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第6話 BOY MEETS KARATE

 結局、『なかよくなろう会』には参加せずに帰った。黒沢はマイも一緒に、いや、なんならマイだけでもとしつこく誘ったが、マイはクラスが違うこと、入学早々いきなり親の承諾なしに遊びに行くのはまずいことなどをしどろもどろになりながら主張して、なんとか断ることができた。


 黒沢はマイの連絡先を入手できたことで一定の満足をしたようで「今度、遊びに行こな。連絡するわ」と上機嫌で手を振っていた。もちろん、僕に言っているんじゃない。マイに言っていることは十分にわかっていた。


 清栄学院までは地下鉄と京阪電車を乗り継いでいく。高架の車窓から沿線の街を見ながら、先行きにただただ不安しかなかった。


 「パリピの友達ができて、よかったやん」


 僕の胸中を知ってか知らずか、マイはニコニコと楽しそうだった。


 「あんなかっこいい男子に、かわいいとか言われてしもた。ウチも捨てたもんやあらへんな〜」


 どこ見てるんだ。ほおに手を添えて、やたらと遠くを見ながらうっとりしている。口元にはだらしない笑みが浮かんでいた。今にもよだれを垂らしそうだ。


 いやいや、自分で気付いていないだけで、マイは十分にかわいいよ。そこらの女子より、よっぽどかわいいわ。僕が言ってないだけで。


 心がザワザワした。胸のなかに重たい水がたまって、ゆらゆらと揺れているような感じがする。不安だった。気がつけば、奥歯を強く噛み締めていた。


 明日斗の言葉を思い出す。格闘技は、心をリセットするのにええんや。練習中は集中せなあかんから、頭の中が真っ白になる。嫌なことがあっても、練習が終わったらスッキリしている。


 格闘技をやったら、スッキリするのだろうか。もし、そうならば、そうしたい。毎日、こんな思いを抱えたまま帰るのは嫌だった。


 「あの空手道場、ホンマに昔からあるよね。ウチらがちっちゃい時から、あるんとちゃう?」


 不意にマイの声が耳に飛び込んできた。指差す先を見ると、高架沿いの雑居ビルに大きな看板がかかっている。


 『武道カラテ 練習生募集中!

       君もきっと強くなれる!』


 確かに、この看板は小さい時から見ていた。電車に乗るたびに嫌でも目に入ってくる。これまでは、ああ、明日斗がいつも言っている空手やくらいにしか思わなかったが、この日は違った。


 『きっと強くなれる』


 僕も強くなれるんだろうか。


 強くなりたい。


 体がという意味ではなく、心が強くなりたかった。この程度で心がざわついて、明日が不安になるようなのは、もう嫌だ。少なくともきょうあったことを全部、まっさらにして帰りたかった。電車が止まる。


 「マイ、先に帰ってて」


 そういうと、僕はドアが開くや否や、電車を飛び降りた。ホームで並んでいた人をかき分けて、改札口へと足早に向かう。えっ、マジ? どうしたん?というマイの驚いた声が背後から聞こえたが、振り返らなかった。今、あの道場に行かないと、未来がなくなるような気がした。


 道場は雑居ビルの地下1階だった。ちょうど小学生のクラスをやっている最中で、地上の入り口から元気なかけ声が聞こえる。シーンとしていれば入るのがためらわれたが、階段の下から漂ってくる熱気に乗せられて、入っていくことができた。黒帯を巻いた若い指導員が「見学の方ですか? ちょっとそこに座って待っててもらえますか?」と言って「その間に読んどいてくださいね」と入会資料をくれた。


 思った以上に広い。小学生低学年から高学年くらいの子供たちが横4人、縦6人並んで練習しても、まだ少し余裕がありそうなくらいだった。床には柔道場のような柔らかい畳が敷いてある。


 「えい!」

 「やあ!」


 子供たちは基本稽古をしていた。一斉に拳を突き出し、そろって気合をかける。空気を揺さぶるほど元気いっぱいの声が、僕にぶち当たって皮膚をビリビリといわせる。乾いた汗と古い畳の匂いに包まれた道場は、ねっとりとした熱気に満ちて、すぐにじわりと汗が流れるほど暑かった。


 道場の名前は、真正館京橋道場といった。


 真正館なら僕でも知っている。キックボクシングのプロの興行にも選手を出している、全国的なフルコンタクト空手の巨大団体だ。京橋は僕が住んでいる蒲生四丁目の隣街。電車ならひと駅だけど、歩いていけない距離じゃない。


 見学していた少年部の稽古の終盤で、組手が始まった。ウレタン製のヘッドガード、ボディプロテクター、拳と脛にも布製のプロテクターを付けている。子供たちは顔を真っ赤にして、本気で打ち合っていた。ドスドスと打ち合う音が響くが、誰も泣き出したりしない。


 すごい。空手をやっていれば、こんなことも平気になるんだ。


 少年部の稽古が終わって練習生を送り出すと、先ほどの黒帯の指導員が説明をしてくれた。この人が沖名先輩だ。


 高校生は一般部と言って、大人と一緒に稽古をする。月謝は学生なので月7000円。支払いは銀行引き落とし、お父さんかお母さんの許可をもらってきてね。最初に買うのは道着だけでいいけど、すぐに組手もするようになるから、最初からプロテクターは買った方がいいと思う。立板に水だ。


 「すみません。痛いのが嫌なんですけど」


 恐る恐る聞いてみた。


 「そうですね。痛いのは、僕も嫌です」


 沖名先輩は目尻を下げて、人懐っこい笑みを浮かべた。髪を短く刈り込んでいる。よく日に焼けた肌に白い歯が目立って、爽やかな感じだ。丁寧で落ち着いた口調で、僕の緊張をすぐに取り除いてくれた。


 「最初は上級者の先輩が軽めに相手してくれるから、大丈夫ですよ。嫌なら組手は入らなくてもいいしね。慣れてきたら防御できるようになるから、ガツガツ当たっているように見えて、意外に痛くないんですよ。さっき子供たちがやっているの、見てたでしょ?」


 悪い人じゃないと思った。


 ただ、僕みたいにずっといじめられっ子だった人間に共感してくれるだろうか。背は高くないが、がっしりとした肩周りや道着からのぞく分厚い胸板を見る限り、この人はスポーツのエリートのように見える。そこだけが少し心配だったけど、思った以上にただの高校生の僕に、きちんと礼儀をもって接してくれたのは、好感が持てた。


 こんな人が教えている空手道場なら、ひどいやつはいないだろう。資料をもらって外に出る時には、入門することを決めていた。

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