1時間目が終わると、北校舎のトイレに飛び込んだ。
助かった。このトイレには、本当に感謝の思いしかない。ありがとう、秘密のトイレ。
教室に戻る。小耳に挟んだ話ではなく、誰かから噂の真相を聞きたかった。
岩出に聞けばいいのだろうけど、そんな勇気はなかった。直接、聞かされるのも嫌だった。もし現実だとして、あいつの性格を考えれば僕に直接、言いにくるだろう。そうやって人を傷つけるのが大好きな人間だ。チラッと岩出の席を見る。何人かのクラスメイトに囲まれて、楽しそうに話している。
今のうちに視界から消えよう。
廊下に出ると、都合のいいことに梅野がいた。僕が不登校だった間に、マイに代わってプリントを届けてくれたやつだ。同じ町内会に住んでいて、小学生の頃から知っている。ずっと野球をやっていて、中学校まで接点は全くなかった。僕をいじめるグループにも入っていなかった。進学して初めて同じ高校なんだと知って、少し話をした。梅野はスポーツマンらしく陰湿なところがなくて、カラッとした親切なやつだった。
「梅野、ちょっといい?」
声をかけた。自販機に飲み物でも買いに行くところだったのだろうか。パンパンに膨れ上がった財布を持っている。
「ん? なんね?」
顔はこっちに向けたが、立ち止まる様子はない。僕は並んで歩き出した。
「自販機行くから、一緒に行こうや」
「ええよ」
梅野は高校でも野球部に入った。ポジションは中学時代からキャッチャーだ。太ももがすごい。スラックスがパンパンにはち切れそうだ。蹴ったら強烈な威力があるに違いない。
運動部員というのは本当にいろいろなことを知っている。情報通だと言っていい。先輩、後輩がいて、同学年でも他のクラスにチームメイトがいるせいだろう。梅野も多分に漏れず、情報通だった。話ができるのをいいことに、僕は困った時には梅野からいろいろと教えてもらっていた。
「黄崎のことやろ?」
こちらから聞く前に、口を開いた。どうせ聞きたのは、この話だろ?と言いたげな表情だった。
「やった本人の岩出が、夏休みの間にクラスLINEで言いふらしたのが発端やねん。俺、初体験した、黄崎とって」
梅野は淡々と説明した。え、そんなに前からなんだ。
「当然、みんな詳細を知りたいわけやん? あいつもLINEでペラペラしゃべるのはまずいと思ったんとちゃう? なんせ、女子もおるしな。『次に会った時に言うわ』って書いてたんや。それで朝から質問攻めにあって、しゃべりまくっているみたいやで」
はあ…。マジか。またお腹が痛くなってきた。
南校舎1階の外側に設置されている自販機に到着する。梅野はお金を投入すると、紙パックのコーヒー牛乳を買った。少し離れたところに移動して、ストローを突き刺して飲み始めた。
「なんか、夏休みに黒沢とかと遊びに行って、そこでやったらしいわ」
ストローから口を離して、僕の方を向く。中学の同窓のよしみか、マイの幼馴染であることで気を使ってくれているのか、茶化すトーンは一切なかった。
なぜだ。マイは黒沢の彼女だったんじゃないのか。黒沢がそんなこと許すわけがない。
あっ。とんでもない妄想に行き当たった。
もしかして、これも僕に対するいじめではないのか?
黒沢は、僕がマイのことを大切にしていると知っている。そのマイを、僕をいじめていた岩出に犯させれば、僕が傷つくことは目に見えている。それを承知で、やらせたのではないか。マイは当然、嫌がっただろう。だけど、黒沢も岩出も力が強い。無理やりやった可能性も否定できない。
なんの根拠もなかった。だけど、真正館京橋道場で、年下の道場生をそそのかして僕のことを「モラシ」と呼ばせたりしていたやつだ。黒幕になるのが好きなやつだ。そんなことを、しないとも限らない。僕が勝手に憎悪の炎を胸の内で燃やしていると、梅野が口を挟んできた。
「だけど、黄崎がそんなこと、するかなあ」
現実に引き戻される。
「岩出は、お願いしたら黄崎がやらせてくれたって言っているんだけど、黄崎がそんなことするか? あいつ、そんな軽い女じゃないやろ。どっちかといえば、正義の味方みたいなイメージがあるんやけどなあ」
梅野は小、中学校が一緒だったので当然、マイのことを小さい頃から知っている。同級生だったこともある。
誰でもやらせてくれる淫乱。
その噂に疑念を持ってくれて、信じてくれない人間が一人でもいることが、僕はとてもありがたかった。
「城山は黄崎と仲良かったやん? なんか知らんの?」
知ってるよ。
たぶん、マイはどういう経緯か知らないけど、岩出に犯されたんだ。それがショックで、自殺を図ったんだろう。
「きょうは学校、来てないみたいだ」
朝、一緒ではなかった。一瞬、誘おうかと思ったが、やめておいた。誘いに行く勇気がなかった。今は、もっとない。しばらく顔を見ることすらできない。
もっといろいろとマイについて知っているが、想像の範囲で話したくなかった。マイを噂話の材料にして、傷つけたくなかった。だから、少し肩を落としたまま、それだけしか言えなかった。
「そらそうやろ。この話がホンマやったら、無理やって。いや〜、これは黄崎は当分、学校来られへん。これはエグすぎる。俺でも、学校行くのキツいわ。高校生レベルちゃうもん」
小学生時代から知っているとはいえ、梅野とマイの距離は、僕とのそれとは大違いだ。だから、こんなふうに人ごとになれる。
僕は、そういうわけにはいかなかった。頭の中がこんがらがっている。何から考えればいいのか、時間が必要だった。