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第29話 全部知っているわけじゃない

 8月も終わりに差し掛かっていた。


 新学期になれば、学校に行かなきゃいけないのかな。それともこのまま不登校続けるか。そろそろ決めないといけないと思いながら家に帰ってくると、雰囲気がおかしい。


 「ただいま」


 ネバギバに入会して以降、晩ご飯はいつも帰宅してから食べていた。夕方の練習が始まる前に近くのコンビニで買ったおにぎりやパンを軽く食べ、本格的に食べるのは家に戻ってから。午後10時半頃になる。最初、母さんは「こんな深夜までうろついて、この不良息子」と困った顔をしていたが、そのうち何も言わなくなった。不登校の息子が、家にこもりっきりになっていない方が、まだましだと思っていたのだろう。


 リビングに行くと、テーブルで母さんがスマホをいじっていた。


 「ああ、おかえり。やっと帰ってきた」


 驚いた顔をして立ち上がる。


 「雅史、大変だったんだから」。息せき切って言うと「マイちゃんが、自殺未遂して……。救急車で搬送されたのよ」と続けた。


 母さんは割と大きな声で言ってから、急に声をひそめて「自殺未遂というのは、外では言ったらダメよ」と付け加えた。


 え……? 自殺未遂?


 母さんとマイのお母さんは家が隣同士、子供が同い年というだけではなく、この地域で育った幼馴染で仲がいい。お互い旦那にも言わないことを相談し合う仲だ。だから、マイのお母さんは洗いざらい、母さんに話したのだろう。


 マイのお母さんはパートで働いている。駅前のスーパーでレジ打ちをしていて、夕方に帰ってくる。きょうも買い物をしてから帰宅した。マイは夏休みに入ってから毎日のようにどこかに遊びに行っていて、夜にならないと戻ってこない。ところが、玄関先にスニーカーがあった。あら、出かけてないのかしら?


 「マイー。マイー、いるの?」


 買ってきた食材を冷蔵庫にしまいながら声を張り上げてみたが、返事はない。


 おかしいわね。別の靴で出かけたのかしら? でも、最近はずっとこの靴がお気に入りだったし…。


 スーパーのユニフォームを洗っておこうと脱衣所に入ったところで、違和感を覚えた。風呂場のドアが閉まっていたのだ。いつも湿気を逃すために開けていくのに。マイのお母さんは何気なくドアを開けた。


 浴槽に、服を着たままのマイが横たわっていた。


 水を張っている。昨日の残り湯に入ったのだろう。バスタブは水色なのに、水が鮮やかなピンク色に変わっていた。そして、顔は真っ青だ。


 「マイ!」


 風呂場に飛び込んだ。手の震えを必死に抑える。浴槽の水はぬるいはずなのに、マイの身体は氷のように冷たかった。自分の服が濡れるのも気にせず、背中を抱える。壊れ物を扱うように、慎重に、それでいて必死に引き上げた。


 「マイ、しっかりして!」


 浴槽から引きずり出すと、呼吸を確認した。


 マイのお母さんは地域の役員をしていて、救急救命講座なんかにも参加して、こんな時の対処法を知っている。だけど、それにしても、自分の娘が目の前で冷たくなっている時に、よく冷静にやれたものだ。うちの母さんはどうだろう。


 浅く、ごく浅く呼吸があった。脈もある。左手首の内側に切り傷があった。


 まさか、自殺? マイが、なぜ?


 パニックを必死で押し戻しながらリビングに駆け戻り、119番を押す。そして救急車が到着。びっくりした母さんが飛び出して、泣き崩れるマイのお母さんに付き添って、病院へ行った。


 「何があったのか知らないけど、マイちゃんが自殺未遂なんてねえ…。本当に、何があったのか……。雅史、知らない? って言っても、あんた学校、行ってないものね。知らないわよね……」


 呆然とした。


 頭が真っ白になって、何も考えられない。マイが自殺? 自殺って、自分で死ぬっていうあれ? マイが? なぜ? 本当に? 指先がスーッと冷たくなる。理解しがたい。意味がわからなかった。


 僕の知っているマイは、決して自ら命を絶とうと思うような人間ではない。むしろ、その逆だ。どんなに辛いことがあっても、涙を拭いて何度でも立ち上がる。それが、僕の知っているマイだった。


 知らない。


 何がマイをそんなの追い詰めたのか、わからない。だけど、黒沢がなんらかの形で関わっていることは間違いなかった。マイをこんなふうに変えられる人間がいるとすれば、黒沢以外に考えられない。


 「マイちゃん、入院になってね……。出血多量で、体温も下がっちゃってて、大変だったみたい。命に別状はなかったらしいんけど…」


 話しながら、母さんは泣き出した。ハンカチで涙を拭き、そのままチーンと鼻をかむ。


 「あなた、お見舞いに行ってきなさいよ」


 そう言われるだろうと思っていた。僕は、まだ現実を受け入れられないまま、ぼんやりと母さんの言葉を聞いていた。


 「けんかしてたみたいだけど、まさかそれが原因じゃないわよね? もしそうなら、あなたが頭を下げて謝ってきなさい。まあ、あれはもう1カ月近く前の話だし、違うと思うけどねえ…。ああ、マイちゃん、かわいそう……」


 母さんにとって、マイは赤ちゃんの時から見てきた、親友の娘だ。自分の娘のようにかわいがっていたので、心配で仕方がないのは理解できる。


 ただ、僕はマイに合わせる顔がなかった。「二度と来るな」って言ってしまったし。黙っていると、母さんが怖い顔をして「雅史、こんな時こそ、幼馴染の出番なのよ。全部知ってる、一番の親友なんだから」と言った。


 母さん、ごめん。申し訳ないけど、マイのことを全部、知ってるわけじゃないんだ。以前ならば全部知っていると、胸を張って言えただろう。でも、もう今は違う。マイは、僕の手の届かないところに行ってしまったんだ。

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