体育館の天井についている照明って、どうしてこんなにまぶしいんだろう。
一瞬、自分がどこで何をしているのか、思い出せなかった。
ここはどこ? なぜ、横になっているんだろう?
頭が何かで固定されているようで、うまく動かせない。それがまるで束縛されているみたいで、もっと僕を混乱させた。視線だけぐるっと巡らせると、すぐ隣に見慣れた丸い膝小僧が見えた。
「あっ、気がついた?」
幼馴染のマイだ。小学生の時からトレードマークのショートカット。眉毛の上で切り揃えた前髪の下に、ちょっとびっくりしたような大きな目がある。眉根を寄せて不安そうな表情で僕をのぞき込んでいたが、みるみるうちにパッと明るい笑顔が広がった。丸っこいほっぺたに、えくぼができる。いつものことながら、かわいい。
「おばさーん、まあくんが目ぇ、覚ました! 私、先生を呼んでくる!」
しゃがみ込んでいたマイは、僕が目を覚ましたことがよほどうれしかったのか、勢いよく立ち上がった。すぐ隣にいたせいで、ミニスカートの下の黒いオーバーパンツが見えた。
今どき純白のパンティーが見えることなんてないから全く期待はしていなかったけど、スカートの中身を見ているというシチュエーションだけで、思春期全盛期16歳男子を刺激するには十分だった。
「あら、じゃあマイちゃん、お願いね」
少し離れたところから、母さんの声が聞こえる。ヤバい。マイのスカートの中身を見て、股間が敏感に反応している。気付かれないようにしなければ。そう思った瞬間、いろいろなことを一気に思い出した。
そうだ。僕はきょう、ここ舞洲アリーナに空手の試合をしに来ていたんだ。初戦で高校のクラスメート、黒沢芳樹と対戦して、それから…。
ここで倒れているということは、負けたんだな。いまさら、右のあごの下がジンジンと痛いことに気づく。なんだろう。ハイキックか、上段膝蹴りか。とにかく何か、意識を失うような技を食らって負けたのだ。たぶん。
手を挙げて触ってみると、首の下や頭の周りに、やたらとタオルが敷かれていた。頭が動かしづらいを感じたのは、このせいか。
「大丈夫? お母さんが見える?」
頭上から視界に母さんが入ってきた。マイほど不安げではないものの、ふうと深いため息をついたところを見ると、やはり心配していたのだろう。
今年、44歳になる。マイもこの歳になったら、こんな感じになるのだろうか。腫れぼったい目元に二重あご。髪を無造作に後頭部でくくって、お団子にしている。父さんの言葉を信じるならば、若い頃はかわいかったらしい。だけど、今はその面影はない。どこにでもいそうな、普通の中年のおばさんだ。恥ずかしい。高校生にもなって習い事の試合に親がついてきて、しかも介抱されているなんて。
さらに、それを幼馴染に見られている。屈辱的だ。
その時、急に自分の違和感がなんなのかに気がついた。空手着を着ていないのだ。股間の膨らみが接した感触で、それに気がついた。空手着のゴワゴワした感じじゃない。ジャージーだ。ズボンだけではなく、上着も。
あれ? いつの間に着替えたのだろう。
「母さん、僕の空手着、どうしたの?」
体を起こした。
周囲を見回すと、サブアリーナだった。朝、ここでアップをしたのだから、間違いない。すでに午後になって、試合が終わって帰ってしまった人もたくさんいるので、今は閑散としていた。
道場ごとに集まっているのだろう。3、4人のグループが2つほど、手持ち無沙汰に待機しているだけだった。母さんは僕の背中に手を添えると、困ったような、バツが悪いような微妙な顔をした。
「やっぱり覚えてないのね。あなた、気絶した後、ちょっとその…漏らしちゃってね。上も下も濡れちゃったから、着替えさせたのよ」
…。
なっ。
「え。漏らしたって、どこで?」
「え? そりゃあ、試合場でよ。ああ、もう大丈夫よ。掃除なら、みなさんがしてくださったから」
…。
全然、大丈夫じゃないでしょ、それ。それ、全然、大丈夫じゃないし。僕、公衆の面前で漏らしたってこと? 気持ちの整理がつかないうちに、背後から聞き慣れたよく通る声が聞こえた。
「雅史、大丈夫か?」
座ったまま上体をひねって振り向くと色黒のがっしりした、いかにも空手やってますという風情の若い男性がやってくるところだった。
沖名先輩だ。
僕が直接、指導を受けている先生。京橋道場の師範代。大学生の時に指導員になって、そのまま道場の責任者になった。空手を続けるために市役所に就職したが、思った以上に忙しくて、よく他の黒帯に指導を代わってもらっている。後ろからマイがついてきていた。
立たなきゃ。座ったままでは失礼だ。
立ちあがろうとすると、母さんが僕の腕に手を添えた。やめて。子供扱いしないで。本当に、なんでついてきたんだよ。
「押忍、大丈夫っス」
軽く拳を握って、本来なら帯を巻いている高さにそろえる。これが僕が所属している空手道場、真正館の〝気をつけ〟の状態だ。
押忍というのも、真正館の正式な返事の仕方。「はい」ではなく「押忍」。空手っぽい。かっこいいと思う。
「頭、痛くない? ふらつきとか出てないか?」
沖名先輩は僕の肩に手をかけて、顔や足元をチェックした。優しく声をかけられて、分厚い手で触れられると、ホッとする。隣で母さんが「すみません、ご心配をおかけして」と何度も頭を下げていた。
「完全に意識がなくなったからな。しばらくは念のために組手はなし。きょうはもう帰っていいぞ。頭が痛くなったり、吐き気がしたりしたら、すぐ病院に行くんだぞ」
先輩は微笑みながら、僕の肩をたたいた。漏らしたことには触れない。若いけど、優しくて気遣いができる人だ。
先生なのに、さっきから「先輩」と言っているのは、真正館では基本的に自分より目上の人は全て「先輩」と呼ぶことになっているからだ。たまに「〜先生」と言っている人がいるけど、すごく違和感がある。
「押忍、すみません。ありがとうございます」
今回が初めての試合だった。出ることが決まった時、先輩から「勝っても大喜びせず、負けてもくよくよしないこと。勝負は時の運だから」ということと一緒に「必ず最後まで同じ道場の人を応援すること。一緒に稽古しているチームメートなのだから」と言われた。
気絶したとはいえ、途中で帰ることには抵抗があった。
俺は審判をしなきゃいけないから…と言ってサブアリーナを出ていった沖名先輩と入れ替わりに、黒沢が入ってきた。すれ違いざまに「押忍」と軽く頭を下げる。
同じ清栄学院高校の1年生で、同じクラス。僕は182センチと背が高い方だけど、同じくらい背が高い。だけど、決定的に違うのは、僕がさえない陰キャなのに対し、黒沢はイケメンで陽キャ、クラスどころか学校中の人気者だということだ。俳優の横◯流星にちょっと似ている。
「おお、マイ。ここにいたんか。次、決勝やで」
僕に謝罪しに来たのかと思いきや、軽い調子でマイに声をかけた。
えっ。なんでこいつが「マイ」とか馴れ馴れしく呼んでるんだよ。
マイは振り返ると「あっ、ヨシくん、ごめん。すぐ行くね」と言った。
僕の方を向いて笑顔で「じゃあ、また後でね」と小さく手を振ると、早々にサブアリーナを後にした黒沢を追っかけて行った。