撮ったのは僕ではないし、貼ったのも僕じゃない。誰が貼ったのかも、知らない。


 自分でもよくわからない部分が多くて、説明するのが億劫だった。


 全てを説明すると、マイが岩出に乱暴された話までしなければいけなくなる。それはマイの尊厳のためにも、避けたかった。僕は沈黙したまま、宮崎先生の細い目を見つめた。


 先生も素の顔のままで、僕を見つめ返す。感情が読めない。


 オーエイ、いち、に、さん、しー

 オーエイ、にー、にー、さん、しー


 放課後で部活が始まったのだろう。どこかでランニングの掛け声が聞こえる。窓から差し込む陽光がオレンジ色になり、午後も遅い時間になったことを告げていた。


 先生は、僕とのにらみ合いを仕切り直すかのように、スンと鼻を鳴らした。


 「城山。先生たちは馬鹿じゃない。お前らが思っている以上にお前らのことを知っているし、見ている。入学以来、ずっと黒沢らにいじめられていたのも、知っている。岩出がその軍団にいたことも、把握している」


 相変わらず淡々と、語りかけてくる。手持ちのカードを切ったつもりなのだろうか。


 ああ、そうですか。

 まあ、そうじゃないと困りますけど。

 見ているだけで、放っておいたのかよ。


 少しイラッとした。


 「3組の黄崎のことと、関係あるのか?」


 ギクッ。思わず息を飲んだ。


 黒板の字は、きれいに消した。残っていたはずがない。動揺が顔に出てしまったかもしれない。鼓動が早くなる。


 先生は、また座り直した。身を乗り出してくる。


 「お前、ずっと黄崎と仲良かったんだろ。中学校からの引き継ぎで聞いているよ。黄崎のためにやったのか? 何があったんだ? 先生は、できればお前たちの力になりたい。いや、力にならせてくれ」


 口調が変わった。熱を帯びて、迫ってくる。


 どこまで知っているのだろうか。岩出はどこまでしゃべったのだろう。


 マイは2学期に入って、全く学校に来ていない。母さんによれば、まだ入院しているらしい。クラスが別とはいえ、同じ学年だから情報は共有しているだろう。自殺未遂したことは聞いているはずだ。


 「なあ、城山。どうだ?」


 先生は両手を開いて、身を乗り出した。細い目を見開いて、僕を真っ直ぐに見つめる。


 信頼できる大人だとは思う。だけど、話すわけにはいかない。


 マイは誰にも言えないほどの屈辱を味わって、それこそ死にたくなるくらいの屈辱を味わって、世界から消えてしまいたいと思って、それを実行した。命は取り留めたけど、どれだけ辛くて苦しい思いをしているかは、ずっといじめられっ子だった僕には少しだけわかる。


 死ね、オナニー野郎


 もう二度と学校に行けない。自分の部屋からすら出られない。次はどんな傷つけられ方をするのか。想像するとパニックになって、怖くて怖くて仕方がなかった。この世から消えてしまいたい。何度そう思ったことだろう。だけど、僕には死ぬ勇気はなかった。いや、死ぬという選択肢から、目を背けさせてくれた人がいた。


 マイだ。


 マイがいたから、死を選ぶことはなかった。


 嫌われて、からかわれて、生きている価値なんてないと落ち込んだ時、いつもそばにマイがいた。笑顔で励ましてくれて、こんな僕にも異性の友達がいる、見捨てない友達がいるという事実だけで、少しずつ前に進むことができた。


 「すみません。何も知りません」


 あっさりと嘘をついた。嘘と動揺を隠すために、表情は変えない。変えなかったつもりだ。


 先生はしばらく沈黙して、僕が何か言うのを待っていた。


 何も話す気はなかった。少なくとも、今は。


 「そうか」


 先生は開いた両手でポンと自分の膝を叩くと、肩をすくめて、わざとらしくよっこいしょと言って立ち上がった。


 「わかった。じゃあ、これ以上は聞かない。だけどな、城山。先生はいつでも、お前の話を聞く準備はできているから」


 さっきまでの淡々とした感じではなく、優しい口調だった。見下ろされてはいるが、手を差し伸べられているようにも感じた。僕も立ち上がった。


 「困ったことがあれば、なんでも言って来い。今回の件とは、全く関係のない話でもいい。もちろん秘密は守る」


 先生は目を細めて軽く微笑むと、僕に言い含めるように少しゆっくりと言った。応接室のドアを開ける。出ろ、と手招きする。「ああ、そうだ」と言うと、スラックスの尻ポケットからスマホを取り出した。


 「城山、LINE交換しよう」


 えっ。


 先生と直接、やりとりすんの?


 一瞬、ためらったが、もしかしたら何か緊急事態の時に使えるかもしれないと思って、交換した。まあ、何かあれこれ詮索されて面倒なようなら、ブロックしてしまえばいい。


 「ああ、あと、香川先生からの依頼なんだが、黄崎の家にプリント持っていく役目、お前がやってくれないか?」


 香川先生というのは、マイがいる1年3組の担任だ。まだ若い女性で、スレンダーで笑顔がかわいいので、一部の男子の間では人気がある。ただ、あだ名は「鹿」。確かにスラッとしているので、鹿っぽい。ちなみに担当は生物である。


 断る理由はなかった。むしろ、それは僕こそやるべき仕事だと思っていた。


 「はい。隣ですから」


 僕は即答した。


 職員室に行き、「城山、ありがとう。助かるわ」という香川先生から大きな封筒に入った大量のプリントを受け取って、ようやく下校が許された。


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