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第9話

一二


***


 今日が来ました。いよいよ本命の人が来るそうです。状況の変化は歓迎ですね。また後で、書くことにしましょう。その時になってからでも、日記に数行書き足すくらいは出来るでしょうから。彼らの話しぶりから言って、もしかしたら、次がこの日記の最後になるかもしれないですね。それでも、ここの退屈よりはマシかもしれませんが。


***


 地下に降りるシャッターは開いていた。進む以外に選択肢は無い。シェルターがどうの、なんて話が本当だったとしても、俺達の目的が無事帰還である以上、あの部屋に隠れている事に何のメリットも無いのは明らかなのだ。話し合う必要性すら無かった。

 白髪男の棲家で鳴り出した警報は、講堂での時と同じようにすぐ収まった。それからは、思わずため息がこぼれるほどに静かになった。

 ユカはエイタの想定外な登場を受けて、怒っているのか落ち込んでいるのか、貝の様に口をつぐみ続けているし、そんな状況でおめおめ軽率な発言をするほど俺は不用意では無いし、サチも、疲れ果てた表情のままでただ黙っていた。相変わらずのぬめぬめした床の上に、俺達三人分の足音だけが、ただ響く。先ほどの警報や振動の正体も分からないし、白髪男達が何を考えてこんなに回りくどい方法を採っているのかも依然として不明。口からこぼれ出るのは、我ながらうざったいため息だけだ。きっと、それがいい加減に我慢出来なくなったのだろう。ユカが、何処かしらわざとらしい口調でもってその沈黙を破ってくれた。

「地下は、最初に私がここに来た時も見る事が出来ませんでした。極秘らしいです」

「何があるか分からないって事か……」

 これ幸いに喋り出す自分の弱さが少し悲しくなる。自己嫌悪に陥っているような暇は無いのに。

「お二人には絶対に無事で戻ってもらいます。私は自らが求める答えの為に進んでこの場所まで来ていますが、お二人は違う……約束します」

「ユカちゃんさ、そんな約束したところで守れる保証ないでしょ。そういう時はもっと簡単で良いと思うんだけど」

「守れなくとも、今の私に言う事が出来るのはこれくらいです」

「だからさ、頑張っていこう! それでいいじゃん。どの道、解決しないと外には出れない仕様なんだからさ。ユカちゃん一人が頑張るもんでも無いでしょ。それに、自分から来たってのならあたしもそうじゃんよ」

 ユカが言うように、俺はこの場に望んで居るわけじゃない。一番最初から、ずっと、一貫して、俺は巻き込まれてきただけだ。けれど、それはユカのせいじゃない。悪いのは最初から白髪男一味だ。少なくとも俺の目線では、そこに間違いは無い。けれど、それを言ったら、きっとユカは言葉を上手く返せなくなる。俺は、それを望んでいない。

「行くしかねえのは分かり切った事だろ」

「……すみません」

「帰らしてもらうんじゃ、俺は納得出来ねえって。帰るんだ。皆、何事も無かったかのように」

 何を言っているんだろうね、俺は。子供向けヒーローじゃあるまいし。

「……行きましょう。余計な時間を使いました」

 やっぱり、何も言わなければ良かった。

 地下は、通路が複雑に分岐するちょっとした迷路になっていた。普通の工場がわざわざ好んで地下迷路なんか作ったりする事はきっと無いだろうから、ここを手にした白髪男達がわざわざ改装したのだろう。例によって、目的は不明。

ところどころに扉はあるもののその全ては完全施錠で、白髪男から渡されたカードも応答なし。しかも、通路のあちらこちらに瓦礫が散乱していたり、天井からごっそり崩れていたりして通れなくなっていた。そして、部屋で捕まっていた時に聞いていたのと同じ、機械の唸り声が絶えず響いていた。

「方向感覚無くなるんだけど……なんか裏ワザとか無いのかな」

「壁すり抜けとかな」

「マップ最初から全表示とかでも許す!」

「アホな事言ってないで、少しでも構造を把握する努力をするのです」

「階段を降り切って、右に曲って、直進して、左に二回曲った。その後、行き止まりにぶつかったから最後に曲った角まで戻って今度は右だ」

「おおお……セイジさん出来ますね」

「意外過ぎるんだけど! バカ担当じゃないの?」

 俺の記憶力、ようやく証明する機会到来だ。白髪男達、ナイス迷路!

「見たか!」

「まあ、とは言ってもここから先の進路が明確になるわけでは無いですが……誤謬を順に削除していくのには役立ちましょう」

「良かったねえ、セイジにも出来る事があって」

「…………」

 こんな筈じゃ無かったんだけど。

「まあ、歩いた道順が表示されるのはこの手のダンジョン攻略モノじゃ標準機能だし、しょうがないって」

 サチがそんな事を言って笑った。ひとつもフォローになっていないのは、わざわざ言及するまでも無いくらいだ。

 結局、そんな事を喋りながらうろうろと、十五分くらい。俺達が辿りついたのは、何処か近未来ファンタジー的な外観のエレベーターだった。

 それは、そもそも人が乗っていいのかどうかすら分らないくらいに貧弱な姿をしていた。壁も無ければ、扉も無い。ただ、人が三人くらい乗れる広さの台に腰あたりまでの柵をつけただけ。わざわざ〝昇降機〟と貼り紙がしてなかったら、多分そうだと分からなかった。

「これで降りられるみたいだな」

「ちょ、セイジ、不用意に乗って大丈夫なの?」

「多分……あいつら、どうしても俺達に一番奥まで来てほしいみたいだし、これを使わないで済む構造になっているなら、動作しないようにあらかじめ仕掛けておくと思うんだよな、ここまでの傾向からしてさ」

「一理ありますね……行きましょう」

 我ながら、今度こそ決まっただろう! と内心喜んだくらいだ。柵に設置されていた操作盤も問題無く起動した。英語表示だったけれど、それほどに難しい単語は使われていなかった。なんとかその意味は分かる。

 選択できるフロアは、B2からB5。当然だけれど選ぶのは一番下だ。白髪男達とエイタが待ち構えているのであろう最深部、〝B5〟を選択。ボタンが問題無く反応する、即ち、白髪男達もそれを許容している。すると、操作盤上の液晶パネルには〝Start〟と〝Cancel〟の文字、そして、それら二つを覆い隠す形で赤、白、緑、三つの円。

「またか……」

「サチさん、出番のようです」

「むう……じゃあ、例によって恨みっこなし! 押すよ!」

 サチがおもむろに液晶にタッチ。押下されたボタンは、果たして正しかったのかどうか。確かにエレベーターは動いた。それはもう、かなり乱暴な勢いで。〝Start〟が押下されるのを待つことも無く。液晶を三人して覗きこんでいて、三人ともが柵に掴っていたのは、きっとサチの幸運から俺の不幸を差し引いた上で残された救済だったのだろう。降下と滑落の中間くらいの速度でB5目がけて突き進むリフトの上、柵に全力で掴りながらそんな事を思った。



「もうすぐ来るよ。その時が、勝負の時……君らにとってはそういう事になるのかな」

 軽快な笑い声の絡められた声が軽やかに響いた。

「分かっています……。誰も生き残る必要なんか無いんだ。そこに、次の世界が残るなら、黄昏社は礎、もしくは墓標だ。それでいい」

「悲観的だね。もしかしたら、君は生き残るかもしれない。或いは、世界中で君だけが生き残るのかもしれない。こんなのは、可能性の問題でしかない」

「それもまた結果なら、受け入れなければいけない……貴方もその手の考え方でしょう?」

「俺はなんでもいいのさ。訊かれれば答えるけど、進んで当事者になるつもりは無いね」

 暗く、冷たい場所。機械の唸り声と、時計が一秒ずつを切り分けていくその音に混ざり、彼らの話声が響く部屋。

「ねえ、ユイ、どうなると思う? 上手くいくかな?」

「全てが運命として既に決定付けられている事ならば……待つだけでしょう」

 平常時と同じスーツ姿のユイは、空間に漂う静けさを壊す事を嫌っているかのように、抑揚なくそう答えた。

「オケダ君は?」

「最終確認をする、と」

「余計な事しないといいけどね」

「話はもういいや。もう、俺に出来る事はないだろ? あんたらとの契約内容は果たしたと思うけど、忘れないでくれよ?」

「…………」

「あくまでも約束は、事が終わるまでだ。あんたらの方に怪しい動きがあれば、俺があんたらに審判下しちゃうからそのつもりで」

「我々が約束を反故にするとでも?」

「知らないね。ただの警告と思ってもらえればいいよ。じゃあ、またね」

 引きとめる理由は無かった。約束の履行をわざわざ口に出して誓うのは愚だという事だけがただ、明らかな事として彼の目の前を揺らめいていた。

「なるようにしかなるまい……」

ようやく彼がそう呟いた時にはもう、去る者によって開かれた扉が閉じられた後だった。

室内には再び数えきれないほどの沈黙が敷き詰められた。刻まれた一秒が、次々に宙を舞い、何処かへと消えていく。その度、少しずつその時が近づいてくる。



「セイジさんの思い付きがいかに危険な物であるのかよく分かる出来事でしたね。本当にもう全く……」

「一理ありますね行きましょうって言ったのは誰だよ」

「私が悪いと?」

「少なくとも俺だけが悪いわけじゃねえ」

「まあ、ボタンを押したのはサチさんです。しかしこれは、押す前に〝恨みっこなし〟を明言していますから除外して考えるべきでしょう」

「まあ、ユカちゃんが怒るのも分かるけど……」

「怒り心頭です」

 本当に、ひどい話だった。急降下を始めたリフトは、いきなり途中で急停止。そして、おもむろに急上昇を始めやがったのだ。その後も、急降下、急停止、急上昇をワンセットにして、後半には、ゆるやかに昇り始めたかと思ったら急停止、だなんて小技まで織り交ぜて来た。俺達三人とも上下に振りまわされたせいで酷い乗り物酔いになったし、ようやく一番下にたどり着いた時、その衝撃とダメージのせいで、俺がふらりとユカの方に圧し掛かってしまう、という冗談にもならないオマケまでついてきた。そしてトドメ、と言わんばかりに、液晶にはローマ字で〝HAZURE〟と表示されたのだ。そりゃあ、誰だって頭に来るのは分かる。けれど、ここまでの流れからして、どう考えても俺が一方的に責められるのはおかしい。異議ありだ。俺は何もしていない。

「別に、無様なボディプレスを食らった事に対して怒りに燃えているわけではありません」

「じゃあなんだよ」

「八つ当たりです」

「…………」

 とりあえずの謝罪をしつつ、俺は心に強く書き留めた。こういう時強く反論する事が出来る立派な大人になろう。

「まあいいです……悪いのは全部あいつらなのは分かり切ったところですし。その、少し言いすぎましたね。ごめんなさい」

 たったこれだけのやり取りでまあいいか、と思えてしまう俺なのだから、多分十年やそこらでは〝立派な大人〟にはなれないだろう。まあ、いいか。



 地下五階は、気持ちが悪いくらいに静かだった。リフトから降り立ったその場所はだだっ広い、何も置かれていない空間になっていた。薄暗くて、埃っぽくて、広さは学校の体育館くらいだ。真っすぐ突っ切った先に、金属製の扉があった。しかも、わざとらしく半分開いていて、向こう側から僅かに明かりが漏れている。〝来い〟って事か。

「何か気持悪いんだけどここ……大丈夫だよね? なんか、ワケわからない化け物とか出てきたら、流石にあたしも勝てないよ?」

 いくらなんでもそれは無いと思うんだけど。

「もし出てきたらセイジさんがきっと守ってくれますよ……餌になって」

 いくらなんでもそれは無い。断言だ。それよりも、一言くらい文句を言っておいてやろうか。三度目ともなればそろそろお馴染みと言っていい警報音が鳴り始めたのは、ちょうどそんな時だった。

「流石にもうびびらなくなってきたな……」

「ふふふ……奴ら、若干我々を見くびっているのかもしれませんね」

 確かに、警報音そのものには馴れた。けれど、それは言うなれば危険な馴れだった。俺達は多分、その大小の差さえあれど、この警報音が鳴ったところで大した事は起きない、と思い始めていたのだ。ここまで完全に正体不明なまま、ただ騒ぐだけだった警報音。ものの数分で鳴りやむ、ただの音。俺達がそんな意識を形成するのを待ちかまえていたのだとしたら白髪男一味恐るべし、だけれど、多分そんな事は無いのだろう。事実、地下一階はところどころが瓦礫で埋まっていたわけだし、きっと、俺達の目に見えないところで、少しずつ仕掛けは作動していたのだ。それが、たまたま今回目に見える位置で始まった。それだけの事だ。

 なんて、軽く言ってみたくなるのはきっと、目の前で起こった出来事があまりにも冗談で済まない威力と衝撃を俺達にもたらしたからだ。反動、とも言える。何かしらを考えていないと、混乱でどうにかなってしまいそうな事態が俺達の目の前に出来したのだ。

 警報音そのものは、これまでと同じだ。数分で鳴りやんだ。その後、起こった事。最初に異変に気付いたのは、サチだった。

「ちょっと、後ろ、後ろ見て!」

 俺達を上下に揺すりながらここまで運んできた絶叫マシーン系エレベーターが、ゆっくりと上に昇っていくのが見てとれた。

「あれ行っちゃったらどうやって戻るの? ねえ、マジ? やばくない?」

「いや、さすがにこちら側からも呼び戻せるように作ってあるはずです……普通なら……」

「あんまり期待出来ないんだが……」

 エレベーターはどうやら地下四階と地下五階の間で止まったらしい。俺達のいる場所から、下半分が見て取れた。

「止まった……?」

「また急降下とかしてくるかもです。不用意に近付かないで様子を見ましょう」

 ユカのこの一言が無ければ、きっと俺は、様子を見てくる、だとか言って不用意に近づいて行った。だから、この場合はユカが命の恩人という事になるのだろうか。

 どんな仕掛けなのかは考えたくもない。エレベーターに仕掛けてあった、と言うよりは、エレベーターそのものが、と言った方が適切かもしれない。目の前でヘルメットも無しに見るにはちょっと危険なレベルの爆発だった。

 やばい、と思ったのと、サチに後襟を掴まれて無理やりに伏せの姿勢を取らされたのとどちらが早かっただろう。瓦礫と熱風と轟音が広場目がけて襲いかかってきた。ほんの少し前までエレベーターを構成していた部品、元地下四階だった何らか、その他色々が降り注ぎ、広場のエレベーター側半分は殆ど埋まってしまった。もし、この爆発がもう少し早かったら、大怪我は免れなかっただろう。

「どうやら、いよいよその時が近いようですね」

 起き上がり、埃を払いながらユカが言った。

「セイジさんの不幸がいよいよ極限に達しようとしているのでしょう。不幸が呼ばれ、集まって来ています……先を急ぎましょう」

 どの道、ここまで来た足は木端微塵。帰るためにも、採るべき道は前進のみ。分かり切った事だ。けれど、足がなかなか前に進まなかった。自分の足がかすかに震えている事に気がつくまで少し時間がかかったくらいだ。もう嫌だ。心の底からそう思っていた。納得だっていかない。どうして、何も悪い事なんかしていない俺がこんな目に遭わなきゃいけない? 誰に迷惑をかけるでもなく、ただ不幸を嘆いて暮らしていただけの俺が。

 思えば、昔からいつも思っていた事だ。どうして俺が。俺が何をした?

 自転車を盗まれた時だって思った。

 かつあげされた時だって。

 オケダから生活指導室に呼ばれる度に。

 晴れ渡った空の下、楽しそうな誰かを見る度に。

 どうして俺が。なんで俺なんだ? ただ普通に、息をして、飯を食って、文句言って、学校に行ってる、何処にでもいる奴その一な俺が、どうして?

 目の前で爆弾? これからもっとひどい事になるかもしれない? しかもそれが俺のせい? おかしい。こんなの、絶対におかしい。俺は何もしていないのに。ただ、居るだけなのに。

「セイジさん……そこで立ち止まっていても事態は悪化の一途です」

「分かってるけど……けどさ、あいつら俺に一体何の恨みがあるんだよ! こんなの……いい加減にしろよ!」

「……一般的な考えですが、運なんてものは所詮、確率論に過ぎません。そして、確率において左右されるものの全ては、試行回数を積み増していく事によって、本来あるべき数値へと近付いていきます。試行を止めるのは、緩やかな自殺と同義です」

「だから……何だよ」

「貴方は当事者なんですよ! 起こってしまった出来事に理由を求めるなど、一時の安寧の、ほんの僅かな足しでしかありません……貴方がいかに事の不条理を嘆こうとも、既に事は起こってしまった。そして、これから先、もっと酷い事に……この場所だけじゃ済まないような事になるかもしれない。それでもいいんですか?」

「…………」

「いいんですか?」

「良くない……こんなの、絶対に間違ってる……けど……」

「ユカちゃん、甘いよ。甘過ぎ。言って聞かない時はね……こうでしょ!」

 ユカに目線を向けていたから、一瞬反応が遅れた……と少し言い訳をしておきたいくらいに見事な角度で、サチのとび蹴り、通称すらっしゅたいふーんが俺の身体全体を進行方向に向けて派手に突き飛ばした。さっきの爆弾なんか比べ物にならない。物理的に、生々しく痛かった。

「グダグダ話してないで、進むんでしょ! あたしは生き埋めなんか絶対嫌! だけど、一人で勝手に行って、あんた置き去りにしていくのも嫌。一緒に来なさい。今すぐ立って前進! 拒否権は無い!」

「なんだそりゃ……」

「あんた、誓うって言ったじゃん……何とかするんでしょ? あれは、その場限りの嘘?」

「……誰も……行かないなんて言ってねえ! ただ……ちょっと混乱してただけだ」

「行きましょう。事が起こるその前に奴らに迫っているべきです。それは、勝利条件と言っても良いでしょう」

 背後は瓦礫。目の前には、狭くて暗い廊下。選択肢は前進のみ。もう、立ち止まろうとは思わなかった。



「不幸が集まってきてる。流石ね、鍵君」

「……まさかあれほどの崩落になるなんて……そもそもの僕達の予定ではもう少しマイルドなものになるはずだったんだが。しかし見事だ。オオヌキ、選ばれた事実を多少は実感し始めているんじゃないか?」

 廊下をしばらく進んで行った先、薄暗い中に悠然と佇むユイとオケダ。口ぐちに好き勝手な事を言うこいつらとこうして向き合うのも、一体何回目やら。それこそ、俺にゲームの主人公並の攻撃力があるなら真っ向勝負で沈めてやるのに。

「安心しなさい。もう、おしまいだから。ここから先、最後の部屋まで一直線。落し穴とか別に無いし、大丈夫だよ」

「時が来たのだ。行くがいい。あ、途中で左手にある扉は開かなくなっているから、触らないように。アラームが鳴ってうるさいからね」

「別に取って食おうってんじゃないんだから、気楽に、自然体で大丈夫だよ。どうせ最初から、成る様にしかならない……世の中なんて、がっかりするくらいにそんなもんだからさ」

「そう言う事だ。さあ、行くのだ! 選ばれた戦士達!」

 自分の中から、緊張感がぼろぼろと崩れ落ちていくのが分かった。絶対、オケダのせいだ。普通、最終決戦前ってもう少し、悲壮感と言うか、決意と言うか、何かしらあって然るべきなんじゃないか、と思うんだけど。まあ、そんな事を思ってしまったのもきっと、緊張感が奪われきっていた、そのせいなんだろうけど。そんなわけで、少し盛り上げるべく努力をしてみた。

「さあ行こう! 最終決戦だ」

「え……」

「ぷっ」

 おかしい。これは、俺が予定していた状況じゃない。威勢の良い返事なり、ちょっとした場を和ます冗談なりが飛び出るのが受ける側の礼儀なんじゃないか? オケダとユイまで口を半開きで俺の方を見ているし。マナーを守れ、と強く抗議したい。特にオケダ。選ばれし戦士、だなんて、俺以上に恥ずかしい台詞を言っておきながらその態度は何だ。

「さ、さあ、行きましょう。私達には潰さねばならない相手があります。理由は十分。我々の勝利は、必然です……ぷくく……」

「セイジの不幸が足引っ張らなきゃいいけど……駄目だってセイジ、あんた、ちょっと前に醜態さらしたくせに、うはははは」

「なんだったらセイジさん、ここで待ってますか? その方が勝率上がりそうなんですけど」

「あ、それ名案かも! セイジそうしなよ。あんたは十分頑張った! さっきはけっ飛ばして悪かった! 待機!」

 あんまりだ、こんなの。

 その後、冗談半分だと思いたいところだけれど、随分真面目な顔をしたユカとサチによる、俺待機案の検討が行われ、いい加減痺れを切らしたらしいユイとオケダに強引に進まされた。オケダの怒鳴り声なんか随分久々に聞いた気がする。

 いつもの、唱えておこう。夜、寝る前にしか効能がない、なんて縛りは聞いた事ないし、そもそもこれまで効能を体感したことは一度もないのだから、いつでも同じ、こんなのただの言葉だ。

 何か良い事ありますように。出来ればこれから、良い事ありますように。



『彼ですか……?』

『…………』

 廊下を進んだ奥の扉には〝最終準備室〟と書かれたプレートが貼り付けられていた。入ってみると、そこは、インターネットカフェのオープンスペースの様な空間だった。五台のパソコンが横一列に並んでいて、革張りのチェア、デスク。黒を基調に整えられていて、壁紙も黒。全ての席にヘッドフォンが取り付けられている。廊下より幾分マシなものの薄暗い。一台を除いてパソコンの電源は落とされているらしい。左端の一台に映し出されていたのは、ビデオ映像のようだった。映っているのは、あいつ。白髪男。

『どうして喋らないんです? え? カメラマンは視点であって喋ってはならない? まあ、いいです。あの素晴らしい先生を紹介してくださった貴方の言うことですから間違いはないでしょう』

 俺は映像を前にして固まるしかなかった。随分離れて撮影しているらしく、映像は不鮮明だし手ぶれも酷いけれど、間違い無い。見たことのある制服と鞄。見下ろす視点だから、何処かのマンションから撮影されたのだろう。風景でぱっと思い出せない。けれど、確かに近所だ。画面の中、左から右へと歩いているのは、何処からどうみても俺だった。中学生時代の、茶色いブレザーに格子柄のスラックスを履いた俺。

「セイジが映ってる……」

「この時からセイジさんの運命は定まっていた、と……」

「そんなん認めたくないけど……これ中学の時だから……そういう事になるのか」

『今、捕獲しますか?』

 再び画面は白髪男の大写しに変わった。前篇の映像本編では白髪男が自らカメラを取っていた。前後の語りだけでは飽き足らなかったらしい。

『そうですね……分かっていますよ。まだ、一年弱ありますからね』

 同じアングルでの白髪の一人語りが続いた。不愉快な映像だ。画面の中で進められている話はどう考えても俺を拉致する計画である事は明白。俺はこの怒りを何処にぶつければいい?

「ふざけやがってこいつら……」

「お気持ちは御察ししますが、セイジさん、今は……」

「なんだよ、ユカだってさんざん怒ってたくせに」

「違います。怒るな、と言ってはいません」

「じゃあなんだよ! こんなの見せられて、むかつくに決まってるだろ」

「怒りをぶつけるべき相手が来たようです……ようやくお出ましですか」

 そう言うと、ユカはパソコン側に向けていた身体を、扉側に翻し、身がまえた。サチもそれに合わせて、構え。珍妙で動きづらそうな構えは、多分、何処かの格闘ゲームの真似事だ。タイトルが思い出せない。そして、俺も気づいた。廊下を、足音高らかに誰かが歩いて来る。一回、二回、三回。俺が数え始めて四回目で足音が止まった。ノブが回る。開く。入ってくる。

 そして、俺達の〝最終決戦〟が始まった。


一三


 部屋に入って来たのは、白髪男とユイの二人だった。悠然と、いくらかの笑顔まで浮かべている二人は、まるでもう自分達の勝利が確定したかの様ですらあった。忌々しいにも程がある。

「ご苦労様だったね。ここまで、大変だったでしょ? 楽しんでもらえたかな?」

「ふざけんな! 絶対許さねえ……マジで……さっさと家に帰らせろ!」

「そんな怖い顔しないでよ。まだ時間はいくらかあるんだし。それよりさ、鍵君、僕が何かを聞いても全然真面目に答えてくれないじゃない。せっかくだからさ、少しだけ話をしようじゃないか」

「……地下五階で鍵を受け取れ、じゃなかったのかよ?」

「ああ……あんまり楽しくて忘れてたよ。いいんじゃない? 欲しかったら、僕を殴り倒してでも探せばいい」

 いかにも大物ぶった態度でもって白髪男は俺の方に歩いてきた。近寄って来られて初めて分かった。案外大きい。身長百八十センチくらいはありそうだ。殴りかかったとしても、返り討ちに遭いそうだ。

「おや、体格差で怖気付くなんて案外可愛いじゃん。それじゃ鍵君に聞くけどさ、君は、本当にこんな世界を必要だと思ってるの? 醜くて、薄汚れていて、くだらない奴らが跋扈するこの世界って、本当に大切?」

「当たり前じゃねえか……俺は普通に毎日生活してただけなのに、いきなりこんなのに巻き込まれていい迷惑なんだよ……考えるまでもねえだろ、そんな事!」

「さあ、どうかな。事実が一つ。〝世界は君を拒絶している〟。不幸だから。それに人を巻き込むから。居るだけ迷惑だから。それでも君はこの世界を大切だと思えるのか? 君が〝世界〟と口にする時にその中に含まれるほぼ全ての存在が、君を不要だと考えるのに、それでも?」

「それは……」

 咄嗟に言葉が出てこなかった。白髪男の課してきた設問に対する回答を俺は持ち合わせていなかった。無事に家に戻ったところで、どうせ元通り、ろくな事が起こらない日常なのは目に見えている。ならば、どうして俺はそこに帰りたいと思っている?

「この国の人間の多くは現状の崩壊や改変に敏感で、懐疑的だ。君もまたそれに捕われているに過ぎない」

「違う! 俺は……」

「言ってみたまえ。最後なんだ。言いたい事は全部言っておいた方がいい」

 俺は、帰りたいと思っている。それは、事の始まりから一貫して変わらない、俺の本当の気持ちだ。だけどそれは、現状を維持したいからなんかじゃない。

 ユカは言った。試行を止めるのは、緩やかな自殺だと。

 サチに俺は誓った。最後まで全力で、出来る事を全部やり切ると。

 つい、ちょっと前の事だ。とび蹴りを食らった場所がまだ痛んでいるくらいに、ちょっと前。忘れてなんかいない。忘れるわけがない。俺は、緩やかな自殺をするつもりも、誓いを破るつもりもない。ちょっと整理して考えれば、簡単な事だ。

「いつか……いつか良い事があるかもしれないからだ! 簡単に諦めてなんかやるかよ!」

「あっそう。君もつまらない人間だな……もういいよ。そろそろ始めよう」

 白髪男はそう宣言し、ちょうど部屋の真ん中辺りに移動、そこで立ち止まった。余裕の表情は相変わらずだ。俺達に出来る事なんか無いと決めつけているらしい。

「その前に、私からも質問をしたいのですが? 少なくとも私はそのためにここにいます」

「ご両親の……トダ先生夫妻の件か。隠すほどの事じゃない。行方不明だ。我々も、何処におられるのかは知らない。先生はご自身の意思で出立された。奥様もそれに付き従っておられるのだろう。先生は財を成す過程でそれなりに現行法に抵触するようなこともされていたようだからね。実際、御姿を隠される直前にもいくらかキナ臭い動きがあった。それは事実だ。君が将来的に安定した生活をするために敢えて君の育成を放棄されたのだろう。先生はね、悔やんでおられたよ。本当だったら、先生は審判のその瞬間まで君と共にありたかった筈だ」

「それだけではありません。どうして、私を引き入れたのですか? 私の両親をどうにかしたであろう第一容疑者である貴方が、私をいかにもとってつけたかのような理由で誘い入れたその理由は何処にあるのです!」

「先生に頼まれたのさ。君の事を審判のその日まで保護してあげて欲しいって。言うなれば僕は君の保護者だよ? やる事をあげたのは、むしろ感謝してもらいたいね。ただいるだけでは退屈だろうと思ってね」

「信じません……そんなの……嘘です……」

「嘘じゃないさ。ちなみに君を保護施設に収容するよう手配したのも僕だ。まあ、ちょっとした手違いで施設潰れちゃったけどさ。どうも、先生が退かれた事で、慈善事業を縮小する動きが強まったようでね」

「施設にはエイちゃんもいました……そう言う事ですか……」

「順番が違うな。彼とはもっと早くに知り合っていたさ。先生のお人柄……僕達とウマが合うんじゃないかって紹介してくれたのは彼だからね」

「もう……いいです……」

それきりユカは俯き、黙ってしまった。俺は左右を見渡した。何か、適当な武器は何処かに無いか? 自分より体格の良い相手でもひるませる事が出来るような何か。パソコン本体はコードに繋がっているだろうし、椅子は、持ちあげた瞬間の隙が大き過ぎる。何か、無いか。

「余計な事はしないほうがいい」

 気がつけば拳銃がこちらを向いていた。ひとまず、サチの幸運頼みに変更。

「我々の作戦成功まで、残り僅かだ。ここまでは予定通り……いや、予定以上の成果だよ。次は何が起こるだろうね……富士山が噴火でもしてくれないかな。弾道ミサイルが付近一帯を焼き払ってくれてもいい……後、ほんの一押しだ。転がり出す……誰も止められない」

 俺は心の中で願い続けていた。何か、起これ。この場所だけで済むくらいの何か。この状況を少しでも打開出来る何か。何でもいい。この先もしばらく不幸な奴のままでもいいから、せめて、この場でくらい、良い事よ起これ。

「そう言うわけで最後の一押しだ……コウダサチ君だったかな……。随分と幸運に好かれているらしいね」

「気持悪い……鳥肌立つから! あたしの名前なんか呼ばないでよ。つーか、こっち見るな!」

「本当はね、早い段階で君にはご退場願う筈だったんだ。彼は、君の幸運の危険性をすぐに察知してくれたからね。けれど我々は考えた。鍵君の不幸をかろうじてせき止めていた堤防がいきなり決壊したらどうなるんだろうってね……本来だったら放出されるべき不幸が溜まり続け、それが一度に放出される! きっと、より劇的な終わりがやってくる……」

「だからなんだってのよ……」

「だから? だから殺さないでおいて君にもここまで来てもらったんだよ……本当、お疲れ様」

 銃口がサチの方を向いたのが分かった。轟音が聞こえた。これまでの麻酔用の銃とは違う音だ。火薬の匂いがした。サチが、パソコンデスクの方に弾かれてそのまま倒れ伏すのが見えた。嘘だ、こんなの。

「サチさん!」

 ユカの声が聞こえた。俺は声も出ない。こんなの、認めないからだ。俺が不幸だからサチが撃たれた? サチが死んだ? あり得ない。嘘だ。

「嘘だろ……嘘だよ……こんなの、嫌だ……おい……」

「さあ、何が起こる? もう鍵君を止める障害は何も無いんだ……扉はすぐに開かれる!」

 何も考えられなかった。身体が勝手に動き出すのを止める術なんか何処にも無かった。殆ど無意識のまま、俺は白髪男に殴りかかっていた。白髪男は、俺に殴られながら、笑っていた。馬乗りになって、何発顔面を殴りつけても、それでも笑い続けていた。

「あっははははは! いくらでも殴るがいい。何なら、殺してみるかね? 銃を貸そうじゃないか! すぐに事は成就される。冬が来る。長くて、つらい冬だ! その向こう側に、再始動した世界が待っている!」

「ゲームじゃないんだぞ! 現実なんだぞ! それを……お前は! お前は!」

 何発殴っても、意味が無かった。それでも、止めたくなかった。白髪男の顔が見る間に赤くなった。鼻血が流れ始めた。けれどそれだけだ。ここからは何も生まれない。何も、元には戻らない。

「ユイ、鍵君はこの程度じゃ僕を殺すまでには至らないようだよ。その気にさせてあげてくれないかな?」

「……かしこまりました、マスター」

 マウントポジションはそのままだったけれど、俺はつい殴る手を止めてしまっていた。これまで入口の脇でただ成り行きを見守っていただけのユイが、緩やかな歩調で歩いてきたから。

「鍵君。もっと面白くしてみようか。ユイから聞いたけど、絶望した事無いんだってね。させてあげるよ。嬉しいだろう?」

 白髪男の不気味な笑顔と不愉快な呟き。ユイが俺の横を通り過ぎて行った。そして、立ち止まった。銃を構えているのが横目でも分かった。

「ユカ、本当にお疲れ様。あたし個人としては、結構ユカみたいな子、好きなんだけどね。まあ、仕方ないよね」

「ユイ……もう止めてください。私には貴方が絶望しているようには見えません! どうして……他に出来る事なんか一杯あるでしょう!」

「例えそうだとしても、確かに未来は塗りつぶされているのよ……ユカ、さよなら」

「やめろ! こんなの、やめろおおおおお!」

 白髪男の上から離れて、俺はユイに体当たりを食らわせてやるつもりだった。動きだそうとしたその瞬間、生暖かい感触を手首に感じた。

「大人しく見ていなよ。鍵君のためなんだ……鍵君が扉を開く、その為の……そう、生贄なんだよ!」

 もがいても、唾を吐きかけても、頭突きをしても白髪男は俺を離そうとしなかった。どうしようもない。何も出来ない。これが、絶望なのか? その時、もしその声が聞こえてこなかったなら、俺は本当に絶望しいていただろうと思う。世の中の何もかもに嫌気がさして、不幸を望んで、世界ががらりと生まれ変わる事を願ったかもしれない。

 聞こえた声。軽くて、いい加減そうな声。俺を、どうにか絶望の淵で踏みとどまらせた声。

「……やっぱり約束破っちゃった。まあ遅かれ早かれだとは思ってたけど。知ってる? 人ってな、嘘を吐いていると運がぶれるんだ。バレない事を無意識に願って、自分の運をすり減らす……つまり、そういう事」

「エイちゃん……」

「おっす、皆の衆」

「ユイ、先に彼だ。どの道用済みだよ」

「う……くぅ……」

「ユイ……?」

 部屋に入ってきた瞬間、エイタが何かをポケットから引き抜く動作をしたのは見えた。それが、かつてユイ達が使っていた麻酔銃だと分かったのは、ユイがかすかなうめき声を残して床に倒れこむのを見た時だった。

「言ったよね? 人が死ぬような騒ぎは君らの言う、審判? その結果の上でだけって。約束したよね? それに、武器も何も無い相手に向かってこんなの……約束以前に全然フェアじゃない。俺は今回こいつら側に付くよ」

「何を今更……別に、僕を殺すなら殺せばいい。もう、目的は果たしたんだ。いつでも構わないさ。黄昏社はその役割を終えた。僕もだ。冬はすぐそこまで来ている」

「まだ何も終わっちゃいない……俺にははっきり分かるぜ? 彼女さんの極太の運が、今じゃ部屋を覆い尽くしそうだ」

 白髪男が起き上がろうとして体を蠢かせるのが分かった。これまでの怒りを目いっぱいに籠めてぶん殴ってやった。どうやら、奇妙な運の働きが俺の拳をクリーンヒットさせたらしい。白髪男はそのまま失神。動かなくなった。

「やるじゃん、細い彼氏」

「エイちゃん……貴方は一体どういう……」

「俺は予感屋。予感屋は誰の味方でもないし、誰の敵でも無い。アドヴァイザーってのはそういうもんさ。それより、さっさとここから出た方が良さそうだ……」

「それはそうですが……」

「彼女さん、生きてはいるみたいだけど病院に連れてってやる必要はあるだろうし。それに、今が最悪に良くない状態な事には変わりないんだ。何が起こってもおかしくない」

「色々聞きたい事があります」

「出て、一息ついたら教えてやるさ」

 非常階段の入口は、〝最終準備室〟を出てすぐ、オケダに、触らないよう言われた扉だった。八ケタの暗証番号式。番号は、俺の制服のポケットにねじ込まれていた、あの紙片の物だった。

「本当は、君達があいつらに勝てた場合の脱出用でそのメモ用意したんだけどね。勝っても、出られないなんてゲームとしてあんまりだろ?」

「先に一つだけ教えてくれ。どうして俺達をここに向かわせたんだ? あいつらに味方して、なのか……?」

「俺はアドヴァイスに嘘は含まない。実際、こうして君達は上手く助かったんだ。これが、運命って奴だよ」

「……そんな言葉、大嫌いだ」

「実力で切り開けるほど世の中甘くないって事。君もそのうち分かるよ」

「……そうだ、後、他にも捕まってる人がいるんだろ?」

「一つだけって自分で言ったくせに……解放済みだよ。奴らのルール違反が分かった時点でね。鍵を開いてこの階段まで連れて来てやったら、わらわらと逃げ出して行ったよ」

 俺が暗証番号を入力すると、電子音を伴って扉は解錠。その向こう側は、階段室になっていた。

『社長が約束を守っていれば……天が本当に生き残らせるべき人間をきちんと選別してくれたかもしれないのに……急いては事を仕損じるとは正にこの事か……嘆かわしいよ。僕はいつもこうやって、仕えるべき人を間違えるんだ』

 非常階段を昇り始めてすぐだ。ボリュームをマックスまで上げているらしい、ぐわんぐわんと鳴り響くオケダの声が施設内に響き渡った。

『僕にはもう、行くべきところが無いよ。どいつもこいつも馬鹿だ。馬鹿ばかりだ。僕も馬鹿だ。自分でそう思うよ。なあ、オオヌキ。振り回して悪かったな……急げ、急いで逃げろ。元気でな』

 放送はそれで途切れた。そして、警報音。目の前での爆発では無かったけれど、何処か、そう遠くない場所が爆発したらしい事が分かった。建物が大きく揺れた。これまでの物とは規模が違うらしい。警報音も、ずっと鳴りやまなかった。

「元気でな、じゃねえよ……ふざけんな! あんたにどんだけ恨みあると思ってんだよ!」

 届かない事なんか分かり切っていた。それでも、言わずにはいられなかった。こんなの、卑怯だ。やるだけやって、やりっぱなしで格好良さげに逃げだすなんて、許せるわけがない。殴り倒してやりたい、とはもう思わなかった。謝って欲しいとも思わない。実際、出てこられたらそれはそれで面倒だ。けれど、こんな逃げ方よりは断然マシだ。それは間違いない。 

「本気でやばそうだ……急ぐよ」

 釈然としない思いを抱えたまま、出来る限りの速度で俺達は階段を昇り続けた。背中のサチは身じろぎひとつしない。伝わる鼓動で、生きている事だけは分かったからとりあえずは安心。生々しい、ずっしりとした重みだった。

 建物全体が揺れ続けていた。階段の途中には、天井が崩れて道を半分塞いでいる箇所まであった。けれど、大丈夫だ。もう、大丈夫。俺達は、このまま無事に出られる。俺には確信があった。何せ、背中には規格外な幸運の持ち主が乗っているのだ。



「ネックストラップで吊るしてた携帯に当たったんだとさ。それでも結構な衝撃で、肋骨折れたりなんだりはあるみたいだけど」

「さすが……化け物クラスの幸運ですが、パターンがあまりにも古典的です。セイジさんの作り話ではないのですね?」

 真夏の日中。世界のあらゆる物を溶かそうとしているかのごとき太陽は、後五時間か六時間は沈まずに頑張り続ける事だろう。せめて、日が傾く時間まではこの場に居続けたいところだ。

 通り沿いにぽつんと立つファミレスは、旅行に来ているらしい家族連れで賑わっていたけれど、俺達は運良くあの日と同じ席を確保する事が出来ていた。

 あの日。施設からユカと逃げ出して、最初に入ったファミレス。意味付けするほどの場所でも無いけれど、色々な物事を振り返るにはちょうどいい位置にある場所だった。

 崩壊を続ける施設から脱出した後は、それはそれは大変だった。

通りまで出て救急車を呼ぼうとしたところでサチが目を覚まして、痛いの何のと大騒ぎ。どうにか宥めて救急車に乗せたら、銃で撃たれたなんて言う非日常的怪我だったから、騒ぎ更に拡大。警察に事情を話したり、八割方崩れた施設跡地の検分に呼び出されたり。テレビにも出たし、新聞にも載った。あれやこれやで、気が付けば夏休みが三分の一ほど蒸発していた。ちなみに、白髪男も、ユイもオケダもみんな行方不明らしい。すっきりとしないオチではあるけれど、こればかりは仕方無い。施設の地下はほぼ完全に崩落してしまっていて、捜索には結構な時間がかかるらしい。

「それで、ユカの方は何か動きあった?」

「ありません。両親の件については現状では動きようが無いですし……エイちゃんも、アドヴァイスの一環として私の父を白髪男に紹介した事実は認めましたが、それ以上の事は知らないようです」

「そうか……」

 しかも聞くところによると、エイタもあの後、姿を隠してしまったらしい。面倒事に巻き込まれたくはないし、自分はあくまでも当事者ではないから、と。犯罪教唆とか、何かしら罪に問われても文句を言えないぐらいには重要な当事者だと思うんだが。

「まあ、焦っても仕方ありません……少しずつ追い詰めていくしか無いでしょう。どのような理由があったとしても、私を置き去りにした罪科は絶対に償わせます」

「追い詰めてって……、まあ頑張れよ、応援してるからさ」

「結構です。忘れて下さい。もう、会う事も無いでしょうし」

 ユカは、遠い場所――どれだけ聞いても教えてくれなかった――に引っ越す事に決めているらしい。親戚筋を頼って、らしいけれど、真偽のほどは不明。一応のお別れだからサチの見舞いへ一緒に、とユカから連絡があって、こうしてファミレスで待ち合せする事になったのだった。

検分やら何やらも、どういう事情からか別々だったから、あの日以来の再会だ。しかも自分から呼びつけたんだから、もう少し可愛げがあっても良さそうなものだと思う。

「可愛げ? ありえないですね」

「また会いましょう、なんて言いながら目を潤ませるとか無いのかよ」

「そうですね……御縁があれば、またどこかで。これで満足ですか?」

「まあ……それで勘弁してやる」

「ふふふ。御縁が無い事を祈っています。もう巻き込まれるのは御免です」

「あと、そうだ。言っておく事があったんだ」

「え……何です?」

「いろいろ、ありがとうな」

「……不愉快です」

 憎たらしい笑顔が、テーブルの向こう側、アイスティーのグラスに刺さったストローをくわえていた。

 ひとつの締めくくりとして、いつもの、やっておこう。

病院で、ゲームセンター復帰を今か今かと待ちわびているサチに。何処だか知らないけれど〝遠い場所〟に行くらしいユカに。明日以降しばらくの、そこそこに不幸で穏やかそうな日々に。


何か良い事、ありますように。


***


 無事、本命の鍵が来たらしいです。ユイが教えてくれました。きっと、不幸を目いっぱいに抱えた、可哀想な人なんでしょう。すぐに会う事になる筈です。私はその人のブレーキ役で、いざとなったら彼をその日まで連れ回さないといけないらしいですから、極悪人とかでない事を祈ります。しかし、どうして私がブレーキなんでしょうね。世の中には、私よりも遥かに幸運そうな人が沢山いると思うんですが。

 エイちゃんに会いたい。そんな、わけの分からない人に会いたくないです。最近寝不足だし、面倒くさいです。拒否したら、また脅迫されたりするのでしょうから言いませんが。もう諦めてます。

放送が流れました。早速ご対面のようです。この日記がこれで最後にならないことを、せいぜい祈っておきましょうか。


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