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第30話 もう二度と来んなっていうたやんか

 黙っていたらスルーしてくれるのではないかと思っていたが、母さんはそんなに甘くなかった。


 マイが救急車で運ばれてから2日後、母さんに連れられて、お見舞いに行くことになった。ネバギバに行ってしまおうと思っていたら、前夜に「あしたはジム行くのはやめなさい。母さんと一緒に、マイちゃんのお見舞いに行くから」と釘を刺された。


 仕方がない。


 まだ夏本番の暑さで、クーラーの効いた室内から玄関を開けて外に出た瞬間、汗がブワッと吹き出す。格闘技を始めてから、本当に汗をかきやすくなった。母さんは日傘をさすと、きょうも暑いわねと当たり前のことを言って歩き出した。


 途中、スーパーでリンゴとお菓子を買う。入院患者にはりんごよねとか言って、搬送された当日の悲壮感はなかった。


 病院は、うちからゆっくり歩いても15分程度。最近、建て替えられたばかりでとてもきれいだ。病院の入り口でお見舞いの申請用紙に記入して、ナースステーションで改めて名前を書いて、病室へ向かう。母さんは入院した初日に来ているので、慣れた足取りでどんどんと進んでいく。エレベーターで3階に上がり、廊下の奥にある個室がそれだった。


 母さんは軽くノックすると、返事も待たずに静かにドアを開けた。たぶん、意識的にだろう。明るい声を出した。


 「れいちゃん、来たで」


 れいちゃんというのは、マイのお母さんのこと。礼子という。うちの母さんは亜美というので、マイのお母さんからは「アミちゃん」と呼ばれていた。


 大して広くない病室だった。中央にこちらに足を向ける形でベッドがあり、すぐ向こうには窓があった。ベッドの手前のスペースも狭い。椅子を一つ置けば、人が交差することはできなさそうだった。ベッド脇に小さなテレビと、荷物が収納できる小さなロッカー。その前に、マイのお母さんが背中を丸くして座っていた。少しやつれた感じがする。憔悴し切ったって、こんな感じを言うのかな。


 「ああ、アミちゃん。ありがと。ほんま、ありがとう…」


 立ち上がると、歩み寄ってきて抱き合った。もう涙ぐんでいる。よほどショックだったのだろう。


 「まあくんも、来てくれてありがとうね」


 おばさんは僕の手を取って、握りしめた。温かい。だけど、僕の指は久しぶりにマイと会うことへの不安で、冷たかった。


 ベッドの上に、マイがいた。点滴がつながれている。グレーのパジャマ姿で、胸の下まで布団を下ろしていた。


 いや、そんなことより。これが、マイなのか。


 寝ているのか起きているのか、よくわからなかった。目を開いてはいるが、こっちを見ていない。顔つきが、最後に会った時から変わっていた。激変と言っていい。


 マイは活発で明るい子だ。目がくるっと大きくて、いつもニコッと口角が上がっている。ところが、目の前にいるのは、ものすごく険しい顔をした、見知らぬ女の子だった。


 まず、目つきからして違う。マイはこんなに鋭い目をしていない。以前のキラキラした感じがなくて、魂が抜けたようだった。への字に結ばれた口元も、潤いを失ってひび割れた唇も、とてもマイのものではない。ほっぺたがぷっくりとしてかわいい丸顔だったのに、やせて、まるで石像みたいだった。


 「マイちゃん、おばちゃんが来たで。どうや、具合は」


 母さんがベッドサイドに座って、優しく話しかけている。反応はない。


 「意識は戻ったんやけど、昨日からずっとこんな感じなんよ。なんていうの? 心神喪失? 全然、反応がなくてね…」


 おばさんは、またシクシクと泣き出した。


 「れいちゃん、しっかりして」


 母さんが抱きしめて、背中をさする。


 「雅史、ちょっとマイちゃんのこと、見といて」


 そう言うと、おばさんを連れて廊下へと出て行った。


 マイに目を戻すと、相変わらず天井を見つめたままだ。突っ立っているのもなんなので、さっきまでマイのお母さんが腰掛けていた椅子に座った。


 形相が変わったと思ったけど、やつれたんだな。胸の部分が上下しているので、呼吸はしているのだろう。


 「……」


 何か、かすれ声が聞こえた。マイの口が動いている。何か話しているようだ。不安で胸の奥がむずがゆい。それでも今、マイの言葉を聞いてあげられるのは、僕しかいなかった。ごくりと唾を飲み込むと、恐る恐る少し顔を寄せた。


 「え……? 何?」


 小さな、かすれた声だった。ようやく聞き取れるほどの。


 「なんで…来たん…」


 視線は相変わらず天井を向いたままで、僕のことを全く見ていないけど、確かにしゃべっていた。


 「二度と……来んないうたん…自分やんか…」


 つーっと涙が一筋、こぼれ落ちた。唇が小刻みに震えている。


 呼吸が荒くなる。胸が苦しい。鼓動が遅くなったみたいな感じがして、息苦しかった。


 「マイ」


 カラカラになった喉をこじ開けて、名前を呼んでみた。触れていいものだろうか。布団の上に投げ出された細い左手に、そっと手を添えた。


 「大丈夫……?」


 どんなふうに声をかけたらいいのか、昨夜からずっと考えていたのに、いざその時になって口をついたのは、アホみたいな言葉だった。


 大丈夫なわけないじゃん。自殺未遂してるんだぞ。


 マイは泣いていた。うっ、うっと弱々しく嗚咽している。


 「…もう……来ん…といて」


 途切れ途切れに言った。


 「ホンマに…もう二度と……来んといて」


 マイの左腕が、僕の手をそっと押しのけた。あまりに弱々しかったけど、僕はものすごく強烈に拒絶されたように感じた。僕の手だけではなく、存在そのものを拒否するように、マイは腕を動かして、僕の手を弱々しく振り払った。


 「こんな…ウチの……ところなんか…」


 とても理由が聞ける状態ではなかった。聞くつもりもなかったけど。


 「うう……う……」


 マイは手の甲で、いつまでも涙をぬぐっていた。


 母さんとマイのお母さんが戻ってきて、泣いているのを見てびっくりしていた。僕は母さんに病室から連れ出され、わけがわからないままに帰途についた。帰り道、母さんが何か話していたけど、全く耳に入ってこなかった。暑さで汗がにじむ背中とは裏腹に、僕の心は冷え切っていた。



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