目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第3話

 表に出て分かった事は、あの場所は、山林に立つ工場のような施設だった事。敷地を抜けてしばらく下って行って分かった事は、山梨県の片隅である事。

 しばらく下って至った広めの道路に沿って一時間くらい歩くと小さなファミレスがあった。入って目立たない奥の席に通してもらった。時計を久々に見た。午後八時三十七分。忘れがたい時間になりそうだ。

「不愉快です。どうして貴方みたいな人とあんな……こ……恋人同士みたいな……」

「そのまま堂々と入れるような状態じゃねえだろ」

 飲み物だけを注文してから、ひそひそと作戦会議開始。まず、大至急なんとかしないといけない問題があった。

 オオヌキセイジ十六歳。自慢ではないけれどこれまで彼女なんかいた試し無し。この日、異常事態時ながら初めて、異性の腰に腕を回した。出来ればもう少し楽しげな気分でそういう体験はしたかった。つまり、要するに、ユカの後ろ手にはめられたままの手錠をどうしようって事だ。

「やっぱ何処かで金属用のノコギリかなんか買うしかないよなあ?」

「…………」

「人に見られたらやっぱ犯罪っぽく見えちゃうしなあ」

「どうでもいいです……あ、来ましたね」

 店員がコーヒーとアイスティーを運んで来て中断。身を乗り出してアイスティーのストローをくわえるユカが、いかにも子供っぽく見えて可愛らしかった。

「おいしい」

「俺は九回しか食べなかったけど、あそこの食事、味薄いよな」

「飲み物が水のみなのはいただけないです……何度、欲しい物に紅茶と書いたか……」

「へえ、そういうのも駄目なんだ? 紅茶好きなの?」

「…………」

「何だよ?」

「なごんでいる場合じゃないです」

「確かに」

 だからと言って、決めるべき作戦なんか殆ど無い。あまりにも状況が成り行きに過ぎる。

「どうしたもんか……」

「本当です。一緒に来て、少し後悔しているくらいです」

「あそこにいた方が良かったのかよ。考えられん。俺は早く家に帰ってまったりしたいんだ。監視カメラが見てたりしない、電気のちゃんと消える部屋で音楽を聴きながら寝たい」

「貴方の幼い要望はどうでもいいし、私としては、どちらでも」

「じゃあついて来なきゃ良かったじゃないか」

「言ったはずです。死ぬ理由は何処にも無いって。特に細かく言及するほどの複雑な何かがあるわけではないです」

 真顔で、はっきりとこちらを見据えて話すユカの表情を見ていると何だか気圧されるものがあった。俺には多分こんな表情出来ない。

「分かっている事は、逃げる事を選択した以上、そう長くは一か所にとどまれない、と言う事です。審判の日が過ぎるまでやり過ごせば、彼らはその目的を失う。貴方は、貴方の希望する通り、元の暮らしに戻れるでしょう」

「審判の日っていつなんだ?」

「……ユイ達が説明をきちんとしなかったのがいけない。そうですね。そうに決まってます。目の前にいる、聞いてばかりでろくに考えない駄目人間に説明を与えなければいけない不幸にこの私が見舞われているのは私が不幸なわけではなく、他者の怠慢の後始末を押しつけられただけです。そうだと言ってくださると嬉しいです」

「仕方ないだろ。説明求めたってあいつら無視したり適当な事言って話し逸らそうとするんだからよ」

「言い訳ですか。これだから子供は……」

「……じゃあいい、教えてくれなくていい」

「拗ねましたね。ふふふ、やはり貴方の方が子供でしたね。それが証明されて嬉しいです」

「…………」

「まあ、少しずつ説明してあげないでもないですが、安全が確保できてからです。お子様にはそのタイミングは計れないでしょうが」

 得意げに笑うユカと、何と言い返すべきか言葉が見当たらない俺。雰囲気で一緒に脱出した事を激しく後悔だ。置いてくれば良かった。

「貴方は今、私なんか連れてこなければ良かった、と思っています」

「……思ってねえよそんな事」

「けれど、もし貴方が一人で脱出を試みたとして、果たして出口まで辿りつく事が出来たでしょうか」

「やってみなけりゃ分かんないだろ」

「可能性はゼロでは無い。けれど、決して高くはない。やりなおしが不可能な状態下で、少なくとも自分よりはあの場を把握しているであろう私に同行を求めたのは悪くない判断です」

「そうだよ、さっきも聞いたけど何で中の道知ってたんだよ? 教えてくれるって言ってたよな」

「……そんな事言ったかどうかもよく覚えていないです。話して面白いような事でもない。歩いた事が一度あるから知っていたに決まっているじゃないですか」

 結局、それっきり細かい話はほとんど出来ずじまい。要するに、俺が何を聞こうと無視だからどうしようもなかっただけなのだが。とにかく一つだけ決まった事は、一か所にはとどまらずあちこちを転々とするか、安心出来るところに隠れて朝を待つ。それだけ。

「明るくなってくれば向こうもそれほど目立つ行動は出来なくなるはずですから、それから次の行動に移ればいいでしょう」

「今思ったんだけど、警察に行ったらそれで一発解決じゃねえ? 手錠もそうだし、このまま隠れてるよりかなり楽だと思うんだけど」

「それはダメです」

「なんでだよ」

「面倒事になります。それに、このような奇妙な事態で彼らが何かの役に立つとは思えません……とにかくお子様は黙っていて下さい。そうしたらきっと、私が貴方を元の生活に戻してあげます」

「お子様言うな。どう見てもそっちのが子供じゃねえか。何歳だよ?」

「どうも見た目で判断されているようですがこれでも十八です。高校一年生のお子様の眼力では、見誤るのも致し方ないです」

 身長どう見ても百四十センチ台、顔も、いくらかの大人びた部分が見えるにしても全体的には化粧っけのない童顔で、いかにもマセた子供な風体の奴の実年齢を見破るような不思議スキルなんか俺は持ち合わせていない。十八? 嘘つけや、って感じだ。

「何なら身分証明書を提示しますが?」

「いや、別にそこまでしなくても良いけど……年齢はさておき、変わってるよな。考え方とかさ」

「大きなお世話です。貴方だって人の事は言えないはず」

「俺は普通だ。きっと普通に生まれるとこで全部運使い果たしたんだろ。だから、変わってない俺は多分勝ち組」

「これほど無意味な勝ち負けもないですね。さて、そろそろ出ましょう。貴方に腰を抱かれる屈辱をまたしてもですが、致し方ないです」

 ファミレスを出て、とにかく道なりに。唖然とするくらい、片田舎の一車線道路沿いには何も無かった。道の両側は林になっていて、時折何かの工場の敷地や、小さな喫茶店、個人商店がぽつぽつとある程度。ファミレスの灯りが遠ざかると、頼りない街灯が連なるだけの寂しい道。虫が鳴く、穏やかで涼しい夜だった。

「藪に身を潜めるのはあまり懸命とは言えないですし、今はひたすら歩くしかありませんね」

「当てが無さ過ぎてなんかな……」

「この先、あと五キロくらい歩けば駅に出ます。駅の近くで何かしら探すことにしましょう」

「この辺分かるのかよ……まあいいや。駅あるなら、遅くとも明日には手錠外せるな。歩きづらいだろ、それ」

「……ご心配には及ばないですよ。急ぎましょう」

 歩調を早めるユカに従い、俺も足を速めた。今のところ、追手らしき影は見えない。少しずつ緊張が解けてきた。

 何だかご利益がありそうだから、今のうちに。夜空に広がる、星々をめがけて。

 何か良い事、ありますように。明日は良い事、ありますように…… そろそろ叶ってくれても良いと思うんだけど。



 ようやくの人里、とでも言うべきなのだろうか。駅近くには、ぽつぽつと居酒屋やらコンビニやらカラオケボックスやらが点在していた。まずはユカを目立たないところで待たせコンビニでお金を下ろした。残高九百二十円、と書かれた明細がなんともみじめで仕方なかったけれど、手持ちは一万七千円。これだけあれば今日、明日、明後日くらいは何とかなるはずだ。避難先の第一候補はカラオケボックス。個室だし、足を伸ばして寝ることも多分出来る。あからさまに未成年な見た目だから厳しいかもしれないな、と思っていたら案の定、受付で追い返された。ゲームセンターは寝れないから却下、マンガ喫茶は、二人がバラバラに個室に入るのは安全面から好ましくない、とユカが強く主張したため却下となった。なんだかんだ言って怖がってるあたり可愛いもんだと思い、褒め言葉的な要素を多分に含めてそう言ったら、完全に無視された。顔を赤らめながら、〝うるさい、ばか〝とでも言ってくれればきっと愉快な気持ちになれたのに。

 あてもなく付近を徘徊していたら公園があって、そこには大きなトンネル型の遊具があったから、結局そこで夜を明かす事になった。

「背中がじゃりじゃりします」

「このスウェット、絶対安物だよな」

「囚人服ですから。それより、早く寝ましょう。交代で見張りをすれば安全は確保出来るはずです」

「じゃあ俺がしばらく起きて……」

「私が起きてます。早急に眠ってください。三時間くらいしたら起こします」

「いや、いいよ、俺が……」

「寝て下さい」

「俺、一応男だしさ……」

「同じ事を何度言わせるつもりです? 寝れ」

「……はい」

 遊具のトンネルは金属製で、横になって目を閉じると、かすかな物音がひどく際立って聞こえた。服の擦れるかすかな響き、何かの軋み、自分の鼓動、その他もろもろ。ユカがみじろぎしたらしい。手錠の金具がごつんと音を鳴らした。明日には何とかして手錠をとってやりたい。その方法や手順をあれこれ考えているうち、自然と眠りが降りてきた。周囲の音や気配が遠ざかっていった。思考がばらばらに宙を漂いだした。いろいろなものがつながらなくなっていった。



「で、まだ見つからないの?」

「めぼしい商店は限られていますから足取りを追っているのですが、駅前にあるコンビニに立ち寄ったところから足取りが途絶えています……その、もし可能ならば人員をもう少し増員していただければ……あたし一人ではどうしても万全とは言い難いです」

「うちにローラー作戦が出来るような余剰人員がいるとでも?」

「いえ……すみません」

「まあいいや。もう帰っておいで。ちゃんと手は打ってあるんだ。ユイ、探しに行きたそうだったから頼んだんだけど、結果的に無理させちゃったみたいだね。疲れたでしょ?」

「は……お心遣い痛み入ります」

「大丈夫……きっと上手くいくよ。僕たちが選ばれる、選ばれないに関わらずね。じゃあ、切るよ」

 受話器を置く。溜息を一つ。しかしその表情は暗くなかった。面白くて、こらえきれないといった様子にすら見える。

 再び、受話器があがる。ボタンがプッシュされる。彼の耳に当てられた受話器から、かすかに呼び出し音がこぼれている。やがて、室内に再び彼の声が響く。

「あ、オケダ君。おまたせ、出番だよ。平日だけど……え? それ本当? まあいいや、場所は……」



 物音で目が覚めた。眠り馴れない場所で目を覚ますと、自分の現在位置を思い出すのにほんの少し時間がかかる。見慣れない、湾曲した天井と、一つも取れていない身体の疲労。通りがかりの公園の遊具の中で眠った事を思い出すためにかかった時間はおおよそ三十秒くらい。と、いうよりは三十秒もしないうちにユカが沈鬱な表情を浮かべながら小さく、鋭く、〝事態〟を告げてきたのだ。

「取り囲まれてます」

「……本当にもう……何処の映画だよって話だよな」

「くだらない事を言っている場合ではないですね。私としてもここで捕獲されてしまうのはあまり面白くないです」

「取り囲まれてるって事は逃げ場無しか……?」

「貴方が交代の時間に起きてくださればどうせ私は眠らなかったから早急に手を打てたのですが、揺すれど叩けど目を開かれなかった方がいらっしゃった都合上致し方の無い事でございますよ」

 言われてみれば、途中で一度何かをうるさく思いながら寝返りを打った記憶があるような気がしないでもなかった。

「……ごめ……」

「かの志賀直也は『暗夜行路』の中で、懺悔などは一時のものに過ぎない、と記していました。その言葉に初めて出会った時こそ、酷だと思いましたが、今、貴方の謝罪を受けて、それもまた真実なのだろうと思った次第です」

 何を言われているのか寝起きの頭にはよく理解出来なかったけれど、とにかくユカが物凄く怒っているらしい事はよく分かった。こういう時、やれる事なんか一つだけだ。

「俺が上手い事ひきつけるから、逃げてくれ」

「なんですかそれ。それこそ何処の映画です?」

「あんたと俺の二択になれば、俺を取るはず」

「本当は嫌なくせに」

「……汚名……そう、返上だ!」

「挽回だとか言い出さなかった点は褒めてあげますが……その案は受け入れられません。却下です」

「……いや、それじゃ……申し訳無くて……」

「いいから。二手に分かれて落ち合いましょう。正午に駅です」

 そう言うと、ユカはさっさと立って、身体についた砂埃を軽くはらった。違和感が数秒、すぐにその正体に気づく。

「待て、手錠どうした?」

「ふふふ……これのことですか? なんかがちゃがちゃやってたら鍵がとれました。それどころじゃありません。貴方は反対側から出て下さい」

「最悪、逃げられそうだったら一人でも……」

「拒否します。いいですね? 大人しく従って下さいね」

 ユカは俺の返答を待つ事なく、トンネルの外へと飛び出して行った。俺も迷っている暇は無い。ポケットの中に入れたままになっていたサチのストラップを一回握る。きっと何の意味も無い事だけれど、出来れば少しだけ幸運を分けてもらえれば、と思って。

勢いをつけて反対側から全力で駆け出した。背後から、〝いたぞ〟なんて声。とにかく逃げて、正午に駅。そのためにはどうすればいいのか。ろくにまとまらない思考にわずらわされながら、人が多そうな方向めがけて走った。



***


 何人か、私よりもかなり小さな子ですが、外に出て行く事になりました。新しいお父さん、新しいお母さんが見つかった、などと表現してしまうと何処かお話しっぽいですが、生々しく言ってしまえば、引き取って、親権を持ってくれる親戚筋が見つかったりだとか、そんな類の、割と生々しい話です。祝福してあげましょう。

 私は、そういう当てはないですから卒業もないです。父の会社の人、かつての父の部下だった人が何回か来ましたが、少なくとも私を引き取るつもりは無いようです。何でもこの施設は、父の会社が運営しているらしく、彼らは運営状況やら何やらの視察に来ているらしいです。

まあ、そんな人達には私としても引き取られたいとは思いません。彼らも、こんな私なんかいらないでしょう。そのうちに大人と呼ばれる年になったら、仕事を見つけて出て行けばいい。それだけの事です。

 ところで、私の学歴ってどうなるんでしょう。高校に途中まで通っていたから、高校中退? 仕事をいつかするとして、そう履歴書に書く事は、マイナスになるのでしょうね。なんだか、不愉快です。

 エイちゃんにこの話をしたら、笑われました。そんなの、何の意味も無いって。自分がその時々で正しいと思えるものをちゃんと選べるようになればあとは何もいらないらしいです。それもそうかも、と思えたのはきっと、私にそう言ってくれたのがエイちゃんだったからなのでしょう。

 図書室にもう少し、高年齢向けの書籍も揃えて欲しいと要望してみました。低年齢向けの漫画ばかりでしんどいです。魔法がどうたら、宇宙人、モンスターにドラゴンに伝説の剣。未来は塗りつぶされていて、それをどうにかしないといけない少年? 結構、うんざりです。


***


 とりあえずここまでの流れをざっくりと。ちなみに今俺は、駅の近くにあった、さびれた雰囲気の喫茶店の一番奥の席で、考えられる限り最悪のシチュエーションの元、あまり美味くないアイスコーヒーを口に含んでいる。

 ひたすらに走った結果は、擦り傷、切り傷、虫刺され、他沢山。久々にまとまった不幸を食らった気がする。

まず走り始めて、すぐに転倒。すごいタイミングで靴紐がほどけて、それをふんづけた。しかも、その勢いで紐が切れるおまけ付き。無理やりに結び直して再度走り直した。背後から、あからさまに人が追ってくる気配がした。

駅前近くではトラックが道を塞いでいた。交通整理をしている人が見えたから多分工事渋滞。隙間をすり抜けて行こうとしてみたら、少しトラックの荷室にぶつかってしまって、神経質そうな、苛立った顔つきをした運転手にさんざんに怒鳴りつけられた。途中で、〝あそこだ〟なんて声まで聞こえてくるし。

 何とかやり過ごして駅前に到着。駅の脇に人が入り込んでいける隙間があって、駅舎と線路を隔てるフェンスと建物の隙間は藪になっていた。背後に人がいないことを確認してそこに忍び込んでみる。程よく隠れやすかった。運が良ければしばらく時間を潰せるかもしれない。そう思った直後に気がついたのは、頭上から聞こえる不穏な羽音だった。

 黄色と黒で派手に着飾っている物騒な虫の巣。公共建築物みたいなもんなんだからちゃんとしろよ、なんて誰にともなく文句を言いつつ、なるべく息を殺してその場から出ようとした。

「見つけた。かくれんぼしてるんじゃないんだから、こんなところに隠れたりしないように」

 聞きたくも無い、最悪な奴の声が聞こえた。藪から出るための唯一の進路に、悠然とたたずむオケダ。平日の真昼間に一教師がこんなところで何してんだよ、なんて言ってやると、随分それが気に障ったらしい。

「お前に言われる事じゃない!」

 怒りだし、がさがさと藪をかきわけながら俺の方に突進してくるオケダ。蜂の巣に激突して刺されるオケダと、巻き込まれる俺。最悪だ。言葉も出ない。しかもめちゃくちゃ痛くて熱い。とにかくその場を脱出して、駅前にあったドラッグストアで消毒の軟膏を買い、喫茶店に入り、今に至る。軟膏の匂いを漂わせながら、俺とオケダは喫茶店で対峙している。もうちょっとシリアスになってもよさそうなものなのに、オケダは俺に向かって、蜂の生態やら種類やらをあれこれ喋っている。そもそも誰のせいで刺されたのかよく考えてもらいたいものなのに、あんな場所に潜んでいた俺が悪いとでも言いたげなその口に今すぐ何かをねじ込んでやりたい。

 とにかく、そういうわけで俺はあっさりと捕獲された。喫茶店の時計によると午前十時二十分。正午まではまだいくらかある。今、目の前にはオケダ一人。大勢で取り囲まれる事を予想していたから、これはせめてもの幸運だった。

「まあ、話しを要約すると、本来アシナガバチの仲間はそれほど獰猛というわけでないんだ。スズメバチと同じ科に属してこそいるがね。うっかり巣を刺激してしまったり、洗濯物なんかに紛れ込んでいたりしなければ、そうそう刺される事はない」

「そんなことはどうでもいい。うっかり巣を刺激したのはあんただろ」

「まあ確かにどうでもいい。僕は君を捕まえに来た。君は逃げたが、捕えられた。それが結果だ。だけど、誤解しないでほしい。我々は何も君に危害を加えるつもりはない」

「あんたのせいで蜂に刺されたけどな」

「それは君があんな子供っぽい場所に隠れたりするからだ」

「子供で結構。そんな子供を本気になって追いかけまわす可哀想な大人は言う事が違うね」

「何とでも……大人な僕はこうして話し合いの場を設けているのだからね……僕にはもう後が無くてね。出来るだけ穏便に、君を回収出来る事が望ましい」

「意味分からん。ようやく学校クビにでもなったのか」

 俺がそう言うと、オケダの表情が変わった。ずっと分別があるフリをしていたくせに、目を見開き、唇を震わせながらの怒りの表情。俺が見たことの無い表情だった。

「僕は謹慎を命じられた。君が失踪したのは僕のせいだ、と詰められてね……事情が明らかになるまでの謹慎……事実上のクビだよ。あり得ないことだし、断じて許すわけにはいかない。僕は社長の思想に改めて共感したよ」

「全面的に事実じゃねえか。失踪どころか誘拐犯のくせに」

「もはや僕に未練は無い。この世界はやはり一度、冬に閉ざされなければいけないんだ……状況を見てからしか判断できない無能も、下された判断のみに反応し、自ら何も決められない愚者どもも、皆まとめて粛清されなければいけないんだ……君もそう思うだろう? こんな世界は必要ないんだ……」

 見開いた目のまま、ぼそぼそと危険な事を呟いているオケダは、俺の知るかつてのこいつとはほんの少し様子が違っていた。これまでのこいつは、俺に何のかんのと下らない言いがかりをつけてきても、いかにも真面目な教師としての体裁だけは取り繕っていたのだ。それが無くなったどころか、単なるテロリスト同然な、世界滅ぼします宣言。どこかしら、しかるべき施設にしばらく収容しておいたほうがいいんじゃないか、と半ば本気で思う。

「とにかく、僕は君を連れ戻さなければならない。そこに反対意見は認めない。これは神の意志と呼んで然るべき決定事項なのだ!」

「大人の話し合いはどこに消えうせたんだよ……絶対逃げ切ってやる。て言うか、本気でやりあっても、あんたに負ける気はしない」

「……これを見てもそう言えるかな? はい、皆さん構え」

 オケダがそう言い右手を挙げると、店内にいた二組ばかりのサラリーマン風男性の全員が俺の周囲を取り囲んできた。全部で四人。全員、穏やかそうな顔つきの、標準的なサラリーマンの風体だ。満員電車で押しつぶされたり、取引先で失態を犯したり、ささやかな喜びを奥さんと分かち合ったりしていそうな感じ。

「現状に甘んじる暮らしなどいらん、と僕たちの同志に加わる人は少なくない。その全員が君の存在を必要不可欠なものと認識しているんだ。鳥肌が立たないかね? 君は、他の誰とも違う、選ばれた人間……主人公としての道を歩んでいる。誰もがそれを一度は欲し、しかし諦め、凡庸な道を行くにも関わらず、君は生まれながらにして〝その他大勢〟とは別の存在として選り分けられた。誇りを胸に、感動に身を震わせながら、僕達と共に行こうじゃないか。大いなる冬の、その先に」

 周囲を見回した。俺を取り囲んでいる全員は、いかにも眠たげな表情で俺の事を見下ろしている。注文した飲み物を運んできた店主はいつの間にか何処かへいなくなっている。時計が午後十一時になろうとしている。幸い、俺は拘束されていない。俺の事だから、ラッキーな事の運びで上手い事解放、なんて期待出来ない。

「我々の功績はきっと、誰もが認めざるを得ない事だろう……あのいけすかない女が取り逃がした鍵を確保したんだ……僕はやれば出来るんだ……どいつもこいつも人を過去や結果でばっかり判断しやがって……!」

「やれば出来る……先生良い事言うね」

「ふふ……ようやく僕を認めるようになったか。良い傾向だ!?」

 テーブルの下にぼんやりのばされていたオケダの向う脛を蹴り飛ばすくらい、いくら不幸な俺だってしくじるはずも無かった。不意に襲ってきた痛みにオケダが声を上げた。その他ザコの目線も俺から外れ、オケダに集中。俺はそのままテーブルの上に乗り、オケダを飛び越え、喫茶店のカウンター内に入った。入った直後に足をひねってシンクに激突したのは、まあ、所詮は俺ってところだけれど、とにかく目当ての物はすぐに手に入った。上手く運べ、とひたすらに願った。

「と……取り押さえろ!」

「動くなよ。俺、包丁持ってるんだ。もしここで俺が自殺したらどうする? あんたら、雇い主になんて報告するんだ?」

「馬鹿な真似はよせ! そんなつもりも無いくせに強がるな!」

「これまで散々だったからな。世を儚んで自殺……不自然では無いだろ? 先生、あんた生徒を結果的に殺したとか何とかで、罪にはならなくても週刊誌くらいには載るんじゃない?」

「そんなもの……事が成されれば無意味……」

「その、〝事を成す〟のに俺が必要なんじゃなかったか?」

「…………」

 悔しそうに口を歪めるオケダと、思案顔の取り巻きチーム。そして、刃物を片手に、引き攣り気味な笑顔を何とか維持している俺。余裕なんか一つも無い状態だけれど、とにかく形成逆転だ。

「それじゃあ俺はこの辺で。もし捕まえに来たら、最大限事を荒立てる用意があるんでよろしく」

「お前……ろくな大人にならんぞ」

「ろくでもない大人の代表格にそんな事言われたくねえ」

「何処までも口の減らない……」

「お互い様だろ。それじゃあ、オケダせんせ……ああ、もう先生じゃないのか。オケダさん、さよなら」

 そのまま俺は店の外に出た。流石に抜き身で包丁を持っているわけにはいかないから目立たないところに投棄。これが見つけられない限りはオケダに対しては優勢を維持出来るはずだから、あと考えるべきはオケダ以外の追手がいるのかどうか。何処に身を潜めるべきなのか。物事を思考するにはあまり相応しくない、憎たらしいほどの青空が頭上一杯に広がっていた。



「まあ、そんなわけで、不幸だ不幸だと言いつつも、要するに機転なわけだ」

「ああそうですか、それはそれは」

「最終的に問われるのは実力、それに行動力なんだ。過程の不幸を弾き飛ばすのは、もしかしたらそう難しい事じゃないのかもな」

「よかったですね」

「もう少しなんか無いのかよ……」

「一卵性双生児のような話をかれこれ四回聞かされているわけです。まともな反応などとれようはずもないです」

「最初から殆どリアクションしなかったくせに……」

「その時点でほぼ興味が無い事に気付けない以上、やはりお子様なのです」

 オケダとの対決から数時間。どうにかこうにか駅で再会して、東京方面への電車へと乗り込んだ俺達は、ボックスシートに向かい合って座りながら、何とかして眠らずに目的地まで辿りつくべく努力を重ねていた。片方が眠ってしまったら、いざ襲撃があった時に非常に不利な立場に置かれるから、とユカが主張したためだ。だからこそ俺は、いかにしてオケダの襲撃を退けたのかをいくらかの脚色を混ぜつつ語り、運よりも実力がいかに大切であるのかという自説を余すところなく開陳したのだが、それに対して返されたのは、冬の中頃の霙にも似た、面白みも可愛げもないリアクションだった。

「何かしら話をするですー、とか言ったのはそっちじゃねえか」

「適した話題も見当たらないような、内容の薄い方とご一緒しなければならない我が身の不幸を呪うしか無いですね」

「こっちだってリアクションのここまで薄い方とご一緒に以下略、な気分だ」

「貴方の不幸は折り紙つきですから……初めて見ましたよ。運が無い事で電車まで止める人。いったい、何人の足に影響があったやら」

「……やっぱり俺のせいになるのか?」

「間違いないです」

 ユカが、半笑いの表情で嫌味たっぷりに言うのは、俺が電車に乗り込んだまさにその瞬間にやってきたトラブルの事だ。プラットホームから車内に足を一歩踏み入れたその瞬間に響いた、車掌のアナウンス。俺達が動揺するのに十分な破壊力を持ったその出来事。少しずつ暮れていく空の下、電車は駅のホームに捕らわれてしまったかのように、それから数十分の間、停車し続けた。要するに、前を行く電車が人身事故を起こしたわけだ。〝俺が〟、〝電車に乗り込んだ〟、その瞬間に。

「小一時間、針の筵だったからなあ……」

「いかに自らが不幸の星に魅入られているかを再確認出来たでしょう?」

「本当にな……なんだか思い出したら本気でへこんできた……俺、一生こんな風に、何をしても上手くいかないのか……?」

「へこまないでください。鬱陶しい」

「へこましたくせに」

「はぁ……実力、機転で何とか出来る、とほんの少し前まで豪語していたくせに何と弱い……何とかしてみればいいでしょう。自分で何とか出来る、と信じているのなら、そうそう最悪の結果などやってこないものです。出来る、叶う、と信じればいいのです」

「もしかしてフォローしてくれてるのか?」

「出来る、叶うでトラブルを起こした電車を動かせたら、それはそれで驚愕ですが」

「結局だめじゃないか」

 ふふん、とユカが鼻で笑うとあたかもそれに呼応するかのように、電車が駅でも何でもない場所でゆるやかに停車した。車掌のアナウンスが、信号機のトラブルでしばらく停車する旨を伝えてきた。不幸、引き続き好調である。

「真実はいつでも一つ、とはよく言ったものです」

「俺は何もしてない......多分」

「はいはい、そうですね」

「そ、そんな事より、お前は昼間何してたんだよ? やっぱ追われてたのか?」

「話題を逸らすのすら下手ですか。特段何もありません。みんなが追いかけているのは私ではなく主に貴方ですから。で? この動かない電車に関して貴方はどう釈明するのです?」

「分かった、俺が悪かった。それでこれからどうするんだ?」

「前にも少しお話した通り、不幸が最も高まるその日……奴らが言うところの〝審判の日〟までもうあまり日数がありません」

「その日をどうにかやり過ごせば俺達の勝ち……いつがその日なのかまだ聞いていないんだけど」

「私が聞いているのは十日後ですが、多少の前後があるそうです。だから、少し余裕をもった上で何処へ行くのか、何をするのか。それが問題です」



 東京駅の構内はせわしなく動き回る人々の群れに埋め尽くされていた。周囲全部が人で埋め尽くされているのは隠れる側からしても、探す側からしても、厄介な事に違い無かった。俺達は周囲全てが敵に見えてくるし、向こうからしたら何処にまぎれているのか、と歯噛みする思いだろう。ならば、立ち止まるよりも、臨戦態勢で動き続けた方が、まだ幾分、俺達にとってはマシだというものだ。

「あの連中が言うには不幸と幸運は互いに干渉し合い、牽制し合うそうです。実際、貴方は私と行動を共にしてからそれほど大きな不幸に見舞われていない筈です」

「今日は電車が二度も止まった」

「審判の日が近づくにつれて、不幸が強くなっているのです。私ひとりでは抑えきれないほどに。おかげさまでいい迷惑を被っているのですが」

「つまり……どういうことだ?」

「より強い幸運が必要です。貴方の不幸の暴走を抑えられるだけの容量をもった、強い幸運が何処かにあればやり過ごせます」

「俺の不幸なんか冗談になっちゃうくらいの幸運か……一応、友達にはやたらついてる奴もいるけど……アレで大丈夫かな?」

 脳裏に、テレビに向き合って複雑な必殺技コマンドをガチャガチャと入力するサチの顔が浮かんだ。少なくとも、俺が知る誰よりもついている事だけは間違いない。

「とは言うものの、不確かさが付きまとう幸運を求めるよりは、物理的に安全な場所を目指しましょう。いいですか? 私の指示に従えば、必ず、最後には笑えるようにしてあげます。私が指定する場所に素直に出向く気持ちはありますか?」

「天国とか地獄じゃなければな」

「広島です。私の生まれ育った家があります。物理的なセキュリティーも整っていますから、思いつく限りでは一番安全です」

「そんなとこまで行く旅費が無いぞ」

「お金については……嫌ですが、貸してさしあげます。いつでも下ろせる普通預金に百五十万程度ありますから、飛行機でビジネスクラスを使ってもおつりが来ます」

 雑踏をかき分け、さっさと歩きだすユカ。向かっている方角は、頭上に設置されている大きな看板ですぐに分かった。新幹線の切符売り場だ。おそらく、今すぐか、もしくは明日のなるべく早い時間の切符を抑える算段なのだろう。さっさと歩いて行ってしまうユカに、本当ならばついていかなければいけないのに、俺はなかなか足を踏み出すことが出来なかった。何度か見たことのある東京駅の光景が、行き先表示板に並ぶ幾つかの見憶えある地名が、そうさせた。

「……どうしたのです?」

「頼みがある」

 その一言と、俺の表情で、ユカは俺の言いたい事を悟ったらしい。呆れた、とでも言いたげな表情でもって俺の方に向き直り、得意の半笑いをわざとらしく作って、一言。

「決して推奨はできません。それに長い時間はかけられません、それで良いですね?」


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?