目次
ブックマーク
応援する
5
コメント
シェア
通報

第26話 ソイヤ!

 少年部は午後8時に解散になって、それぞれ親と一緒に自宅に帰っていった。


 「マコさん、また明日」


 ミユちゃんも手を振って帰っていく。相手が千葉さんだからか、珍しく小学生らしい無邪気な笑みを浮かべていた。そして、千葉さんもこのタイミングで帰宅だった。


 「ゆっくりお風呂に入りたいしね」


 千葉さんは、片手でポニーテールにまとめていたヘアゴムを無造作に外すと、頭を振って髪を解いた。ダークブラウンに染めた髪が、昼間の熱気をまだまだ残した夜風にフワッと揺れた。


 何度もこの人相手に性的に興奮しているけど、それ以上にカッコいいなと思った。


 「なあ、城山」


 ジムの下の道路に出て少年部の子供たちを見送っていると、千葉さんに声をかけられた。


 「なんで空手やめたの?」


 たぶん、この質問に深い意味はなかったと思う。千葉さんも微笑んでいたから。でも、僕は答えられなかった。代わりに強く奥歯を噛み締めた。


 好きだった幼馴染を奪っていったやつがいて、そいつから逃げ出してきたなんて、とてもじゃないけど、言えない。僕が黙っていると、千葉さんは「城山は、まだ空手が好き?」と聞いてきた。


 はい。空手は好きです。


 クズみたいないじめられっ子だった自分でも、頑張ったらちょっと成長できるかもしれないということを、空手は教えてくれました。


 僕は小さくうなずいた。


 「そうか」


 千葉さんは、改めてニコッと笑った。


 「私はね、死ぬときは空手着で棺桶に入りたいんだ。それくらい空手が好き」


 ポンと僕の肩に手を置くと、少し乱暴に揺さぶった。そして「明日も頑張ろうね」と言うと、手を振って駅の方へと歩いて行った。


 ジムに戻ると、翔太が僕のことをにらんでいる。翔太だけではなく、アマチュア選手たちが「なんだよ、雅史ばっかりマコさんにかわいがってもらっちゃってさ」と口々に言う。なんだか、いじめられている時と違う感覚だ。なんだろう。女性関係?をいじられるのって、むずがゆくて、ちょっとうれしい。


 「は〜い、お前たち。お遊びはもう終わりだぞ。これからは男同士の時間だからな〜」


 代表がパンパンと手を叩くと、え〜とか、あ〜とか弱々しいため息が漏れた。


 えっ、これからまだ何かやるの?


 残っているのは僕と翔太と、あとアマチュア選手が5人。見ていると、ジムの片隅にあるウエートトレーニングのスペースで、バーベルを用意し始めた。


 「みんな似たような体格だから、とりあえず60キロから始めよう」


 それから、地獄の筋トレ大会が始まった。


 「雅史、バーベル担いだことあるか?」


 「え、ありません」


 「じゃあ、雅史からやるか」


 スクワットやってみ、と言われて、その場でスクワットする。これなら真正館でもやったことがある。「おお、いいフォームじゃん。OK、OK」と代表は満足げだ。スクワットラックという、バーベルを掛けておく檻のような台がある。促されてそこに入り、バーベルを背中に担ぐ。


 うっ、重たい。バーベルのバーが、背中の肉にめり込む。腰、足へと重量が伝わって、膝が震える。足がすごく疲れているのを今更、実感した。


 「はい、じゃあ、しっかり下まで降ろそう」


 膝がガクガクして、腰が落ちない。正面で見ている代表と目が合う。珍しく、不安そうだ。え、そんな不安そうな顔しないでください!


 「あまり無理するな。最初だから」


 ミット練習の時とはまた違った、緊迫感のある口調だった。翔太、サポートの準備しろと声をかけている。さすがに1回もやらずに終わるわけにはいかない。ヘコヘコと情けなく腰を振っているようなスクワットをなんとか10回して、解放してもらえた。


 「じゃあ次は翔太」


 翔太は自分でプレートを追加した。20キロ増やして、いきなり80キロだ。バーベルを担ぐと、お尻をグイと突き出して、しっかりとしゃがみ込んだ。背筋をピンと伸ばしたまま、歯を食いしばってゆっくりと立ち上がる。全くブレのない、美しいフォームだった。


 おお、翔太、スゲー。


 グイッ、グイッ。


 1回たりとも手抜きのない、見事なスクワット。続いた会員たちも、誰も中途半端な下ろし方はしない。


 2セット目。僕も80キロに挑戦した。体重が70キロちょっとなので、自分よりも思い重量を担いだことになる。


 うわ……。全然、ダメだ。膝が震えて、とても降ろせそうにない。


 「す、すみません。ダメです…」


 「戻せ、戻せ」


 代表があわてて言うと、翔太たちがバーベルを戻すサポートに来てくれた。


 それからは情けないことに見学していた。すごい。みんなどんどん重量が上がっていく。


 「気合、気合! 上げたら1勝やぞ!」


 「ああ〜っ!」


 代表が喉を枯らして叱咤激励する。選手たちも叫び声を上げながらバーベルを上げる。夜のジムはクーラーが効いているにもかかわらず、みんな汗だくだ。


 「上げろ! 翔太! もう一回上げたら、お前の勝ちだ! 根性! 気合!」


 「うわあ〜っ!」


 翔太のあごから、肘の先から、汗がポタポタと流れ落ちる。


 「行け、翔太! ソイヤ!」


 周囲の選手たちも手をたたき、大声を出して励ます。みんな目をむいて、真剣な表情だ。


 「翔太、ソイヤ! ソイヤ!」


 代表はまるで怒っているような表情で顔を寄せて、翔太に気合を入れた。


 「ぐわ〜っ!」


 翔太の雄叫びが、ジムの空気を震わせる。


 ……。


 時々、翔太が口走っている掛け声は、これが由来か。それにしても、なんなんだ、この妙なテンションは。仲間に入れない。


 スクワットを交代しながら10回5セットやって、最後は僕も参加して、すり上げを100回、腹筋100回を5セットやって終わった。僕も、とはいうものの、1セット目で早くもついていけなくなり、すり上げの体勢のままで歯を食いしばっていただけなんだけど。


 終わる頃には午後10時を回っていた。


 「は〜い、じゃあ順番にシャワー浴びて」


 先ほどまでの興奮が嘘のように、代表が気の抜けた声で指示する。男子更衣室の中にシャワーが2台あり、交代で使う。夏だから、これで十分だ。


 シャワーから出ると、みんなでジムのテレビでプロの試合の動画を見ているところだった。代表が時々、再生を止めて「このジャブがのちのち効いてくるから」とかポイントを説明している。


 すごい。みんな、そんなに考えて試合に臨んでいるんだ。僕が空手の試合に出た時には、こんな準備は一切しなかった。ただ、緊張していただけだ。


 勉強会は日が替わる頃まで続いた。最後の方は眠たくて、あまり記憶がない。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?