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第5話


***


 前にも何度か来ていた父の元部下の人から、会わせたい人がいる、と言われました。拒否する理由も無かったので会ってみました。染めているのか何なのか、髪の真っ白な、私よりも結構年上そうな男でした。見たことある人です。多分、家に何度か来てます。

彼が言うには、私には出来る事があり、その力が必要だから来てくれ、と。スカウトでしょうか。私の何が気に入ったのかは分かりません。私に何をさせたいのかも。

承諾しました。父と密談をするほどの仲だったのなら、何かを知っている可能性が高いです。絶対聞き出します。いろいろと納得できないままだった私に与えられたチャンスなのだ、と思っておくべきでしょう。エイちゃんは、私の判断に反対も賛成もしませんでした。またしても笑われました。前からちょっと変わっていましたけど、最近は、前にも増してよく分かりません。でも、きっとエイちゃんの事ですから、何かしら見える物があるのだと思います。

 エイちゃんが言ってくれた言葉、格好良かったからそのまま書いておきます。

〝流れに逆らわないで、行くべきところに行けばいい。今はそんなに悪くないから、大丈夫〟


***


「災禍は幾つもの不幸の上に成り立ったものでした。何故、広島が世界初の戦略的核兵器投下地点となったのかはご存じですか?」

 新幹線の車内、サチにここまでの流れを詳しく説明するともう三人共通の話題はなくなってしまって、しばらくの無言を経て、やおら講義めいた事を始めたユカはそう言って、俺とサチの顔を順番に眺めまわした。どうせ知らないだろう、知る由も無いだろう、ふふふ、なんて表情だ。御察しの通り、落とされた事実は歴史の授業で習った記憶があるけれど、理由まで突き詰めて教えられた覚えは無い。

「まず、地形的に望ましかった点です。世界初の実戦投入ですから、観測を容易に行える地域への投下が望ましかったそうです。東京以西長崎までの都市の中で、条件に当てはまる市街は幾つかあったのですが、その後、様々な理由で目標地点は広島、長崎、小倉に絞られる事になります……ここ、詳しくお話すると、多分、終わるころには着きます」

「遠慮しとく……」

「ふふふ……お子様にはやや難しかったですかね」

「しつもーん」

 サチが興味あるのか無いのかよく分からない眠そうな声でもって言った。ユカはそれを受けて見るからに辟易顔だ。どうも、ここまでの経緯でもって、サチに苦手意識を抱いたらしい。

「……拒否します」

「いや、そんな難しいことじゃないって。ちょっとした事。貴方もさ、その、組織とか言うのに捕まってたんだよね?」

「いきなり話を変えないで下さい……それが何か?」

「不幸が幸運をどうこう云々って、なんでそんな事を知り得てるのかなって。普通さ、捕まえて自由を奪っている相手にそこまで説明しないじゃん。おかしいって」

 サチがそう言った直後、電車は空気の弾ける音とともにトンネルに突入した。まずまずの乗車率でざわめきの絶えない車内。それでも、俺達三人の中にやってきた重たい空気感はしっかりとその存在感を主張していた。俺は頭を何かしらの硬いもので殴られたかのような衝撃を受けていたし、ユカは怒りの表情を困惑に塗り替え、それからまた不機嫌オーラを全面に出した氷細工の様な表情に変化、と忙しそうだ。そして、サチは得意満面、してやったり、さあ、答えてごらんなさいよ、って様子だ。

「一言で説明できるような内容では無い事は確かですが、なるべく簡潔に説明してしまうとしたら、私の場合は力づくで誘拐されたわけでは無く、一定の合意のもと、あの場所で生活を始めたのがそもそものきっかけなのです。だから、私は大体の事を知っています。組織の方針だか何だかで、それほど自由の時間が長く続くことはなく彼らの言うところの人道的監禁生活を余議なくされましたが」

 俺の耳には全く齟齬の無い、実に分かりやすい説明に聞こえた。つじつまもあっていると思うし、この説明によって、これまで俺の中で曖昧だった部分が明らかになったぐらいだ。この事情があれば、ユカが施設の中で出口までの道を知り得ていた事や、施設から駅までの大体の道のりを把握していたことにも説明がつく。要するに、俺はこの説明を信じていい、と判断した。

「ふうん……それで、事故があったから逃亡したの? セイジと一緒に? いまいち分からないんだけど、セイジの味方につく理由はどのへんにあったの? 一定の合意があったんなら組織側の味方だったって事だよね?」

「……後述します。後に述べるほうです」

 それからユカは、トイレに行くと言って席を立っていった。一体今、ユカはどんな事を思っているのだろう。言い負かせなかった屈辱感に悶えているのかもしれないし、どうすればやり返せるのかを思案しているのかもしれない。勿論、俺なんかには想像も及ばないようなすごい一発逆転を隠し持っていたりするのかもしれない。そんな俺の想像は、すぐさま、気まずそうな様子を見せるサチによって遮断された。

「やりすぎた?」

「どうだろ……」

 重苦しい、真夏の夕立前のような曇り顔で、ただ一言、ごめん、とサチは呟いた。

「戻ってきたら言ってやってよ。なんだかんだで助けてもらったのは事実だし」

「うん……でもさ、やっぱおかしいなって思うんだよね」

「さっきの説明でもまだ?」

「セイジを元の生活に戻す、なんて明言しなきゃいけない理由が見つからない」

「そう言えば、大人しく私に従うでしょう? お子様を釣るには餌を用意するのが一番ですから」

 いつの間に戻ってきたのか、ユカはふふふ、と笑いながら言ってきた。

「貴方が危惧しているのは、私がいまだもって組織側と通じていて、不幸男を組織側のために誘導しているのではないか、という可能性について……それでいいです?」

「そうそう、まさにそんな感じ」

 サチが、我が意を得たり、とばかりに頷いた。そんな様子が、ユカはきっと気に入らなかったのだろう。眉間に深いしわがくっきり。すっかり、サチが天敵になってしまったらしい。

「組織側は有事の際は鍵……鍵に同行しろ、と指示を私に出していました。だから、あの停電の際に廊下で偶然遭遇した際、その指示に従って同行した……これは事実です」

「それじゃやっぱり組織のために動いてるって事でしょ?」

「これだけは言っておきましょう。私は、不幸男を元の生活に戻す、と言う自らの断言を嘘にするつもりはないです。信じてください、としか言えませんが。必ず、いずれお話出来るはずです。少し、待っていて下さい。損はさせないです」

 真摯な目に見えた……俺には。嘘がそこにあるとは思えないというか、思いたくないというか。サチもそう思ったのだろう。分かった、信じる、とだけ言ってそれっきり話題を他のものに切り替えてしまった。

テーマは、広島という土地の歴史について、だとか、毛利家が改易されてどう、とか。格闘ゲーム以外にも各種ゲームに手を出す奴だから、何かしら、日本史知識を蓄えられるシミュレーションでも最近やったのかもしれない。そのマニアックさはさすがにどうかと思うけれど、さっきまでの話題と比べれば百倍くらいマシだ。少なくとも俺はそう思う。だから、俺はどちらかって言うと家康が好き、だなんて言ってしまって、そこから到着までいかに家康側が謀略を駆使して関ヶ原を制したのか、なんて集中講義を受ける羽目になってしまった。五倍くらいマシ、に下方修正しておくことにする。



「ここです」

 ユカが得意げにそう言って、前方にある建築物を掌で指し示した。

 どうコメントしたものか。横で同じく見上げているサチを伺ってみると、サチもまた同じような心境だったのだろう。とりあえず、たかが知れている自分のボキャブラリー検索なんかするだけ無駄だ。と、言うわけで一言。

「でか……」

「ふふふふふふ」

「これ何? なんかの大使館か何か?」

「警備員を雇ってどこかマイナーな国の国旗でも下げればそう偽装する事も可能かもです。何の意味も無い行為ですが」

「ここがユカちゃんの家……? あたしんちの何倍よこれ……」

「地上三階、地下一階です」

 得意満面、いつもそういう顔していればいいのに、と思えるくらいのスマイルで門扉の鍵を開き中に入って行くユカに促されて俺達も中へと入った。

 邸内は、がらんとしていた。玄関には一足の靴も無く、空気は冷え切っていて人の気配も無い。少し埃っぽくもあって、しばらく誰もいなかった事が言われなくても分かる有様だった。

「ご覧のように誰もいません。ここを出るまではヘルパーを頼んでいましたが、家を出る時に皆解雇してしまいました。主だった家財道具も売ってしまいましたから少し不便ですが、贅沢は言っていられません」

 玄関から直進、学校と同じくらい幅のある廊下を進んでいくと、すぐに左手にエレベーターが現れた。テレビなんかでやっている豪邸探訪の番組なんかで見たことはあるけれど、実際にエレベーターを完備している家なんて初めて見た。必要あるのか? と思うんだけど。

「地下に行きます。そこでじっとしているんです」

「動かなきゃ変な不幸もやってこないって事か」

「目算としてはそうですが……」

「が?」

「不幸の力が高まりきった時にどうなるかは分かりません……この家めがけて空から巨大隕石が突然降ってこないとも限りません」

「そんなアホな。さすがに突然隕石は出現しないだろ」

「勿論冗談ですが、何があるかは分からない、とだけは認識してください」

 俺とユカがそんなやりとりをしながらエレベーターの到着を待っている間、サチはあっちをきょろきょろ、こっちをきょろきょろ、と忙しく目線を漂わせていた。ためしに、サチの顔の動きから目線の先を探ってみる。監視カメラがあった。エレベーターホールだけでも合計四つ。凄いを超えて、さすがに無駄なんじゃないかな、と思うセキュリティーだ。

「ああ、カメラですか。以前から設置されていたのでその意図までは分かりかねますが今回、役に立つ筈です」

 地下室。かつて、こんなに豪華な地下室を見たことがあっただろうか。いや、そもそも地下室、なんてものに関わったことがないから答えはノーだ。ただ、世間一般的にも、この光景を見て、ああ、まさに地下室ですね、とはならないだろう。そもそも〝室〟って単語があまり相応しくないような気さえする。

 広さは学校の教室二つ分くらいだ。この時点で既に若干おかしい。ビリヤード台が一台、巨大な円卓が一つにマージャン卓が二つと、ダーツが三レーン。スロットマシーンが四台。部屋の外周を、ぐるりと革張りのソファが取り囲んでいた。床には赤い絨毯が敷き詰められ、天井には大きなシャンデリアが二つ。カジノ?

「父が愚か者であった証拠のような部屋を見せるのはいささか気がひけます」

「ユカちゃんのお父さんって何者?」

「多趣味で社交的な道楽者です……訂正。でした。この部屋に一つずつ遊具を増やしていくのが趣味でした。それよりも、これからしばらくは私の考えに従って行動してもらいます」

「考えって?」

「まだ秘密です。そうですね、全てが終わった時にはお二人もおのずと私の目的を知ることになります。嫌がってもダメです」

相変わらずの、意地の悪そうな笑顔でそう言い、それからユカは俺達を残して一人で一階へと上がっていった。食事の算段をつけてくるから待っていろと言っていたけれど一体何をするつもりなのだろう。

「にしても……どうしてここまで揃えてビデオゲーム筐体に手を出さなかったかな」

「いや、明らかにそれジャンル違うだろ、それ」

「おんなじだって、ゲームじゃん」

「誰しもがゲーセン好きってわけじゃないし仕方ないだろ」

「待ってろって言われても暇だし、ほら、これ」

 渡されたのは携帯ゲーム機だった。対専用にしっかり二台持ち歩いている辺りこいつがいかに病的ゲームマニアなのか分かろうというものだ。

「レバーじゃないとあたし格段に弱くなるからいいハンデでしょ」

 とてもゲームに興じる気分では無かったのだけれど、俺にその手の拒否権は与えられないのは割といつもの事だから諦めた。鍛練を重ね準備をしてきたゲーム大会をふいにしてここまでついて来てくれたのだから、多少の事には目をつぶってやるのが大人というものだろう。

素直にスタートボタンを押下。キャラを選んで、戦い始めて、俺の操るキャラクターが地面に突っ伏すまでにかかった時間は大体十秒と少し。いくらなんでも、もう少し手加減をしてほしい。どこらへんが〝格段に弱く〟なっているのか説明を求めたい。

 おかしいな、と思ったのは通算三十敗目を喫した頃だった。ゲームを始めてからおおよそ一時間が経過している。依然、ユカかは戻ってこないままだった。食事の算段をつけるのに一時間かかるということはまさか、買い出しの上で手料理なのだろうか。ちょっと、かなり想像出来なかった。いつでも人に何かしら文句を言いたくて仕方のないような奴が作る料理なんて、大抵、何かが盛られていたりする。動機があろうとなかろうと、それは一つのお約束だと言っていい。

「何かあったんじゃないよねえ……? あんた達の話してた悪い奴らが襲ってきて捕まっちゃったとか……」

 その可能性を一つも考慮していなかっただけに、ちょっと自己嫌悪だ。むしろそっちを心配して然るべきだったのに。

「ちょっと見に行ってみるか」

「大丈夫? 待ってろって言ったのに何を勝手にどうこう、とか言わない? あの子そういうタイプだと思うんだけど」

 ここまでの道中で、サチもユカのキャラクターイメージが固まったらしい。全面的に同意だ。あいつは多分、そういう奴。

「まあ、放っておくわけにもいかないし……行こっか」

 言うが早いか、サチはゲームの電源をオフ。話しながらだったのが功を奏してか、ようやく俺のキャラクターがワンセット先取していたタイミングだ。狙っていたのだとしたら見事過ぎる。

 ソファから立ち上がって、エレベーターの扉脇。上向き矢印のボタンをプッシュ。反応無し。現在位置を告げる表示板も消えていた。

「どういう事? 上がれないじゃん」

「どっかに階段あるだろ。探してみよう」

 室内をぐるりと見渡すと、通常階段、と書かれた金属製の扉がエレベーターホールの隅に備えられていた。ノブに手をかけて回してみると、ガチン、とロックに阻まれて終了。

「マジで出られない……? ねえ、ここってトイレとかちゃんとあったっけ?」

『ご心配なく。レストルームはエレベーターホールとは反対側の奥、突き当たりに男女別で用意されています』

 状況に戸惑って、混乱しかけたところで天井から声が降ってくる。若干のデジャブを感じる。見上げた天井には監視カメラが一台と、放送用なのだろう、スピーカーが一台。眩暈を感じるほどの既視感だ。

「何だこれ? 食事の算段をつけに行ったんじゃなかったのか?」

『ええ、お二人の食事は滞りなく運ばせていただきます』

「まさか、ここから出るなって言ってるんじゃないだろうな?」

『出るなと言っています』

「わけが分からん。目的は何だ」

『貴方がたを自由にさせておくわけにはいかないのです。どうぞ、人道的な監禁ライフをご堪能下さい』

 どっかで聞いた台詞だ。悪ふざけだとしたって笑えない。

「こっから出せ。俺はともかく、サチは閉じ込めておく理由も無いだろ?」

『駄目です。本当にサチさんがイレギュラーな存在だと思っているのですか? 普通に考えて逃亡中に寄り道をすること自体がありえないでしょう。ついて来たい、などと駄々をこねられてそれをお認めするようなこと、ありえないと思いませんか? 完全に想定までしていたわけではありませんが、概ね予定通りです」

「ちょっとちびっこ、こんな事していいと思ってるわけ? こんなの、普通に犯罪なんじゃないの? あたしが怒ると面倒くさいよ?」

 俺とユカのやり取りに業を煮やしたらしいサチが怒声を発すると、それに対する返答は無し。戻ってきたのは、ぶつり、というマイクの切られる音だった。よほど頭に来たらしいサチは忌々しげにすぐそばの壁に蹴りを一撃。鈍い、嫌な音がした。そして、それに合わせて再び天井からの声。

『次に手荒な事したら食事抜きです。全部見てます。大人しくしていてください』

「さっさとここから出せっつってんの!」

『……あと、私はちびっこではないです。それでは』

 ユカの性格を考えるに本気で食事を抜きかねないので、とにかくサチを落ち着かせ、俺達はソファへと戻った。

見ればサチは、恐怖なのか怒りなのか、目は落ち着きなく左右に動いていて全身がかすかに震えていた。冗談抜きに、この非常事態に対して混乱しているようだった。とにかく状況を整理して、一番無難だと思える行動をとること。何よりもそれが肝心だと俺は拉致監禁被害経験保有者としてサチに説明してやると、どうにかその言葉は耳に届いたらしい。おぼつかない様子でサチは首肯した。そんな本気で焦りまくった顔されても困る。俺だって誰かにすがりついて何とかしてもらいたい気持ちが今にも溢れだしそうなのだ。こんなの、一回経験したくらいで馴れるもんじゃない。

「どうする? ねえ、出られないって、ちょっと予想外過ぎるんだけど」

「どうするもこうするも……向こう側から何かがやってくるまで待つしか……それこそ、ゲームでもして待ってるしかないんじゃないか?」

 こんなアドヴァイス、俺らしくないにも程がある。俺はこういう時、あたふたしながら誰かに突っ込んでもらって、落ち着かせてもらう側にいる方が向いているのだ。自分の事だから間違うはずもない。迷惑だ。配役の交換を要求する。

「どんなに長くても、ここで閉じ込められるのは二日だ。事が起こるまで。ユカがここで俺達を一生ペットとして飼っていく、なんて異常人格の持ち主じゃない事は分かっているわけだしな」

 そんな思いとは裏腹に、口だけは動く。内心焦りまくっているくせに、それっぽい事をなんとかして音声に出す俺は、もしかしたらプライドが高いのかもしれない。

「審判って、何があるんだろ……?」

「分からんけど……大丈夫だって」

「何その適当な回答」

「だって、サチは俺の不幸なんか関係ないくらいついてるじゃん。俺がどんだけ呼び込んでも大丈夫、だろ?」

 ほどなくして夕食が運ばれてきた。持ってきたのは、完全武装した警備員風の男二人だ。貴重品の輸送でも行っているみたいな風体で岡持ちを持っている奴と、変な事少しでもしたらこの警棒が黙ってないぜとばかりに戦闘態勢の奴。下手な事なんか出来っこない。

「ここへ置きます。両手を高く上げて。我々の退室までそのままの姿勢で」

 俺は今、何の因果でここでこんな事をしているんだろう。組織に捕まった時から常々思っていた事だけれど、改めて、強く強くそう思わざるを得ない。なんだこれ? 誰にともなく呟いた。警棒男が物凄く力強い目つきでもって睨みつけてきた。睨み返すほどの度胸は無い。なんとなく、悪いのは全部オケダな気がしてきた。喫茶店で脛に不意打ちした時、せめてもう一発くらい殴りつけておくべきだったかもしれない。勿体ない。



 食事――見るからに出前のカレーとサラダ――を終えて、気晴らし、とばかりに再びゲームにしばらく興じて、それから。ユカ邸に着いたのが夜の十時過ぎで、あれやこれやでもう深夜一時を回っていた。空いた食器の回収にやってきたのはやっぱり警備員二人組で、食器と交換するような形で地下室には寝袋が二つ投げ込まれた。食ったらさっさと寝てしまえとでも言いたげな処置だ。風呂を使わせてやろう、という優しさは無いらしい。絨毯が敷かれているとはいえ、ベッドとは比べものにならない硬さの床に寝袋一枚。公園の遊具で野宿よりはマシだろうけれど、落ち着かないことには違いなかった。

「あたし……なにやってんだろ……? 自分で立候補してついてきて、今、何故か囚われの身なんてさ、急展開過ぎない?」

「しょうがないべ……とにかく寝ておかんと、逆襲するチャンスがあってもし損なう」

「……ねえ、覚えてる? 前にさ、小学校の時。林間キャンプ」

「出来れば忘れたい記憶第二位くらいだなそれ……」

「そん時もこんな感じで寝てたよね。寝袋じゃなくて布団に毛布だったけど」

 まだ十歳の頃だ。俺やサチが通っていた学校、五年生には林間キャンプという外泊行事があって、俺達の年は群馬県の山中にあるキャンプ場がその会場だった。その頃から既に不幸に魅入られていた俺は、レクリエーション中に転倒しかけて、その勢いでクラスメイトにひじ打ちを食らわしてしまう、という小さな事件を起こした。よりにもよってその被害者が、俺の事を日ごろから良く思っていない奴で、わざとやったの何の、と大騒ぎになった。しかも、そいつはどういうカラクリなのかその時の担任教師に妙に気に入られていて、不公平な調停の結果、全ては俺が悪い、という事にされたのだ。今ならばいくらか抗弁しただろうけれど、当時の素直で純真で汚れの無かった俺は、ただただ感情的にわめきたてる事しか出来なかった。

 反省しなさい、とか言われてひと組四人でテントで寝るはずの夜、俺は一人、キャンプ場に併設されていた小さな体育館の片隅に布団を敷いて眠る事になったのだ。

「流石にひどいなーって思って夜中に様子見に行った時、さて、セイジ君はどうしてたでしょう」

「……忘れろよ……」

「怖い……お腹痛い……ママーって」

「名誉毀損だ!」

「事実」

 真夜中、教師の巡回の目をくぐりぬけて体育館までやってきたサチに、しばらく俺は気がつかなかった。緊張感からなのか、それとも一人で暗い場所に居る事への恐怖からなのか腹痛をもよおして、何もかもがうんざりで、泣くのに忙しかったのだ。はっきりとした風景はもう覚えていないけれど、あの時の空気の冷たさや、体育館全体に時折響く何かの音ははっきりと覚えている。その時俺は、ふと、自分の頭に誰かの手が触れるのを感じたのだ。

〝大丈夫、すぐ朝になるよ〟

 すぐに、サチだって事は分かったけれど、声は出したくなかった。恥ずかしくて、悔しくて、何を言ったらいいのか分からなかったから。

〝何しに……来たんだよ〟

 やっと言えた、そんな言葉。

〝せいくん、一人じゃつまらないでしょ?〟

〝先生に見つかったら怒られるぞ〟

〝いいよ別に……寝るまでここにいてあげよっか。あたしが、ママの代わりだよ〟

〝やめろよ、大丈夫だってこんなの〟

「ね~んね~し~な~っなんて歌ってたら先生来ちゃって、その後、どういうわけかセイジががっつり怒られてたよね?」

「今から思うと……あの教師絶対おかしかった。明らかに俺のせいじゃない事でも俺に怒る事結構あったし。あの時だって、俺が連れ込んだの何のってな……」

「まあ、いい思い出って事で」

 こんな赤面ものの記憶を〝いい思い出〟だなんて言えるようになるまで、あと何年くらいかかるだろう。多分、あと十年くらいは無理だ。断言してもいい。

「面白いよね。あの頃はあたしの方がセイジを慰めたり諭したりする側だったはずなのに、今は逆って、どういう事?」

「俺は日頃の不幸で慣れているんだ」

「……まあ、こんな風にトラブルに巻き込まれてて言うのもなんだけど、一人じゃなくて良かった。多分、あたし泣いちゃってるわ。この状況で一人だったら」

 寝袋にくるまったままで俺の方に身体を向けたサチはそう言いながら、さもおかしそうに笑った。なんだか、俺まで笑いたくなってくるくらいに自然な笑顔だった。

「お前ひとりだったら討ち死に覚悟で警備員に殴りかかって行く気がするぞ」

「無理、あたしは自分の力量わきまえてるもん。あんたと違って堅実派だから」

 ひとしきり笑い話をしたおかげで、部屋の空気もいくらか和やかになったようだった。このまま静かに目を閉じていればちゃんと眠れるような、そんな気がする。

「きっと、大丈夫……だよね?」

「うん。二日間一緒にいただけだけど、ユカ、そんな悪い奴じゃないと思うし……大丈夫……」

「たった二日で? そうですか……お幸せに……」

「アホか」

「……もし、駄目だったら何とかしてね?」

 なんとか出来るとはとても思えない。その方法なんて欠片も思いつかない。それでも俺は、はっきりと言い切る。言い切る以外の選択肢なんか何処にも無い事くらい、俺にだって分かるのだ。

「任せとけ」

 きっと、何とかなる。何とか、する。

 天井に向かって、いつもの。

 何か良い事、ありますように。明日は良い事、ありますように。



***


 お別れ会をしました。すごく楽しい時間でしたが、詳しくは書きたくないです。思い出しながら泣きだすなんて、私らしくないんです。私自身が、そう思っているんです。だから、忘れはしないけど、思い出しません。しまっておくんです。いつか、平気な顔をして、良い思い出として振り返るようになる日が来るのなら、その日までは。

 エイちゃんの言うように、流れに逆らわないでいれば、いつかまた会えるんでしょうか? きっと、会えますよね?


***


 例によって、俺の〝良い事ありますように〟の願いは今日も届かなかったらしい。そもそもこの日は朝一番から最悪だった。

 寝袋からもそもそと這い出すと、着替えようとして服に手をかけたところのサチに遭遇。悲鳴でもあげられて、一発殴られる、なんて展開だったらお約束っぽくて面白いのに、戻ってきたのは、じとーっとした脅迫的な目線だけだった。何も言わず、黙って寝袋の中でしばらく待機。サチがそう命じたいらしい事は明らかだったので、それに従っておいた。どう考えても、無防備に服を脱ごうとしたサチが悪い。

 五分くらいして、いいよ、の声が聞こえてきた。寝袋から出ると、黒いジャケットが、深い緑色のそれに、Tシャツが黒地に変わっただけ。相変わらず暑そうだし、その程度の着替えでどうして五分もかかるのか謎だ。俺なら一分で終わる自信がある。

「下着も変えたの! こんな事言わすな馬鹿!」

「すいませんでした……」

 謝る他に選択肢は無かった。

 次に朝食。シンプルだったり手抜きだったりするくらいじゃ俺は文句なんか言わない。定型的な言い草だけれど世の中には食べるのにも苦労している人が大勢いるのであって、食べられるだけマシなのだ。つまり、要するに、朝食が無かった。これは、文句を言って然るべきだろう。

 ユカ曰く、我が家には朝食という概念はありません、だそうだ。人道的な監禁ライフ発言はどこ吹く風で、悪びれる様子もなしだ。

『そもそも、何の働きも無い人間が食事にありつける事は、天の祝福、と地面に頭をこすりつけてもいいくらいに得がたきものだという事を自覚するのです。そして、私は貴方がたを最低限保護しますが、祝福を与えるつもりは毛頭ないです』

 生かさず殺さず閉じ込めておきます、と言いたいらしい。

「一応聞いておく。次の食事はいつだ?」

『午後一時にランチを送ります。それまでは私も多忙ですから一切の問い合わせには応じません』

 当分何も食えない、と言われると、やけに空腹が強調されるのは贅沢、飽食に身体が馴れきっているせいなのだろうか。今まで飢える事なくやってこれたのはきっとすごい幸運なんだろうな、なんて悟りを開いたふりをしたところでやはり空腹には違いなかった。

「サチ、時間分かるか?」

「携帯……うん、午前九時と少し。て言うかあんた携帯どこやったの?」

「言わなかったっけ? 最初に捕まった時取られた」

「聞いてない……いや、あんたの電話の事はどうでもいい、ストラップどうした?」

「ああ、あれ、携帯につけないままポケット入れてたから難を逃れて……どうしたんだっけ……」

 東京駅から出発する前に、俺はその時点で既にかなりさびしかった所持金を使って全身の衣類を交換している。組織から渡されていたださいスウェットは、汚れていた事もあって駅のごみ箱に放り込み済みだ。

「まさか……あんた……」

 俺は世界中から冷静さをかき集めつつ記憶を辿った。試着室を借りて着替え、その時、確かにポケットの中身は確実に空だった。スウェットみたいな材質の服は脱いで何かが残っているならばすぐに分かる筈だから、これは確実。即ち、考えられる可能性は一つ。

「悪い……記憶違いだ。組織のやつらに奪われ……」

「嘘つけ! 失くしたんでしょ!」

 ちょっとストラップを失くすくらいわけないような状況だったし、その原因は俺では無い。よって、俺は悪くない……と言うわけにはいかないだろう。

「すまん……あれやこれやでいつの間にか……」

「粗忽者」

「……ごめん」

「はぁ……せっかくセイジ好きそうかなーと思って選んで買ってきたのに」

「は? マジで? すまん、そんなものだとも思わず……悪い」

 悪そうな笑顔がにまにまと接近してきた。

「あれ? 嬉しかった? そうだよねえ、嬉しいよねえ、分かる分かる。本気にしちゃうんじゃ、まだまだ修行が足りないって事だよね」

「…………」

 そして、午前中はレバー無しでも強くなる特訓の時間とする、とサチが宣言。流れからして、反論も何も許されない状態だった。しかも、キャラごとの特性がどうたらこうたら、と俺には分からない事を言いだし、俺が使うキャラクターまで指定されて、そんなのが昼食まで四時間近く続いた。目はチカチカして仕方無いし、最後の方は若干吐き気を感じたくらいだ。

 午後までみっちりゲームに付き合わされ、それから昼食、またゲーム、休憩、ゲーム。何かしら状況に変化でもあれば少しは救われるような気もするけれど、天井からの声は午前中以来一度もやってこず。あまりにも退屈だったから一つ実験をしてみる事にした。

「で? あたしはここに座っていればいいわけ?」

「うん。まあ、冗談半分の実験だから結果なんかどうでもいいんだけどさ」

 サチを、部屋の入口から一番遠い位置のソファに座らせる。俺は、逆にエレベーターホールの一番奥、壁際ぎりぎりの場所まで移動。

 題して、〝もし、この場にサチがいなかったら〟なんてところか。

 サチが同行するようになってからこちら、俺は、俺自身が痛い目を見るような不幸には遭っていない。ユカが前に言っていた、幸運と不幸が干渉してどうたら、なんてのが機能しているからなのだろうけれど、果たして本当にそうなのか。それを確かめる為の実験、要するに暇つぶしだ。

「じゃあ、行ってみる」

「本当に大丈夫かな……いきなりここが地割れに呑み込まれたりしないでしょうね?」

「……無いだろ……多分」

 ソファから一歩ずつ前進を開始して、三十七歩目。部屋からエレベーターホールに移ってサチが壁の影に隠れたところで、俺の、そうそう何かが起きたりはしないだろう、なんて思いを叩き潰すような出来事がしっかりやってきた。

『敵襲。指示に従ってください』

 放送が乱雑に、発生した出来事を告げてきた。不意打ちだ。大声をあげそうになった。

「敵って……そっち大丈夫なのか?」

『こちらの事は気にしないで下さい。いいですか、まず、エレベーターホールから見て一番奥の右隅の壁にスイッチが赤と白、二つあります。赤を押してください』

「爆弾とかじゃないだろうな……」

 冗談を言ったつもりだけれど、シャレにはならない。それくらいあっても、あまり驚けないような状況下だ。押した瞬間、屋敷ごと吹き飛んだりして。

『物理的な損傷を被るものではないです。急いで。時間を稼がせるのも限界があります。すぐに、私のところまで来るはずです』

 ぶつ、と放送が途切れた。とにかく俺はエレベーターホールから再度室内へ。入った瞬間、照明が落ちた。それから、機械音。見ると、奥壁際の天井からはスクリーンが降りてきつつあった。

「押したらこれだもん……マジ、おっかないから」

 サチは少し声を上ずらせながら、とにかくスクリーン全体を見れる位置へと移動しているようだった。俺もその横へ。投影されたのは、地上階を監視しているらしいカメラの映像だった。過去のビデオでは無い、現在進行形のもの。スーツ姿の男が一人、女が一人、それに、何処からどう見てもオケダにしか見えない白衣の男が一人。



「外に誰かが出た形跡はありません。必ず、何処かにいるはずです」

 先頭を切って屋敷を突き進んでいく若い男が後ろからついてくる二人にそう告げた。

「本当に……これで上手くいかないと……あたし達大変な事になるよねえ……オケダ君」

「ユイさんはまだ社長秘書の役目があるからいいじゃないですか……僕にはもう後が無いんです。ご存じでしょう? 僕がいかなる暴虐にさらされ、苦境にたたされ、断崖のふち……」

「この無駄な長話が失敗の引き金を引くことにならないといいけどね。あんたさあ、一応作戦責任者なんだから、しっかりしないと」

 オケダの長い台詞を強引に中断させたユイは、入念に屋敷内を探っていく。目に見える扉は全て開き、床から響く足音のかすかな変化を丁寧に拾って、〝鍵〟の隠し場所を、細かく、しつこく。

「ようこそ、我が居城へ」

 声が、カメラの視野の外から聞こえた。すぐに、その持ち主がフレームイン。ユカだ。上から斜めに見下ろすカメラでも、その態度がいかに偉そうなのかよくわかる。胸を逸らし気味にして、あれやこれや探りまわる〝侵入者〟を睥睨しているらしい。服装が白のスウェット型囚人服から、ふわふわとした印象を相手に与えそうな、柔らかそうな色使いのワンピースに変わっていた。

「鍵、取りにきたわ。ユカ、ここまでご苦労様。その格好、可愛いわね」

「それはどうも。まあ、ご苦労様はこちらの台詞ですね。こんなところまでようこそ」

「マスターからあらかたの流れは聞いているの。さあ、渡しなさい」

「気が変わった、と言ったらどうします?」

「鍵といい君といい、どうして昨今の子供は大人に対し反抗を重ねる? 言うことを素直に聞いていればまだ可愛げがあろうというものだ。大体……」

「オケダ君、いいから。ここは、あたしが対応する」

「な……僕が作戦の責任者だ」

「くだらない長話で台無しにしていい物事じゃないの。黙りなさい」

「ユイ……それとその他大勢の一部の皆さん。少し、昔話をしてあげます。ちょうど〝視聴者〟もいる事ですし。いい機会です」

「ユカ、いい加減にしなさい。どうなっても、責任はとれない事くらい分かるでしょう?」

 ユイが苛立った口調でそう言い、どこからどう見ても拳銃に見える何かを構えた。それに倣ってなのか、オケダも、その他の構成員も皆、同様に構え。

「そう時間はかかりませんよ。どうして私がここにこうしているのか。どうして、すぐに鍵を渡さないのか。私を処分するにしても、その理由くらいは聞いておいてもいいんじゃないですか? まだ猶予はあるのです」

「……話のあと、鍵君を渡してくれるの?」

「話の最後に貴方達に一つの質問をします。その回答次第で。もし回答が私の意に反するものならば、全力をもって抵抗します」

 その一言に対して、ユイたちはしばらくの相談。やがて、ユイが全体を代表して、ユカの主張を受け入れることを宣言。そして、滑らかで冷たい口調でもって、ユカの少し長い昔話が始まった。

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