岩出は指先が白くなるくらい強く拳を握ると、ボクシングっぽい感じに構えた。軽くステップを踏んで、左右へと動き始める。
なんだ、これ。まるで素人じゃないか。一瞬、岩出がかわいそうになった。
1週間の間に、黒沢から何か仕込まれたのかもしれない。だけど、構えを見ただけで初心者どころか、何も知らない素人だと分かる。脇が開いて腰が引けて、これではまともなパンチは打てない。顔は緊張なのか恐怖なのかとにかく引きつって、目は吊り上がり、なぜか口元はタコのように突き出していた。
最初に何発か、もらった方がいい。もちろん、防御の上からね。
岡山さんの独り言を思い出す。こっちが先に仕掛けて、一方的に叩きのめしたとなると、言い逃れできないかもしれないからだ。
「岩出、行け! ビビってんじゃねーぞ!」
審判なのに、黒沢が大声で指示を出している。
「うおぉぉ〜!」
岩出は突然、雄叫びを上げて突っ込んできた。せっかくボクシングスタイルで構えていたのに、ガードを下ろして僕の腕をつかんで押し込んできた。後退していなすと、あっけなく転倒した。
「はい、スリップ! 続行!」
黒沢の声が嬉々としている。
岩出は一度、ひっくり返って少し落ち着いたのか、今度はパンチを振り回してきた。ものすごい大ぶりで、当たりそうもない。
不思議だ。
さっきまでめちゃくちゃ緊張していたのに、自分でも驚くほど落ち着いていた。いじめられっ子の自分が、不良がけんか大会をしている会場なんかに来たら、それこそ小便を漏らして腰が抜けてしまうのではないかと思っていた。だけど、パンチを避けるたびに、どんどん冷静になっていく。
ものすごく隅々まで見えている。岩出はもちろん、その後ろでうれしそうに審判ごっこをしている黒沢の表情も。舞台の袖で、冷ややかにこちらを見ている新田の眼差しも。観客席で歓声を上げている少年少女、一人一人の顔までも。
どうしちゃったんだ、僕。
逃げ回るのをやめて、少しその場で立ち止まった。岩出のパンチがブロックの上からポコポコと当たる。振り回しているだけなので、オープンブロー……要するに手のひらの部分が当たって全然、痛くない。
よし、パンチをもらった。そして、防御もした。もう十分だ。
バックステップする。僕は背が高い。僕の一歩は、岩出の一歩半くらいに相当する。パンチが当たって勢いづいたのか、岩出は一気に踏み込んできた。
隙だらけだ。
左手でTシャツの襟の部分をつかむ。右手を逆手にして深く差し込むと、そのままグルリと首を包むように腕を一周させて、一気に締め上げた。
最終的な形は、ブラジリアン柔術の十字絞めになる。ただ、岡山さん的には、犬殺しというらしい。僕の手首が、岩出の首に食い込むのを感じる。最初、何をされているのかわからなかった岩出は僕を2、3発叩いたが、すぐに力任せに振りほどこうと僕の腕にしがみついた。
「か、かはっ」
喉が絞まる時のうめき声だ。暴れようとするので、捕まえたまま振り回して押し倒した。馬乗りになる。頭を地面につけて体勢を安定させると、もう一度、しっかりと絞め直した。
左手が岩出の喉にめり込む感触があった。
早く落ちろ!
岩出の爪が僕の腕に食い込む。ものすごい力で握りしめてくるが、そんなことでこの絞め技が外れるわけがない。ギリギリと鳴っているのは、岩出が歯を噛み締めている音だろうか。唐突にそれがやんで、フッと力が抜けた。首の力みも、スッと消えた。
大丈夫か? もう離しても大丈夫なのか?
恐る恐る、体を起こす。岩出は半分白目をむいて、気を失っていた。口元に触れる。息はしている。立ち上がると、黒沢がポカンとした顔をしてこちらを見ていた。まばたきを忘れたかのように、目を見開いている。
観客席もシーンとしている。
「落ちたぞ」
僕が言うと、黒沢は正気を取り戻したようにこちらに駆けてきた。僕の腕を取ると一瞬、表情をゆがめる。思ったような展開ではなかったのだろう。僕の顔をちらりと見て唇をゆがめたが、すぐに作ったような笑みを浮かべて、観客席を向くと大声を上げた。
「ウイナー、城山!」
観客席がドッと沸く。モラシって言わないんだ。そんなことを冷静に考える時間があった。さあ、とっとと逃げ出さないと。
だけど、その前に。
観客席に向かって何か言おうとしている黒沢の耳元に、口を寄せた。
「この前のトイレでの会話、録音しているから。公開されたくなかったら今後、マイに一切、関わるな。僕にもだ」
決闘が決まってから、何度も何度も暗唱したセリフを、一気に伝えた。
黒沢はこっちを見て、目を見開いて「えっ」と言ったようだった。会場の歓声でよく聞こえなかった。だけど、もう返事を聞きなおしている時間はない。踵を返すと一気に駆け出した。舞台袖にいた新田の横を駆け抜け、観客席ではなく舞台裏から山の中に駆け降りた。
「新田!」
黒沢が新田を呼んでいる声がする。追いかけさせるつもりか。
夏合宿以降のラントレで、僕は走ることに少し自信が芽生えていた。しかも、ここは小さい頃に何度も遊びに来て、勝手知ったる場所だ。木の枝に打たれながら記憶にある小道を走り抜けて、ハイキングコースに飛び出す。
そのまま、一度も後ろを振り返らずに駐輪場まで行くと、自転車に飛び乗って家まで一目散に帰った。幸いなことに、誰も追いついてこなかった。