新学期が始まった。あまり気は進まなかったが、僕は学校に行くことにした。そしてすぐ、マイが手首を切った理由を知った。知ったというか、これが理由に違いないということを耳にした。
いじめられっ子は、教室ですごく聞き耳を立てている。本を読んでいるように見えても、実はめちゃくちゃ周囲の話を聞いている。クラスメイトと気軽に話せる前向きな性格ではないので、そうしていなければ情報が入ってこない。休み時間にはいじめっ子に襲撃される可能性もあるので、誰か近づいてくるのではないかと耳をそばだて、目の端で周囲を見回しながら、常に気を張っているのだ。
「岩出が夏休みに初体験したらしいぞ」
「なんやそれ、初エッチってことか」
「そうや。それ以外に何があるねん」
「あのブサイクがなあ。で、相手は誰よ」
「それがな、驚くぞ。3組の黄崎やって」
「えっ、嘘やん!」
「それが、嘘ちゃうねん」
「だって、黄崎って、黒沢くんの彼女とちゃうの?」
「そうやねん。でも、岩出本人から聞いたから、間違いない」
「黄崎ってあんな優等生っぽい顔してるのに、そんな女やったんか」
「岩出が言うには、頼めば誰でもやらせてくれる淫乱らしいわ」
「マジか! じゃあ、俺もお願いしてみようかな!」
…。
耳ダンボにして聞いたクラスメイトの噂話は、最初は衝撃だった。恐怖や怒りや不安が入り混じって、信じられなくて全身の毛が逆立つほどだった。
嘘だろう?
心の中で言うだけでは物足りず、小さく声に出して「嘘だろう」と言ってみた。だけど、胸の奥にどっしりと溜まった黒い水は、流れていきそうにない。
噂話だ。ただの噂話に違いない。そう思いたかった。だけど、現実に違いないと思っている自分がいる。現実ならば、マイが自殺を図ったこととピタリとリンクするからだ。
僕はクラスのグループLINEに入っていない。入学式の日に入るように誘われたが、中学時代に入って非常に嫌な思いをしたので、絶対に入るつもりはなかった。おそらく今、この話題で持ちきりのはずだ。グループに参加しておらず、ほとんど友達のいない僕の耳にさえ入ってくるということは、この話題は学年中に知れ渡っているとみていい。
岩出が自分で言いふらしている? 僕はチラリと窓側の黒沢の席を見た。
いる。
普通に自分の席に腰掛けて、スマホをいじっている。前の席に同じクラスの郡司というギャルっぽい女子が座って何か話しかけているが、遠すぎて何を話しているかは聞こえない。
岩出はホームルームが始まる直前に、教室に駆け込んできた。ギャハハと楽しそうに笑いながら。
お腹が痛い。
別に自分がいじめられているわけではないのだが、こうしたピリピリした空間にいると、いつもお腹が痛くなって、トレイに行きたくなる。初めて空手の試合に出た時も、そうだった。緊張で何度も便意に襲われ、開会式の直前まで何度もトイレに駆け込んだ。とはいえ何かが出るわけではない。もう出し切ったのに、緊張で便意に襲われるのだ。
トイレに行きたい。
だが、学校で大便をしにトイレに行くのは、死活問題だ。小中学校とそうだった。学校でうんこするやつは、それだけで大罪人なのだ。個室に入っているのを見つかれば、たちまちクラスメイトが集まってきて、いじめが始まった。
「城山がうんこしとるぞ!」
ドン!ドン!ドン!
個室のドアを乱暴に叩かれ、恐怖でパニックになる。
「うわあ、ブリッっていうた!」
「くっさ〜! 死ぬほど臭い!」
ギャハハと下卑た笑いが響く。
「城山、うんこすんな!」
「うんこ魔王、城山!」
そのうちジャーッと音がして、頭上から水が降ってきた。掃除用のホースで放水しているのだ。トイレを洗うためのタワシも降ってきた。
「やめろ、やめろや!」
びしょ濡れになりながら、口先だけで反撃する。
「お前もうんこと一緒にトイレに流したるわ!」
ギャハハ…。
ずぶ濡れになって泣きながら教室に戻ると、先生が驚いて飛んできた。
「城山、どうしたんや? 着替えへんと」
「先生、城山くんはうんこしてて、トイレに落ちたんです〜」
ギャハハ…。
今でも岩出の笑い声が耳に残っている。
毎朝、きちんと家で用を足して登校できればよかったが、便秘気味の僕は朝の忙しい時間帯にトイレを済ませることができなかった。仮に済ませて登校したとしても学校で緊張すると、トイレに行きたくなった。
長年のいじめられっ子の経験から、僕はこんな時、クラスメイトからいじられることなく、用を済ませられる方法を見つけた。それは、ものすごく単純な方法なのだが、生徒がめったに使わないトイレに行くということだった。
小学校の時で言えば、給食室の前のトイレがそうだった。給食室の周辺には理科室とか家庭科室とか、特別な授業の時にしか使わない部屋ばかりが集まっている。必然的にそのトイレを使う生徒は少なかった。休み時間、小学生や中学生は遊んだり、おしゃべりしたりするのに忙しい。こっそりと行けば、誰にも会わずに用を足すことができた。使う人が少ないので、いつもきれいという点もよかった。
高校にもそういうトイレがあった。入学して早々に見つけた。北校舎の1階は小学校のように理科室や技術室といった、常時使うわけではない部屋が集まっている。その並びのトイレはいつもがらんとして、人気がなかった。ほとんど学校に来ていないので数回しか行っていないが、誰かに会うことはなかった。