夕食は、また弁当屋の仕出しだった。少年部は早々に食べ終わると、ジムの下の道路で手持ちの花火で遊び始めた。
「代表、来年は焼肉やりましょうよ。コンロ持ってきますから」
長崎さんが缶ビールを片手に、代表に訴えている。眉根を寄せて、だだっ子のようだった。確かに、合宿の晩飯といえば焼肉のイメージだ。めちゃくちゃ運動して、ガツンと肉を食う。だけど、ネバギバの合宿の晩飯は至って普通だった。
「嫌だ」
代表は全くの素の顔で、即答した。
「なんでですか?」
あまりに返事が早かったせいか、長崎さんは目を丸くして驚く。
「だって、焼肉やったら、匂いが染みついちゃうじゃない」
「消臭剤使えばいいじゃないですか」
「実はここを始めたばかりの頃、やったことがあるのよ。で、その後、すごい匂いが残っちゃって。それで、もうやらないの」
そんなことがあったんだ。確かにこのスペースで、今の人数で焼肉をやれば、ジム内は煙で充満しそうだ。
「あ〜あ、ガーッと動いた後だし、バーッと焼肉食べたいなあ」
あぐらをかいていた長崎さんは、諦めきれない様子で足を投げ出した。缶を傾けて、ビールを飲み干す。チラッと目が合った。
「そういえば雅史、千葉ちゃんとやって、どうだった? 感想は?」
いたずらっ子のような笑みを浮かべて、僕ににじり寄ってくる。
「やったとかいうな」
少し離れたところから、千葉さんのマジツッコミが入った。
「え、そうですね…。いや、昨夜、岡山さんがおっしゃっていた通り、余計なことを考えている暇はなかったです」
カッコつけたわけじゃない。素直に、そう思ったのだ。
結局、千葉さんとは3本、スパーした。1本目でコテンパンにやられて、股間のたぎりはすっかり収まってしまった。これは、もっと集中してやらないと、何もできない。何もさせてもらえない。
「城山、とりあえず私からマウント取ってみなよ」
課題をもらって、クラスで習ったことを思い出して、必死でマウントを取りに行った。
マウントというのはサイドと同じくポジションの名称の一つで、要するに相手に馬乗りになることをいう。総合では一方的に殴ることができる、有利なポジションだ。
千葉さんは僕との間に器用に膝を割り込ませると、クルクルと回っていつの間にか僕をひっくり返して、面白いようにアームロックや腕十字、バックチョークでタップを奪った。
何もできない。エロい妄想で頭がいっぱいだった自分が、恥ずかしかった。
「まあ、そんなにがっかりすんなって。寝技はキャリアがものをいうって言うからね。城山が私に勝てないのは、当たり前なんだよ」
千葉さんは僕の肩に手を置くと、そう言って慰めてくれた。
浮かれていた午前中の自分に今、抱えているみじめな思いを見せてやりたい。
千葉さんは、かわいい。今、そこで座って豚の生姜焼きをオンザライスしてがっついている姿も、かわいい。スタイルがよくてムラムラするのは、今でも変わらない。
だけど、スパーする時は別だ。真剣に集中してやらないと、何もできない。そして、胸を貸してくれる千葉さんにも失礼だ。
花火大会が終わったのか、少年部がわいわいと階段を上がってくる。ミユちゃんが真っ先にジムに飛び込んできた。青い色褪せた薄手のパーカーに、濃いピンク色のショートパンツ。日焼けした足をすらりと伸ばして弾むように駆けてくると、千葉さんに抱きついた。なんと、うらやましい。許さんぞ。
「マコさん!」
ミユちゃんは千葉さん相手だと、かわいらしく笑うのだ。
「な〜に、ミユちゃん」
「城山はきょう、エロはあかんって気がついたみたいやで!」
例によって僕によく聞こえるように、大きな声で言う。声が弾んでいる。花火、楽しかったのだろう。
「そうやね。私もそれは気づいたわ」
千葉さんは、愛おしそうにミユちゃんの頭をなでた。それに満足したのか、ミユちゃんは鼻息を荒くして、また少年部の元へと戻っていった。
2日目の夜も気が狂ったように雄叫びを上げながらウエートトレーニング(2日目はベンチプレスだった)をして、3日目も朝から同じラントレだった。それが終わると、千葉さんは「じゃあ、私、親と出かける用事があるから、帰るわ」と言って、やり切った表情で去っていった。
寂しい。心にポッカリと穴が開いた。
3日目は午後から立ちレス。要するにグレコローマンスタイルのレスリングだ。立って組み合って、倒し合う。これもめちゃくちゃしんどい。どんなに踏ん張っても翔太をはじめとするアマチュア選手たちに簡単に浮き上がらされて、ひっくり返された。打ち込みをして、またスパーを1時間強。それが終わって、ようやくネバギバ夏合宿は終了した。
「ああ……疲れた」
思わず口にしてしまう。
翔太と一緒に歩いて帰途についた。例によって無言だ。まあ、いつものことなので気にしない。チラッと見ると、目があった。
一拍置いて、声に出さずに、いつもの真顔でうなずく。そうか。翔太もさすがに疲れたんだな。
「翔太はいつ走ってるの?」
気になっていたことを、聞いてみた。返事をするまですごく時間がかかるのも、いつものことだ。
……。
「土曜日の、夜」
「一人で?」
……。
こっちを見て、真顔のままうなずく。そうなのか。僕も、あんなふうに走れるようになるだろうか? 走れるようになれば、もっと強くなれるのかな? 翔太の背中を追いかけていけば、違う世界に連れていってくれるような気がした。
「僕も一緒に走っていい?」
……。
翔太は前を見ていた。わかっている。別に思案しているわけじゃない。ただ、どうやって返答するか、考える時間が必要なんだ。
こっちを見ると、また真顔のままでうなずいた。
「そっか。じゃあ、またLINEするわ。翔太、LINE教えてよ」
翔太は短パンの尻ポケットからスマホを取り出した。その時、待ち受け画面が人気漫画「ダンダ◯ン」だったのを、見逃さなかった。へえ、こういうのが好きなんだ。普段、しゃべらないから趣味とか全然知らなかったけど、意外と志向が合いそうだ。
次の週から、僕は翔太とラントレをするようになった。翔太は合宿の時のメニューを最低限の基準にしていて、走り足りなければさらに何本か追加していた。土曜の夜だけかと思ったら、水曜日も走っているという。ジムの練習が終わってから。驚いて、思わず聞いた。
「えっ、それ終わるの、夜中にならん?」
「なる」
石川家はよくそんな深夜まで、子供を外に出していて平気だなと思う。うちはたぶん、許してもらえないだろう。
夏休みの間、ほぼ毎日のようにジムに行った。合宿で自分だけウエートトレーニングが満足にできなかったのが悔しくて、午後のミユちゃんとの稽古を終えてから、バーベルを担ぐようにした。
一日中、練習して、週末は走って。お盆の時期にネバギバは3日間、休館したが、ちょうどその期間は僕も親の実家に行っていた。お盆が明けると、また練習漬け。マイや黒沢のことを思い出している暇は、なかった。