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第7話 入門

 帰宅すると、用意されていた夕食にも手を付けずに、母さんに空手道場に入門したいということを伝えた。


 「えっ!」


 母さんより先に声を上げたのは、弟の竜二だった。先に夕食を終えて、リビングルームのソファにひっくり返ってボーッとスマホを見ていたが、ガバッと起き上がった。僕の方を向いて、妙に大きな声を出した。


 「お兄ちゃん、ついにスポーツする気になったん?」


 かくいう竜二は、僕など比べ物にもならないくらいのスポーツマンだ。幼稚園の時は体操教室(僕は初日に鉄棒から落ちて泣いて、それ以降行かなかった)、小学校に上がると地域のサッカークラブに所属して、このあたりではちょっと名の知れたストライカーとして活躍した。


 現在、中学1年生。引き続きサッカーをやっているけど、学校の部活ではなく外部のクラブチームに所属している。将来の夢はもちろんプロサッカー選手。似ているのは背が高いところだけで、顔は僕よりよほどいいし、性格も明るくて、どの学年でもクラスの人気者だ。悔しいことに女子にも人気がある。


 僕が中学生の頃は、小学校で「お前の兄貴、学校でオナニーしたらしいな」「オナニー野郎の弟が」とからかわれていたらしい。しかし、本人曰く「うっせえわ、ボケが! こ◯すぞ!」と凄んで以来、収まったという。とにかく、どこでもいじめられている真性陰キャの兄とは大違いな、できた弟なのだ。


 「すごいやん。お兄ちゃん、絶対、空手ええって。だって、そんだけ手も足も長いんやもん。やっと明日斗さんの言うこと、聞く気になったんや」


 自分のことのように喜んで、ペラペラとしゃべりだした。竜二は明日斗のことを慕っている。競技こそ違えど、幼少期からスポーツ一直線なところが共通するからだろう。


 「でも、危なくないかしら。頭を打ったりして、勉強に影響が出たらどうするの?」


 母さんは竜二の皿を洗っていたが、手を止めてこっちを向いた。口をへの字に曲げて、少なくとも歓迎の表情ではない。だが、母さんの論理は飛躍している。勉強ができなくなるくらいの衝撃を受けるなら、スポーツとして成立しない。


 勉強をおそろかにしない。体を大事にすると言ったら、お父さんにもちゃんと言っとくのよと言って、意外に簡単にOKが出た。母さんは昔から家に引きこもって絵ばかり描いている僕のことを心配していたので、外に出て体を動かそうとしていることを歓迎してくれたのかもしれない。


 翌日、マイを待たずに速攻で学校を飛び出した。電車をひと駅で下車して、真正館の道場へ。沖名先輩に入門の書類とお金を渡して、道着を受け取った。


 「今日から稽古に参加していいですか」


 OKだったので、早々に着替えて少年部が終わるのを待った。


 稽古は、控えめに言って最高だった。


 一般クラスの時間になると、僕と同じくらいの高校生から、上は50代くらいの社会人までが集まってきた。みんな礼儀正しくて、初めて会う僕に「押忍」と笑顔であいさつしてくれた。わからないことがあって戸惑っていると、それを察してすぐに教えてくれるのもありがたかった。


 知らない、でもとても親切な人たちに囲まれて、腹の底から声を出して体を動かすのは、最高に気持ちがよかった。熱気で汗が吹き出し、これまで体育の授業以外で動かしたことがなかった肉体は、すぐに悲鳴を上げた。


 なにしろ、やったことがないような動きばかりなのだ。特に足腰。膝を曲げて腰を落としながら前進、後退を繰り返す動きが多く、すぐに膝がガクガクと笑い始めた。太ももの裏がパンパンになって、腰を落とせなくなる。横目で周囲を見回すと、みんなしっかり腰が落ちている。ダメだ、あんなふうにできない。汗が吹き出し、ほおを伝ってあごから床へと滴り落ちた。


 だけど、必死で食らいついた。


 声を張り上げて気合を入れ、拳を突き出し、空を蹴るたびに、胸の奥のモヤモヤは吹き飛んでいった。真っ白になる。最高に気持ちがよかった。これだ。僕が求めていたのは、これなんだ。必死に腕を、足を、動かした。


 「最初だから、組手は見ておこうか」


 沖名先輩にそう言われて、道場の隅で正座して見た大人の組手は、すごい迫力だった。肉と肉がぶつかり合う音、激しい息遣い、裂帛の気合。息を呑んで見つめた。誰も「痛い」なんて音を上げる人はいない。いつか自分も、こんなふうに組手ができるようになりたい。一生懸命稽古しよう。心が躍った。


 稽古を終え、着替えて外に出ると、4月の夜風が火照った肌を冷やして、気持ちがよかった。駅前の喧騒は、道場の熱気に比べれば嘘みたいに静かだった。スーッと息を吸い込むと、肺が何倍にも大きくなったような気がする。息をするたびに、自分が新しくなっていく。明日斗の言っていた通りだ。全てリセットされて、とてもいい気持ちだった。


 空手を始めてよかった。これから頑張ろう。


 疲労で鉛のように重たくなった足を引きずって、僕は家路を急いだ。


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