目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報
なにかいいこと、ありますように
なにかいいこと、ありますように
北原亜稀人
現実世界現代ドラマ
2025年02月23日
公開日
11.7万字
完結済
俺の不幸は、伝染する。そして、その不幸が人類を審判する!? いつもの不幸から始まる拉致騒動から物語は走り出す!

第1話


***


 今日から日記を書く事にしました。なんでも、一日にあった事をまとめておくのは、自分の心と向き合う良い方法らしいです。エイちゃんがそう教えてくれ、ノートを一つくれました。あまり馴れません。

 家では無い場所で起居しなければいけない、というのは嫌ですね。


***


 突然だが、俺は不幸だ。それは、少なくとも俺の身近に存在する人々にとっては、一種の定説のようになっている。本当だったら反論すべきところなのかもしれないけれど、残念な事に自覚も有るんだから、いくらかは認めざるを得ない。そう、確かに俺は不幸だ。――幾つか例を示そう。

 パンクを始めとしたトラブルから始まって、修理、盗難、買い替えをローテーションする自転車は、まず頭に思い浮かぶ好例だ。これまでに何度買い直したかは思い出したくない。最近じゃ両親も買い替えに協力してくれなくなった。そろそろ、近所にあるディスカウントストアの自転車売り場のおっちゃんに顔を覚えられているかもしれない。

 次に、風邪。特効薬の無い厄介なライノウイルス氏は随分俺の事がお気に入りらしく、ここぞというタイミングを見計らって、御約束のようにやってくる。例えば高校受験の三日前。或いは学校の野外教室当日。これもあまり思い出したくはない。なるべくやられないように気をつけているつもりなんだけど、それでも奴らはやって来るのだ。

 他にも、ちょっと車を避けようものなら道の端で何かを踏むのは仕様で、限定品の行列なんかに並べば、買えなかったグループの中で最初の一人なのは必然。駅の公衆トイレにきちんとトイレットペーパーが備え付けられていたら、その日一日幸運を噛みしめるだろうし、何かの抽選にでも当選した日には、俺はショック死してしまうだろう。幸いな事に今まで一度たりともそんな事は起きていないから、まだ生きている。

 しかも、だ。どんな突然変異なのか知らないけれど、俺の不幸は他人に伝染するという厄介な特性を持っている。

転びかけた俺に巻き込まれて一緒に転倒した奴は数え切れないし、俺の事が好きで仕方がないらしい風邪と総称される各種病原菌等の次なる居住地に選ばれた奴も無数にいる。誰かと一緒に街へ遊びに出れば俺とセットでかつあげ被害、なんてのも一度や二度ではない。あまりにその回数が多くて、俺が裏で手引きしているんじゃないかと容疑がかかったくらいだ。

 一つ、最悪のエピソードがある。六年前、俺がまだ十歳の頃の事だ。

 その時、俺はとある漫画家のサイン会行列に並んでいた。俺にしては珍しく出足好調、俺の後ろにも長い列だった。サインを貰うために買わなければいけない単行本もちゃんと買えた。問題無い。最高だ。今日の俺って調子いい。そう思った矢先の事だった。

 俺の番まで、あと一人。俺は緊張していて、興奮していた。不意に聞こえてきたうめき声。苦しさに、悶え苦しむ声。列を強引にかき分けて突進してきた何人かの大人。つい数分前まで楽しげな表情を浮かべながらサインを続けていた漫画家が、机に突っ伏して呻いていた。

 急な心筋梗塞だったという話は後日、その漫画家が連載をしていた雑誌で知った。その漫画家は暫く休載する旨が併せて記載されていた。その後復活したかどうかは不明。俺がその雑誌を買わなくなってしまったからだ。けれど、書店でもその漫画家の本をあまり見かけなくなったから、復活は果たせなかったの可能性が高いと見るべきだろう。もう、名前もろくに覚えていない漫画家。未来が塗りつぶされてどうたら、と妙に重苦しいテーマの漫画だった気がするけれど、それでも当時は妙に気に入って、単行本まで買い揃えて読んでいた。今では全て捨ててしまったが。

 目の前で痛みに苦しむ人なんて見たくなかった。当たり前だけどサインももらえなかった。俺はその時、悟ったのだ。俺は不幸だ。しかも、それを周囲にまき散らしている。

 以上、これまでの俺。そして多分、これからの俺。定説と呼べるレベルでついていない俺。いくらか思い詰めないでもない、不幸一色の日々。

 ひどい風邪にうなされながらやり過ごした中学の卒業式。卒業証書を受け取る檀上で転倒して、捻挫だなんていう馬鹿げた記念品を受け取った事もくだらない思い出になりつつある今は、高校一年生、夏休み直前。環境の変化で少しはマシになるかと思えた不幸っぷりは、期待を裏切らない勢いで順調にエスカレートしている。

 不幸を呼ぶ男である事が早々に露見したせいで、クラスで俺は〝いないもの〟として扱われている。周りに合わせるつもりで少しだけ茶髪にしたのが随分気にくわなかったらしく、生活指導教師から一発で目をつけられた。周りにはもっと好き勝手な奴が沢山いるのにどうして俺だけなのか、と当然抗議したし、呼び出しを無視してみた事だってある。余計に目をつけられた。もしかしたら、一学期間の放送呼び出しランキング一位かもしれないってくらいだ。

 目前には期末試験。体内でお馴染の風邪が跳梁跋扈しているのが分かる。多分、明日には高熱が出るのだろう。今日も、言い掛かりでしかない理由で呼び出しを食らった。クラスのくだらない連中に、〝お前の事本当に嫌いだから学校に来ないでくれよ〟なんて言われた。無視していたら、数人に取り囲まれて散々にやられた。あんまりだ。俺が何をした。

 こんな日、俺は、俺の持つ唯一の逃げ場へと避難することにしている。正に、不幸中の幸いだ。もしこの逃げ場が無かったら、冗談抜きで失踪くらいしているかもしれない。自殺は......流石にその勇気がない。

 家から自転車で十分、かれこれ十年世話になっている我が逃げ場。本気で泣きたくなるから、お前まで面倒くさそうな顔しないでくれ。



「で……期末試験三日前、やや風邪気味の体調を押してまで家に来た、と……」

「世界一不幸な少年の話をぜひ披露してやろうと思って。と言うか聞いてくれ。誰かに聞いてもらわんとおかしくなりそうだ」

「五体満足な時点であんたの不幸なんか全然大したことないし。そもそも半分以上は自損事故だからな。あと自分で自分の事を少年とか言うな、キモイ。なんで学校に友達作らないかな?」

「俺が学校でどんな目に遭ってるか知ってるくせに……」

「まあ……聞いてやるくらいならいいけどね……長くはダメだよ。学校は違ってもこっちも期末前なんだから」

 幼馴染のコウダサチ。俺の日常的不平不満の最終処分場。すっきりはっきりとした見た目に性格、大きな目と、細身の体型でどちらかと言えば少年、と呼ばれた方がしっくりとくる見た目。一般論として需要はかなりあると思うのだけれど本人は今のところ興味なし、らしく化粧っ気もなく連日のゲームセンター通い。しかも、それを隠そうとすらせず自慢したりするあたり、なるほどなあ……な感じだ。

これは俺の勝手な意見だけれど、こいつは男として生まれてくるべきだった。そうすれば、ゲームセンター通いを周囲から白い目で見られる事もなくなるだろうし、俺としてももう一段階関わりやすい。

「どうして女に生まれてきたんだ、お前」

「いきなりやけに挑戦的なセリフだけど、あんた何しに家に来たのか思い返す必要があるんじゃないのかな?」

「いや、最近これまで以上に酷いんだって」

「だったらあたしに喧嘩売ってないでさっさと話せ」

「どこから話したものやら……」

「どこから話そうがどうせ不幸だから」

「あんまり的確な事言わんでくれ。へこむから……」

毎度お馴染みとも言える、自転車が手元から消えるまでのスキームが今週、半年ぶりの発生。また貯金が目減りした。重ねて、生活指導室への呼び出し複数回。学食で並んでたら俺の一人前で期間限定の鶏白湯ラーメンが売り切れた。抜き打ちの数学テストと、そのスコアを原因とする別室呼び出し、補講。勿論、今日のクラスメイトとの諍いについてもカウント済みだ。

「待て待て……その他の部分はともかくテストは確実に自業自得だろうが」

「抜き打ちだし苦手なところしか出ないし」

「数学全部まとめて苦手だろうが......」

「しかもそんな事ばっかりのストレスでにきびが増えるし」

「ケアしなさいよ」

「いつまで経っても生活指導室の呼び出しは止まらないし」

「髪を黒に戻して出直してきな」

「……ひどいな……」

「どこがよ。やっぱり殆ど自業自得じゃない。同情出来るの自転車盗まれた部分くらいなんだけど。ラーメンとかどうでもよすぎるし、クラスで上手くいかないのは......どうせあんた、分かってもらえないとかで黙り込んでいるんでしょ?」

「これまでだったらさ、あんまりにも酷い事があった後にはちょっと良い事があったりもしたんだけど、ここ最近はそういうのも皆無で、なんと言うか、不幸にブーストがかかってるみたいなんだよな」

「気の持ち方だって。あんたの場合は特にそう。不幸だの何だのと。そんなん気のせい。敢えて断言する」

「お前はついてるからな……あんま分からないだろうけど結構きついんだぜ、毎回毎回だと」

「まあ、あたしは日ごろの行いも良いし、多少の贔屓を受ける権利を有するんじゃないかな」

 サチは〝少し〟とは到底表現できない程度には幸運、強運、豪運である。中学時代の何人もの共通の友人全員が共有している見解で、これは”説”を超えて事実として認定して良い。

まず懸賞にやたらと当たる。生活可能なレベルで望んだ賞品を引き当てる。一等の温泉旅行は興味がないから、と二等のストーブを希望して応募すればしっかりと狙い撃ちで引き当てる。試験でヤマを張ればピンポイントにそこが出る。電車が遅延していても彼女が駅に行くタイミングでちょうどよく遅れていた電車がやってきて、回復運転に努める電車の頑張りもあってむしろ普段よりも若干早く目的地に到着したりする。それに何より、俺の不幸に巻きこまれない。サチだけは、転びかけた俺のひじ打ちを食らったこともなければ、ひどいタイミングでやってくる俺の風邪の影響を受けることもない。かつあげ被害の巻き添えもゼロだ。むしろ、サチといればかつあげが来ないというのが常であったから、中学生時代後半にはサチとしか街には遊びに行かなくなった。間が良いし、運も良い。世の中が不公平に形作られていることを俺がしっかりと認識する事が出来たのも、サチのおかげと言うか、せい、と言うか。

「上手くいかない、どうせついてないって考えてるところがあんたの現状を招いてるのは明らかなわけ。上手くいくって信じられるようになればそうそう酷い目に遭わないもんだよ、きっとさ......それにあんたは......いや、これは言うまい、手、だしな」

「なんだよ」

「自称不幸な少年よ、これを授ける」

 そう言って、サチが渡してきたのはあまり飾り気の無い、黒革のストラップだった。根本に小さな白い石が二つ連なって飾られていて、レザー部分には白いステッチが施されている。

「あたしが前にちょっとだけ使ってた奴。あんたの不幸パワーを私の幸運が中和してくれるであろうぞ」

 やけに偉そうな口調でそんな事を言い、手を出せと言っておきながらサチはストラップを俺の方へ放り投げてきた。

「適当に使ってくれればいいけど、失くすなよ?」

 そう言うとサチは特に俺の返事を待つことも無く、おもむろにゲーム機のスイッチをON。中学二年生の時に雑誌の懸賞で当てた三十七型プラズマテレビに、見慣れたロゴマークが浮かび、聞き馴染みのあるBGMが部屋を覆った。

「コンピューターよりはあんたのほうがなんぼかマシでしょ。話聞いてやった代価として練習台になってよ」

「マジか……」

「新しいコンボ幾つか考えたんだけど、対人で決められないと意味ないし、修練あるのみ! 試験は……まあ何とかするし、あたしは」

 趣味の域を超えた病的ゲーマーであるサチはゲームセンターでは〝通り魔〟と呼ばれているとかいないとか。とにかく負ける事が嫌いで、興味をもったゲームがリリースされるとしばらくはあまり人のいない小さなゲームセンターで修練を積み、力量がついてくると乱入対戦が活発な大きなゲームセンターに移動する。家庭用ゲーム機に移植されれば即座に購入して、練習、練習、また練習。フレーム単位でこだわり抜いた凶悪なコンボを次々に編み出しては実戦投入して対戦相手を情け容赦の無いレベルで叩きのめし、相手が怒って台を殴ったりしようものなら大喜び。俺も何度となく、連勝記録を面白いように伸ばしていくサチを目撃している。挑んでは負けて帰っていく他プレイヤーの皆さんに申し訳ないくらいだった。サチ本人に言わせれば、そんな申し訳なさなんか感じる方がどうかしているらしいが。

「まあ、天才と凡人の差という奴だよ」

 何でも、歴史を作る側か踊らされる側かの違いらしい。とんでもない暴言だ。

「うわ……俺まだほとんどなんもしてないのにボコボコに負けてるし」

「ん~ちょっと成功率低いなあやっぱり。これさ、最後のタイミングが入力受付一フレームの目押しでさ、シビアなんだよね。しくじると確反だし」

「いや、反撃する暇もないんですが。あと、その変な用語分からねえって」

「全国の壁は厚いのだよ、分かるかね?」

 分かりたくもないのに勝手にサチが喧伝してきたところによると、夏休みに全国大会があって、そのためには地元ならば敵無し、と威張れる程度の技術は最低限身につけておかなければいけないらしい。

「わざわざ不幸自慢に来るってことはつまりあんた暇って事だもんね。今日はとことん動く練習台よろしく」

「いや、期末前で風邪気味で……」

「期末前だけど風邪気味だし、もう試験は捨てて遊ぼうって? 付き合うって。感謝しなさいな」

「…………」

 何だかんだと夜十時過ぎまで捕まった。まあこれはそう珍しいことじゃないから不幸だなんて呼んだりしないけれど、ようやく解放されて自転車に乗ったら、サチの家から僅か二十メートル弱で何かを踏んでまたしてもパンク。俺はやっぱり不幸だ。不幸まっしぐらだ。駄目押しに、家まで残り五十メートルのところで変な奴に絡まれた。

昔話なんかに出てきそうな、何のデザインも施されていない真っ黒のフード付きパーカに黒いジャージパンツに身を包んだ胡散臭い男。薄暗い、街灯の少ない住宅街の中腹、フードを目深にかぶっていて表情をまるで窺えない男。不審人物であることは間違いないし、関わりたくない。自転車を押しながら〝なんだあいつ〟なんて思っていたら、いきなり、よお、となれなれしく声をかけられた。俺はつい自分の財布の中身を想起。大丈夫、今日はそんなに入っていない。

「相変わらず〝細い〟ね」

確かに自身の体型は瘠せ型から普通体型の中間程度だけれど、いきなり道端で何の話だ。

「もうすぐ始まるよ」

「誰です? 知り合いじゃないと思うんだけど、誰かと間違えてるとか……」

「そのうちに分かるよ。何かが始まったり終わったり......大体がそんなものさ」

そこまで喋ると、男は身を翻して歩いて行ってしまった。かつあげで無かった事は幸いだけれど、意味不明過ぎる。運命? 世界で一番嫌いな言葉だ。

 ようやく帰宅して、熱を測ったら三十八度五分。熱さましの薬を飲んでベッドにもぐりこんだ。蒸し暑い季節なのに小刻みな震えが止まらない。目を閉じるとすぐに眠気。転げ落ちてしまう前に毎晩の日課、誰にともなくの祈り。

〝何か良いこと、ありますように。明日は良いこと、ありますように〟

 ちなみに、今まで叶った事はない。ないと思う。気が付かないうちに叶っていたとしても認めない。だって、俺はこんなにも不幸なのだから。



 学校へは、駅まで徒歩なら二十五分、電車で十五分、そこからまた歩いて十分。そう遠くもない距離だけれど、どうやら本格的に風邪をひいたらしい。行き倒れるかと思った。

 到着したら、まっすぐに自分の席に座る。誰とも挨拶は交わさない。交わす相手がいないと言うべきかも知れないけれど、教室に入った瞬間に舌打ちが響き、憎悪をはらんだ目線が幾つも飛んでくるような場所だ。関わりあう価値のある人間はこの場にいない。

 たった三年間。俺は我慢して通り過ぎて行くつもりだ。こんな場所には思い出なんかつくらない。何も覚えておく必要は無いし、くだらない連中に記憶しておいて欲しいなんて思わない。いっそ、俺も含めてどいつもこいつも消滅しちまえばいいのに。原子分解でも、蒸発でも融解でも、なんでもいい。何もかもみんな消えうせちまえ。朦朧とする意識がどんどん俺を黒い思考へと引きずり込んでいく。

『一年D組のオオヌキ君、一時限目終了後に生活指導室に来なさい』

 校内放送が俺の名前を告げていた気がするけれど多分気のせいだ。今朝はまだ生活指導の教師の顔も見ていないのだから呼び出される理由もないわけで、呼ばれるとしたら、嫌がらせか八つ当たりか冤罪か……要するに、まともじゃない理由だ。

 放送が流れたその直後、わざとらしく俺にも聞こえるボリュームで人を馬鹿にするようなクラスメイトに囲まれているこの環境下、呼び出しを無視するのは実質的に不可能だ。誰かしらがバカバカしい正義感や俺への嫌悪感を燃え上がらせて〝なんで行かねえんだよ〟なんてなるのが容易に想像出来る。ああもう本当に、俺が何をしたって言うんですかねっと。

 机に突っ伏しつつ、横目で窓の外を見た。良く晴れた夏の朝。ギラギラとした光が学校中に降り注いでいる。青い空には雲も殆どなし。全部が全部、牢獄の鉄格子みたいだ。閉じ込められている俺。鍵が開かないどころの話じゃない。どこが、そもそも扉なのだろう。

ようやく鳴った一時限目開始前の予鈴が、救済の音色に聞こえた。少なくとも授業中はクラスの一員として扱われる。ネガティブ極まりない思考もとりあえずストップ。教師から放り投げられる授業内容を受け取っているフリをしているだけで小一時間が通り過ぎていく。座っているだけだからそうそう変な不幸もやってこない。せいぜい、やたら指名されるくらいだ。分かる問題は答えるし、分からない問題は答えない、それだけの事。

机から体を起こしたらえげつない眩暈。俺の甘さを嘲笑するかのようにやってきた。気にしない。いっそぶっ倒れたら、いくらか物事も変わるかもしれないのだ。つまり、俺からしたらそれだって、そんなには悪くない。



***


 この場所に来て、五日経ちました。食事が不味いです。父や母はどうしているのでしょう。この場所は心の安らぐ環境ではありません。ベッドも硬いし、紅茶も無いです。

 そんな場所だから、眠りなんか中々やってきません。夜が長くてつらいです。隣の部屋から、エイちゃんと他数人の話声が聞こえます。エイちゃん、ここでは随分人気者みたいです。私の知っているエイちゃんじゃないみたい。まあ、ここで再会するまで、ざっと十年の空白がありますから当たり前かもしれません。向こうも、私に違和感を覚えているでしょうし。多分、時間ってそういうものです。


***


「……失礼します」

 望んで失礼するわけじゃねえや、と心の中で毒づきながら生活指導室へ入室。何回来ようとも心安らぐ場所にはなりそうもない。緊張感と苛立ちと諦めと落胆と失望と……とにかく色々。

広さは大体教室の半分くらいで、会議室とかでよくある長い机が縦に一台。普段は手前側と奥側に椅子が一個ずつあって、手前に俺のような被害者が、奥にその学年ごとの生活指導教師が座る。要するに取調室だ。どうして風紀違反行為に及んだのか、今後それを正す気持ちはあるのか、なんて事を聞かれる。もっとも、俺の場合、まともに呼び出されたのは茶髪の時一回だけくらいのもので、残りの呼び出しはその全てが言いがかりに過ぎないものだった。

校舎の裏側、立ち入り禁止の場所でたばこの吸い殻が見つかったけれどお前だろう、だとか、普段風紀違反なんかしない生徒がピアッサーをカバンに入れていて没収したけれどお前の手引きか、だとか。生活指導教師は俺の事をよほど気に入らないらしい。そんな状況で俺が素直に反省の心を持つわけもなく、当然俺も反抗的な態度になる。サチに言わせるとそれは相手の思うつぼらしいけれど、例え演技でだって従順を決め込むつもりはない。

「来たか。いつものように座りたまえ。馴れたものだろう?」

 一年生の生活指導担当教師は、桶田という生物教師。その必要もないのにいつでも白衣を着ている見苦しい男だ。中肉中背が年月の経過で劣化したような風貌で、その上でその劣化を本人は認めていないらしく所作の端々にどこか芝居がかった雰囲気を感じさせる。その上、選民思想とでも言うべきか、公平性とはほど遠い乱暴さを内在していて性格は極めて悪い方向に歪んでいる......嫌いな奴の悪口は並べるだけで少し楽しい。なお、年齢は今年四十になるそうだ。その年でこんな事をしていて恥ずかしくないんですか? と一度言ってみたら激怒していたから、それなりに気にするところはあるらしい。

「二度と拝みたくない面だな、といつも思っています」

「別に問題ない。それを直接僕に言わない限りはね。教師に対する暴言は褒められた行為でないと何度注意させるのかな?」

「くだらない言いがかりで呼ばないでくれ、と何度クレームをつけさせるんですかね。そろそろ本気で訴えますよ」

「ふむ……顔色があまり良くない」

「風邪をひいています」

「僕は君らと違って徹底した自己管理を行っているし常に清潔を心がけているからね。それに、精神の適度な緊張を失わないよう意識もしている。そう簡単に蝕まれはしない。君のような人間は自己の欲求を容易に行動に移すし、それを愚かであると知りつつ改める事をしない」

「で、今日はどんな戯言を理由にお招きくださったんですか?」

「そのふざけた口のきき方は直すように。これは警告だ」

「誰のせいでこうなったと? こっちがあんたの事どんだけ嫌ってると思ってるんですか? 風邪で朦朧とした勢いで殴りかかりましょうか? 別に罪に問われても構いませんよ俺は。ちょうどいいところにパイプ椅子もありますからね。椅子を片付けようとしてうっかり手がすべって過失致死が一番望ましいんですが?」

「……いささか僕の方針に誤りがあった事は認めよう」

 いつもだったらこの辺で言いがかりだったりつまらない注意を無理やりに言い渡されて、〝次は実際的な処分をするかもしれないからね〟なんて言われて終わる。今日はなんだか様子が違った。何かがおかしい。

「本来であれば、もう少しだけ友好的であるべきだったのだ。つい僕も君のような生意気な学生を見ていると色々と言いたい事が出てきてしまってね……もともと僕はあまり誰かと友好関係を築く事が得意では無いのだ。今更言ったところで仕方の無い事だとは思うが……」

「要領を得ないとうざったさが増すだけですね」

「まあそう言うな。今から僕が君に言おうとしている事はこれまでのつまらない呼び出しとは一線を画す、重要な事だ。僕や君の人生がこれまでとはまるで違うモノになる可能性すら持つ、冗談では済まない内容なのだ。僕への敵愾心を鎮めてくれとまでは言わないが、出来るだけフラットな気持ちで聞いてくれると助かるんだが」

 そう言うと桶田は、指導室の奥側に設置されている教師用の椅子から立ち上がり、窓に取り付けられている飾り気のないカーテンを閉めた。何らか、精神的効果でもあるのだろうか。濃縮されたかのような重い空気が辺りを取り囲んで、そのせいなのか、つい俺は首を縦に振ってしまった。

「では、まず改めてこれまでの君への振る舞いについて心から謝罪しよう。全ては理由あっての事、とは言え君が不愉快を感じたのは僕の失策が多分にあったのだ。申し訳無い」

「……理由って何すか」

「おいおい説明はする。それよりも、君は〝自分が人よりも不幸だ〟と感じることは無いかな?」

 毎日のように思っています、とは言えなかった。俺が各所で酷い目にあったりするのをこいつが知り得ているとは思えないし、学校で誰かに〝俺っていつもついてないんだ〟なんて事を話した事もない。そもそも話せるような相手がいない。

「どうだ? 人よりついていない自分。その自覚はあるのかと聞いている」

「あるとしたらどうなんです?」

「間の悪い風邪のひき方、自転車のパンク、窃盗被害が複数回……教室でも孤立していて、窮状を訴えられる相手は幼馴染だけ。僕からの呼び出しも君の中ではカウントされていそうだが……この状態だけを考えればいささか君の行動不足や注意不足も見て取れる。まあ、そういう性格に生まれついたのがそもそもの始まりであるとも言えるか。生まれ方を選べた生物はいまだかつてこの世界に存在した事は無いのだからね」

「なんだよそれ……なんでそんな事知ってるんだよ? ストーカーか? 本気で気持ち悪い」

「調べさせてもらったよ。一応の確認にね。君が本当に、我々の必要としている人材なのかどうか」

「何言ってんだか……」

「さっぱり分からなくて当然。僕は今、君の知り得ない内容について語ろうとしている」

 割と聞き慣れた、堅苦しくて理屈っぽい声や口調は、俺を問い詰める時と同じだ。喋っている内容はいつもの八割増しくらいで理解不能だが。何を始めようとしているのかさっぱりだ。何を言ってやろうかと頭を巡らせていたら、丁度よく二時限目開始のチャイムが鳴った。

「授業の時間です」

「君は今日、一時限目で体調不良をこらえきれず早退した。職員室まで向かえる状態では無かったので呼び出したついでに僕が対応した。何か問題は?」

「期末試験前に教師が生徒の学業を妨害するとか正気とは思えないんですけど」

「君の小テストや中間試験のスコアからすれば一日や二日学校を休んでも何かが変わるとは思えない」

「…………」

「素直で結構。普段からそうだと扱いやすくていいんだがな」

「何を話す気なんすか?」

「そう難しい話ではないさ。少し長くはなるがね」

「いい加減にしてください。具合悪いんで。帰っていいならそうしたいんだけど」

「仕方が無い。ならば先に結論を……〝選ばれた〟事を誇りに思うがいい。天文学的、とまではいかないが、年末の宝くじで一等を引き当てるよりも低い確率の元、君は不幸に選ばれたのだ。世界を試す〝審判〟の一人として」

「何処のゲームの話だっつの……」

「君から始まる不幸が世界を審判する……しかしこれは不幸ではない。素晴らしい幸運だ。君は、他の誰もが羨むような、他人とは違う運命を背負って生まれてきたのだから」

 まったくもって理解不能、いや、理解出来る奴がいるとしたらそいつはちょっと真面目に現実を見据えた方が良いような奴だろう。俺が不幸なのが運命とか、俺にとっては暴言以外の何物でもない。

「喜びのあまり声も出ないかな?」

「……呆れて言葉を見失っているだけです」

「君の言いたい事は良く分かる。世界中には君よりもはるかに不幸な目に遭っている人々が大勢いる。生まれながらにしてどうする事も出来ないような窮状なんて、それこそ数えきれないからね。君は少なくとも五体満足だし、食う事には今のところ困っていない。それを選ばれた不幸、のように言われる事に君は疑問を隠せないだろう」

「いや、だから」

「黙って聞きたまえ。今大切な話をしているのだ……たとえ、生まれに不幸があるとしても、それを立て直すだけの運の幅を持っている人間は大勢いる。いや、むしろ殆どがそうだろう。実際にそれを生かせるかどうかは周囲の環境次第やそれによって形成されるその人物の人格や価値判断基準なのだ。選択を誤れば揺り戻しがやって来る前に死んでしまうこともあるだろう。だが、君は違う。君は、そう、根本的に異なるんだ。君はそもそも、自らの運命に立ち向かえるだけの運の幅を持っていない。何をしようとも、その全ては不幸側に引き寄せられ、君を不幸にし続ける……まあ、僕も人から聞いた内容を喋っているだけだが、おそらくそこに間違いはあるまい。納得したかね?」

「するわけねえだろ、どう考えても」

 確かに、これまで呼び出しに文句をつけた時にもくどくどと意味不明な呼び出し理由を説明されたことはあったけれど、ここまで酷いことは一度もなかった。一体、何に毒されたらここまで様子のおかしい人間が出来上がるのやら、逆にちょっと興味を持つ。ビョーキだ、こんなの。

「君が何を言おうとも、君は運命を覆すことは出来ない。我々はこれから世界を審判にかける。君はその扉を開く鍵となる。扉が開いたその時、世界は、大いなる冬に閉ざされるのだ。大いなる冬の世界では……」

もはや何だか分らない桶田の話の腰を折ったのは、不意に響いたノック音だった。きっと神様だか仏様だかが、あまりにも哀れなこの俺に救いの手を差し伸べてくれたりしたに違いない、と半ば本気で思った。まあ実際のところ、そんな気持ちはすぐにへし折られたわけだが。

「桶田君……わざわざこんなくだらない事しないでも問答無用で良いんだけど。本当にモノ好きと言うか……迷惑なんだよね。鍵君もそう思うでしょ?」

「まあそう言うな。世の中の様々な物事にはそれに相応しい流れが存在するのだ。それが意識的行動、無意識的行動に関わらずね。例えば食べ物を胃袋に収めるまでだって、口腔内に食べ物を入れ、意識的な咀嚼と嚥下の後、それは無意識的行動によって食道を通り……」

「......死ぬか?」

「気をつけよう」

「よろしい。全く、手間がかかるんだから」

 部屋の中に入ってきたのは、スーツ姿の女だった。見るからにさらさらしていそうな長い黒髪のストレート、丁寧に作りこまれた人形のような顔立ちには精巧なバランス感覚によって施されたメイク。スカートからスラリと伸びる足がいかにも大人の人、といった印象を放っていた。シトラス系の爽やかな香りが、風邪で詰まり気味の鼻の奥をくすぐった。

「やっと会えたね、鍵君。君をあたし達の目的のために拘束するから、宜しく。抵抗は無意味だし、痛いのは嫌いだよね?」

 喜びがつかの間過ぎる上に色々がっかりだ。抵抗は無意味とか言われたって無抵抗のままでいるわけにもいかないのは明らかだし、この状況で〝はい、そうですか〟と付いていくのは、ただの馬鹿だ。俺は不幸だけれど、馬鹿ではない……多分。

「貴方は一体誰なんです? 俺を拘束するとか意味分からないんですけど?」

「問答無用、ね」

突き付けられたのは、拳銃的な形をした何かだった。本物であるわけがない。暴力団の存在は別として、表面上はとりあえず平和な日本の、しかも、何処にでもあるような私立高校で白昼堂々拳銃なんか振り回されるわけがないのだ。だけど、モデルガンならまだしも、エアガンだったらやっぱり危なっかしい。痛い事には変わりないわけだし、噂に聞くところによると、殺傷能力と表現すべき威力を持つエアガンも普通に存在するらしいし。

「君に与えられた選択肢は二つ。この銃を偽物だと判断してあたしに歯向かうか、万が一の可能性を考慮、大事をとってこの場では素直に言うことを聞くか……長生きしたいなら後者をお勧めかな。拘束するって言ったって、別に殺すつもりは無いからね」

 スーツ女が一歩近づいてきた。その距離大体二メートル。更にもう一歩。一メートルを切った。

「拘束が目的である以上、この場で殺されたりする事は無い。君がそこまで判断して回答を避けているんだとしたら、それは危険な判断。死ななくても、怖い事や痛い事は世の中にはたくさんあるからね」

「教師としての立場から僕も警告しよう。大人の指示には従いなさい。それが正しき道を進むための唯一の……」

「だから話が長いって言ってるんだけど?」

 仲間割れ……と言っていいのかどうかよく分からないけれど、とにかく、つきつけられていた銃口は俺から外れ桶田を向いた。直ちにハングアップした桶田のリアクションを見る限り、少なくとも生半可な玩具では無いらしい。

俺は咄嗟に立ち上がって指導室の扉に手をかけた。リモコンで鍵をかけられるようなハイテク指導室ではない事はよく分かっているのだ。とても自然に扉は開いた。廊下に飛び出した。とにかく逃げて、まともな大人に助けてもらうしかない。いくら白けきった大人の代表格のような教師連中であっても校内に凶器を持っている女が入りこんでいる事を知れば対応せざるを得ないはずだ。

左右を見渡して、右を選ぶ。若干だけど階段が近い。背後から、何を言っているのかよく分からないスーツ女の声と、謝る桶田の声。無視して駆け出した。職員室は一階にあってここは二階。そう遠くない距離。これだけのアドバンテージがあればいくら風邪気味な俺でも何とか逃げ切れるはず……なんて思ったその数秒後、誰がポイ捨てしやがったのか、コンビニのビニール袋の上に乗り上げて転倒......あんまりだ。

「ふう……さすが、魅入られているだけの事あるよねえ……鍵君、あんまり舐めた事してくれるんじゃねえぞ?」

 再び突き付けられた銃口。スーツ女のはじける笑顔と、放り投げられた脅し文句。空気の抜けるような音が聞こえ、その直後、何か固い物がぶつかってきたような、鈍い衝撃を感じた。

「んじゃとりあえずこれにて作戦終了ってことで、鍵君、おやすみ」

 声が頭上を通り過ぎていくのと、意識の遠ざかりを自覚したのとどっちが早かっただろう。身体が殆ど動かせなかった。だんだん頭が働かなくなってきた。これはそう、つまりあれだ、シャレにならない事態だ。恐怖感ももちろんあったがそれ以上に混乱が激しかった。何が、どうすればこうなるのだろう。昨日の黒パーカ男と何か関係が......無いと言うことはないだろう。混乱は不審者黒パーカ男から始まり、右往左往した後に真っ暗に塗りつぶされたような谷底へ。それはつまり、深く暗い、人工物の眠り。音も感触も全てが俺から遠ざけられていく。訪れた眠りはとても静かで暴力的だった。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?