だが、僕はやはり、ダメ野郎の星の下に生まれてきたらしい。
勇気を振り絞って見つけた自分の居場所は、わずか1週間で地獄へと変わった。
「おお、城山じゃん!」
ある日、道場に到着すると、なぜか黒沢がいた。もうこの頃には「城山くん」ではなく「城山」と呼び捨てにされていた。道着を着ている。白帯だ。
「なんや、お前もここの道場生やったんか。俺もや。一緒に頑張ろな!」
そう言って、また馴れ馴れしく肩を組んでくる。こうやって文字にするとなんということはないのだが、黒沢は目線とか言葉の抑揚とかが、これまで僕をいじめてきたやつらとそっくりなのだ。表情は爽やかなのに、肩の抱き方に遠慮がない。そして、笑っているのに目の奥が笑っていない。値踏みするような、僕の胸の奥をのぞきこむような視線なのだ。
すごく嫌だった。僕の心の警戒警報が、早くもけたたましく鳴っていた。
黒沢は、僕より1週間ほど遅れて入門していた。だけど、中学時代はサッカー部だっただけあって、運動神経がよかった。バネがあって、ミットを蹴らせると衝撃がすごかった。背が高くて手も長いから、見よう見真似で繰り出す突きの威力も、最初から半端ではなかった。
「芳樹はすぐに組手ができそうだなあ」
黒沢が組手を見学していたのは一度だけで、2回目の稽古から早くも参加した。
背が高くてフィジカルが強いので、青帯くらいまでの先輩ならば、簡単に圧倒した。沖名先輩は素質のある高校生が入ってきて、とてもうれしそうだった。
「芳樹と雅史で競い合って、ウチの2枚看板になってくれよな」
僕が組手に参加する前から、そう言った。
真正館の昇級システムは、割と簡単だ。年に4回行われる昇級審査をパスすれば、上がっていく。級は帯の色で区別されていて、一番下が僕らが今、巻いている白帯。続いて橙帯、青帯、黄帯、緑帯、茶帯と上がっていく。茶帯を巻いて1年経てば、黒帯に挑戦できる権利が発生する。昇段審査だ。晴れて黒帯になると、クラスで指導を任されるようになる。
早ければ1年ちょっとで茶帯になり、3年目突入と同時に黒帯になれる。沖名先輩はスムーズに3年で黒帯になったらしい。
「君らは高校卒業までに黒帯取得が目標やな。ハッハッハ」
そう言って笑っていたが、組手を見学していると黒帯の先輩方は圧倒的に違うのだ。なんというかオーラが違う。圧倒的な自信を感じる。攻めていても守っていても、迷いがないように見えた。3年であんなふうになれるのか? 正直、自信はなかった。
稽古は、平日は午後7時から9時。土曜日は午後5時から上級者向けの強化稽古(黄帯以下は参加できない)、日曜日は午前9時から正午までやっていた。僕は毎日のように参加して、3週目から組手に参加した。最初に当たったのは、黒帯のおじさんだ。
「押忍、お願いします!」
一礼。構えて接近する。
「かかってきなさい」というジェスチャーに引き込まれるように、左の突きを胸元へ繰り出した。布製の拳サポーターが当たって、パスッと頼りない音がする。初めて人を殴った。
「もっと思い切り、来ていいですよ」
思い切りと言われても、どれくらいの力加減でいったらいいのだろう。先輩たちや黒沢の組手を見ていると、ドスンドスンとすごい音がしている。あんなに強く殴ったり蹴ったりしていいのだろうか?
迷っていると、先輩が胸元を突いてきた。
ドスッ
一瞬、押し込まれて「ウッ」と息が止まる。
「さあ、こんな感じで。どうぞ」
なるほど。これくらいの強さでやってもいいんだな。言われるがままに突き返した。こんな感じか。こんな感じ? 押し込んでいる感触がする。
「いいですね。いいですよ!」
ほめられて、うれしかった。
組手は、参加している人がどんどん相手を変えながら、全員とひと回りするまで行われる。何度かやっているうちに、僕の前に黒沢がやってきた。
「あ、そこは白帯同士…」
組手要員の一人だった沖名先輩が声をかけてきたが、一拍置いて「ま、いいか。けがのないようにね」と言った。
「じゃあ、はじめ!」
タイマーが鳴る。1回1分だ。すぐ終わる。
「押忍、お願いしま〜す!」
黒沢がペコリと頭を下げた。口の端がきゅうっと上がっている。
あれ?
今、こいつ、笑ってなかったか?
もう一度、表情を確認しようとして顔を上げた時には、すでに黒沢の顔が目の前にあった。らんらんと獰猛な光を放つ瞳が、僕をのぞき込んでいる。
「シュッ!」
強烈な下突き、要するにボディーブローだ。鈍い衝撃が横っ腹にめり込む。「ウッ!」と声にならない息が漏れた。2発、3発。防御する間もなく、さらに打ち込まれる。一気に壁際まで押し込まれ、足がふらついた。それでも黒沢は止まらない。
痛い。痛い。恐怖で視界がぐらつく。息ができなくて、苦しい。
ハッ、ハッと自分の息の切れる音が、頭の中でガンガンと響き渡る。
突きも、蹴りも、防具越しなのに骨の芯まで響いた。未経験の痛みに、恐怖で体は縮こまった。いや、未経験じゃない。似たような経験がある。小学校時代のいじめの記憶が頭をよぎる。あの時と同じだ。逃げたいのに、体が動かない。悲しくもないのに、涙があふれた。
「やめ、やめ!」
沖名先輩が間に飛び込んできて、ようやく黒沢の攻撃が止まった。
「芳樹くん、ちょっとやりすぎだぞ! こんなふうになったら普通、もう終わりだってわかるやろ?」
「芳樹」が「芳樹くん」になっている。苛立ちが含まれていた。
「すみませ〜ん」
黒沢は謝罪の言葉を口にしたが、馬鹿にしたように目を細くして、腕をぶらぶらさせていた。気持ちは全くこもっていない。
「初心者なんで、わかりませんでした〜押忍!」
空手は人を傷つける技術なんだから、やめ時もちゃんと心得ていないといけない。相手が戦意を喪失したら、そこで終わり。そんな内容のことを沖名先輩は真剣な口調で言い聞かせていたが、黒沢はまるで上の空だった。何も反省していない。ただ、相手を叩きのめすことだけを楽しみたい。そんな感じだった。