「は〜い、朝で〜す。起きて〜」
気がついたら代表の声で起こされていて、いつの間にかちゃんと布団の中で寝ていた。まぶたが重い。起きあがろうと体をひねると、背中の筋肉痛で思わず「あいた!」と叫んでしまった。背中だけではない。太もももふくらはぎも、ガチガチだった。立ち上がると、全身が軋んだ。
凄まじい濃度の合宿は、1日目がいつ終わったのか気づかないまま、2日目に突入した。
2日目も午前中はラントレだった。
「走るのは全ての基本だから。強く、上手くなりたかったら、走ることに手を抜かないこと。わかった?」
代表が相変わらず気の抜けたような声でしゃべっているが、冷静に聞くとゾッとしない内容だ。また大汗をかいて早朝から鶴見緑地までジョギング。代表の注意に、アマチュア選手たちが「押忍」と返事をする。みんな前日の疲労が残っているようで、少しやけくそ気味だ。それにしても、「押忍」は空手界でのあいさつ言葉と認識していたけど、ここでも使うんだな。
前日の猛稽古のダメージがはっきりと残っていて、全身が痛かった。特に足腰はひどい。ふくらはぎ、太もも、腰までカチカチだった。足を前に運ぶたびに、膝がギシギシと軋んだ。
こんなんで走れるのか?
「城山くん、大丈夫か? 初めてやった翌日だから、辛いだろう」
岡山さんが心配そうな顔をして、気遣ってくれた。きょうは休みなので、朝イチから参加している。黒い半袖ラッシュガードに、グレーの短パンという出立ちだ。太い膝は、重戦車を思わせた。
「オカさん、甘やかしたらダメだよ。城山、きょうも気合入れて行くぞ!」
その向こうで千葉さんがニカッと笑っている。腕をグッと曲げると力こぶを作って、パンパンと叩いた。朝からテンション高め!
はい! やります! 千葉さんの命令なら、なんだってやります!!
午後には千葉さんと初めてグラップリングのスパーができるのだ。それを思うと、こんなところでくたばってはいられなかった。
千葉さんが僕の上に乗ったり、千葉さんが僕に組み敷かれたり。想像するだけで、股間から何かが吹き出しそうだった。
「マコさん、城山が朝からエロい顔しとる」
いつものポーカーフェイスで、ミユちゃんが千葉さんにチクっていた。僕に聞こえるようにするためか、いつもより声を張り上げている。小学生め、なんとでも言え。僕は千葉さんとスパーするんだ。子供は引っ込んでろ。
疲労で上がらない足を必死で動かして、何とか午前のラントレを乗り越えた。1分間走以降はサボれないように(サボろうとしているのは僕しかいなかったけど)2人1組で走る。今朝は岡山さんと組ませてもらった。足が短くて走るのは決して速くなさそうなのに「えっほ、えっほ」と言いながらどんどん僕を引き離していく。最後までバテない。重戦車、恐るべし。
「はぁはぁ…。警察官、半端ないっすね」
岡山さんは、ペットボトルの水をごくごくごくと一気に半分ほど飲んだ。プハァと気持ちよさそうに声を出すと、にこやかな笑顔を僕に向けた。
「いやあ、僕なんか大したことないよ。職業別ですごいのは消防士だろうね。消防士の鍛え方は、マジ半端ない」
そうなのか。消防士、気をつけよう。
ヘトヘトになってジムに戻ってきたが、前日のような疲労感はなかった。むしろ高揚感で体がパンパンに膨れ上がって、破裂しそうだった。そう、あと数時間頑張れば、千葉さんとスパーができるのだ。
延々と三角締めや腕十時の打ち込みをした後、ついに念願のスパーの時間がやってきた。
「よし、城山! 早速やろう!」
千葉さんは真っ先に僕のところへ来てくれた。なんと光栄な。うれしくて涙が出そう。心臓がバクバクではなく、バックンバックンと跳ね上がって、体まで飛び上がってしまいそうだった。不安や恐怖はどこへやら。期待しかなかった。
「上になる? 下がいい?」
グラップリングのスパーでは、上から攻めるか、下から攻めるかを最初に決めてしまうことが多い。2人とも立った状態で始めると倒し合いになって、周囲でスパーしている人にぶつかってしまうからだ。
上とか下とか、早くもエロい。顔が熱くなる。いや、待て。これは格闘技の練習なのだ。そんなエッチな話ではない。冷静になれ。しかし、僕が下になりますと言おうとするのを制して千葉さんが「いや、私が下になるわ」と言った瞬間、理性が吹っ飛びそうになった。
「は〜い、じゃあ、けがのないようにね〜。タップは早め〜。我慢はしない〜」
代表がのんびりとした声で注意事項を説明する。
そして、タイマーをスタートさせた。
千葉さんはゴロンと寝転ぶと「サイドからやろう。ほら、おいで」と手招きした。
じ、じゃあ、すみませ〜ん。いただきまーす!
サイドというのは、柔道でいうところの横四方固めだ。グラップリングでは上の人間が圧倒的に有利なポジションとされている。
僕は千葉さんに覆いかぶさった。ウェアをきちんと手入れしているのだろう。柔軟剤のいい匂いがする。密着した瞬間、布越しに千葉さんの体温が、体のなめらかなラインが、伝わってきた。ドキドキ感が抑えられない。
た、たまらん。股間はパンパンに膨張して、もう爆発しそうだった。
「はい、じゃあ、スタート!」
千葉さんが僕の背中をポンと叩く。
ブリッジして僕のあごの下に腕をねじ込むと、腰を引いて隙間を作ってきた。
この腰を引いて隙間を作る動作を、エビという。エビが丸まった形に似ているからだ。寝技で最も重要な基本ムーブと言われている。
逃がさない。千葉さんとの密着タイムを早々に終わらせるわけにはいかなかった。腰を上げて追いかける。千葉さんはさらにくるりと丸くなると、僕の体との間に膝を入れた。
まずい。逃げられる。
体勢を低くして抑え込もうとするが、千葉さんは膝を上手に使って、僕をすくうようにして押し上げた。ヤバいヤバいと焦っている間に、いつの間にか天井を見ていた。気づけば下になっていた。
スタート時点とは全く逆の態勢になった。千葉さんが僕を押さえ込んでいる。クルクルと目まぐるしくポジションを変えて、あっという間にアームロックを決められてしまった。床を3回叩いて、タップする。
タップというのは、降参したことを表すサインだ。相手の体か、床を3回叩いて、負けたことを認める。そうされた相手は、相手を離さないといけない。
千葉さんの太ももが、僕の後頭部に触れていた。思っていたほど、柔らかくない。いや、そんなことより、もっと真剣に集中してやらないと。タイマーを見ると、まだ20秒程度しか経っていなかった。グラップリングのスパーは3分で回している。一体、終わるまでに何回、決められる?
余計なことを考えている暇は、ないね。
昨夜の岡山さんの言葉を思い出す。そうか、こういうことだったんだ。
「城山、集中してやんないと、100回くらい決めちゃうよ」
余裕の笑みを浮かべた千葉さんが、拳を差し出す。
そうだ。もっと真剣にやらないと。
僕は千葉さんにグータッチを返すと「お願いします」と気合を入れ直した。
両腕がパンパンになって鉛のように重く、指先もガチガチになって動かせなくなった頃に、ようやくグラップリングのスパーが終わった。背中が疲労ではち切れそう。ジムの隅っこのマットに突っ伏して、起き上がることができなかった。