翌日、リュウトは一人エレベーターで地下教室へと向かっていた。
また何かレンに言われるのでは――そう思うと昨日の少女と悪魔の事など頭の片隅に追いやられ、足取りが重くなる。
「はぁ……」
昨日よりも重たく感じるスライド式の扉を開けると、自然と窓際の席に視線が向く。レンは自らの机の上に座り、その周りに数人の男の子がたむろしていた。
レン達はリュウトが来るなりニヤニヤと怪しい笑みを浮かべる。その雰囲気はイタズラを企む子供の様だった。
「おはよう……ん?」
リュウトはレン達と目が合い小さく挨拶を交わす。そのまま自分が使っていた机に視線を向けた瞬間、リュウトの体は歩みを止めて硬直する。
「これ、は……」
「よう、お前の机殺風景だったからよ、綺麗にアートしてやったぜ」
リュウトが目にした物は、黒いペンでぐちゃぐちゃに落書きされた自分の机だった。下手な絵や解析不明な程適当に塗り潰された文字。
リュウトは小さく口を開いたまま机を見つめる。
「……」
「これで楽しく勉強出来るだろ?」
自慢げに嘲笑うレン達。他の生徒は静かに俯いている。恐らくレンに逆らえないから見て見ぬふりをしたのだろう。
そんな光景を見て、リュウトはゆっくりと右の拳を握り締める。
「どうした?嬉しくて声もでな――」
その刹那、机を掻き分けるようにしてレンに接近し、右の拳をレンに振りかざした。
レンは机の上から吹っ飛び空が映された映像にヒビを入れてぶつかる。映像が乱れ、その部分の画面だけ真っ黒になった。
「いい加減にしろよ……おれが、おれが何したってんだ!」
弱々しかったリュウトがついに怒りを露わにした瞬間だった。殴った拳を震わせ、咳き込みそうな程に怒号を上げる。
昨日とは真逆の姿に、他の生徒も困惑で固まっていた。
「いいの持ってんな……でもこんなんじゃ……」
レンは口から流れる鮮血を拭うと、まるで獣の様にリュウトを見つめる。
ゆっくりと立ち上がり、一気に詰め寄り拳を振り下ろすと、リュウトは教室の入口まで吹っ飛ぶ。
「まだまだなんだよ……」
「クソ……このやろ――」
リュウトがやり返そうとしたその時、突然背後の教室の扉が開く。振り返ると、入り口に一人の少年が立っていた。
肩を少し超えた髪を後ろで結っており、厳格な目付きで足元のリュウトと臨戦態勢のレンを交互に見る。
「こっちの教室まで響いてきてうるさいんだが、喧嘩するなら他所でやってくれないか?」
少年は足元にいるリュウト等気にもせず、冷徹な瞳でレンを睨む。レンはその少年に睨み返しながら低い声で名前を呼ぶ。
「ルイ、てめぇ……」
ルイと呼ばれた少年は、暴れる獣の様なレンをジッと見つめながら鼻で笑う。
「フッ、なんだその態度は。僕はあくまで被害者だぞ?」
「うるせぇ!こっちの問題に首突っ込むな!」
距離を詰めれば殴り合いが始まる。二人がそんな雰囲気を醸し出していると、ルイの最後から低い声が聞こえた。
「騒がしい上に見に行ったルイが帰ってこないと思っていたら……マナ先生はどうしたんだ?」
高級そうな金縁の丸メガネにルイと同じく長い髪を後ろで結んでいる。厳格を通り過ぎて冷徹な視線でレンと睨み合う。
そして何より
「まだ来ちゃいねぇよ、朝礼前だしな」
丸メガネの男は小さくため息を吐きメガネの位置を整えながら首を横に振る。
「ふむ、先生としていささか意識が欠けている様な気がするが……まぁこんなクラスだしな」
「何だと!!」
今にも掴みかかりそうなレンを取り巻きの男の子達が止めに入る。その時、廊下から駆け寄ってくる足音が聞こえて来た。
「先生!」
丸メガネの男を先生と呼び、息を切らしながら教室の中にマナが入ってくる。へたり込むリュウトに殴りかかりそうなレン。二人の頬はわずかに赤くなり腫れている。
状況を察したマナはなりふり構わず怒号を上げた。
「お前らなにやってんだ!」
「マナ先生、あなたの担当するクラスは確かに脆弱な者が集まったクラスですが、我がクラスにまで迷惑をかけるのはどうかと思いますよ」
「すみません……ほらレンも謝れ!」
マナは促すが、目を合わさず謝る気配は無い。言う事を聞いてくれと言わんばかりに睨みをきかせるが効果は無かった。
「ルイ、お前は戻って授業の準備を。マナ先生、彼は悪いと思っていない様ですがこれは教育方法が宜しくないのでは?」
「すみません、後でキツく――」
マナは振り返り、丸メガネの先生に頭を下げるも言葉すら遮られてしまった。
「そんな後付けはいりません。こちらがあくまで被害者なんですよ?」
丸メガネの先生の言葉が正しかった。マナは頭を下げたまま、着ている服の裾を握り締める。
「ではこうしましょう、久々に我がクラスと模擬戦を行いませんか?生徒間の士気を上げるには持ってこいかと」
丸メガネの先生の提案にマナは目を見開き頭を上げる。見上げたその顔はわずかに微笑んでいた。
「それだけは、やめていただけませんか……」
マナはゆっくりと膝から崩れると体勢を低くして、丸メガネの先生に土下座をする。リュウトは立ち上がると、必死なマナの姿に驚きを隠せないでいた。
「お願いします。この通りです……模擬戦だけは」
「マナ先生、あなたの土下座程度で我が生徒の勉学の邪魔を改善出来るとお思いですか?」
「……すみませんでした」
ただひたすらに謝り続けるマナ。いつもの威勢はどうしたと思いながら、リュウトはその姿にどことなく昨日の弱々しい自分を重ねていた。
「謝る事しか出来ない低能の鏡ですな。かの有力な
土下座をしながら歯を噛み締めるマナ。その姿をレンとリュウトは見逃さなかった。
するとリュウトの背後からレンの声が響く。
「わかったよ、そっちと試合すればいいんだな?」
レンは土下座したマナを通り越し、丸メガネの先生の前に立つ。突き刺す様な鋭い眼光はまるで血に飢えた獣の様にも見える。
「それで良いんならやってやるよ!」
レンの言葉を聞いた瞬間、丸メガネの先生は薄く笑みを浮かべゆっくりと頷いた。
「よろしい、では二日後の昼にしましょう。楽しみにしていますよレン君」
納得したのか、丸メガネの先生は終始笑みを浮かべたまま教室を後にした。
マナは土下座から上半身だけ起き上がると、力無く座り込み俯いたまま弱々しく呟く。
「レン、お前……」
「気にすんなよ先生、おれが出りゃ良いだけだ。でも今日はもう帰る、準備もしなきゃだしな」
そう言ってレンは自分の席に戻ると荷物を纏め始める。
鞄を肩に掛け、んじゃまたな――と言いながら教室を出ようとした時だった。
入口の所でリュウトが立ち塞がる。だがその目は恐怖で揺らいでいた。
「レン、おれも模擬戦に――」
「うじうじしてる雑魚は引っ込んでろ。……死にたくなきゃな」
リュウトの目を一瞬だけ見てそう告げると、そそくさと教室を後にするレン。
結局レンがぶつかり壊れた映像窓の修理が入る為、マナのクラスは帰宅して自習になった。
その日の夕方、落書きされた机を洗う為にビルの大きめな洗い場へ来ていたマナとリュウト。
「マナ、ごめんね……」
「ん?ああ、気にしなくて大丈夫だ。変なとこ見せてすまなかったな」
沈黙が続き、机を洗うスポンジやブラシが擦れる音だけが響く。熱心に洗うマナの姿を、まるで機嫌を伺う子供の様に見つめるリュウト。
それを察してか、マナは唐突に口を開いた。
「あの先生が言ってた模擬戦はな、表では生徒の士気向上とか言われてるが実際は違うんだ」
「え?」
擦っていたスポンジを止めてマナの方に体ごと視線を向ける。油性で描かれているのか、机の落書きはなかなか薄まらないでいた。
「ただうちの生徒を練習台にしたいだけなんだ。武器も木製が決まりなのに難癖付けて真剣を使ったり……そのせいで怪我をして、候補生を辞めた奴もいる。明らかに勝てない試合なんだ」
「どうにかならないの?」
リュウトの問いかけにマナは首を横に振る。
「あの先生はマスター・ベインのご子息なんだ。ほら、この育成施設を作ったマスターだよ」
マスターの子供だから何をしても許される――。
マナの話しを聞いてすぐに察しがついた。リュウトは俯くように机を見ると、再び落書きを消しにかかる。
「そういう事か……」
「こんな時は一番思うよ。ユウキみたいにあたしにも力があったらなって」
そう言ったマナは見られない様に顔を逸らす。だが目元を拭う姿をリュウトは見逃さなかった。
やがて落書きは消え、教室に戻した頃には、外は夜に近い茜色をしていた。
「どうにかならないかな……」
ポツリと呟き、地面を見つめながら寮へと戻る。やがて入り口が見えた時に顔を上げると、リュウトは思わず目を見開いた。
昨日の帰りに見た、悪魔を倒していた女の子が入り口に立っていたのだ。女の子は辺りを見渡し、やがてリュウトの姿に気付くと駆け寄ってくる。
「あ!やっと来た。ここに住んでるって聞いたから待っててよかったよ」
何をされるか分からないと思ったリュウトは、身構えながら恐る恐る返した。
「あの……どちら様でしょうか」
「ああ自己紹介がまだだったね。私はアズサ。君と同じ候補生だよ。クラスは違うけどね」
「リュウトです……」
なおも構えたままのリュウトとは裏腹に、笑顔を向けながら気さくな雰囲気を出すアズサ。
「よろしくね、リュウト君」
そう言ってアズサは右手を差し出してきた。
演技や何かではなく、彼女の本心だとわかったリュウトはその手を握り返す。
「それじゃ早速なんだけど、今回の模擬試験、どうにか止めたいんだ」
握手を交わし終えると、今度は予想外の言葉に驚くリュウト。だがアズサは小さく微笑むと、自身の後ろに手を回しながらリュウトに背中を向ける。
「意外そうな顔だね。でも皆があの先生に賛成してる訳じゃないんだよ」
「そうだったんだ。でもどうして俺に話しを?」
入ったばかりで大した成績もない自分が選ばれる理由がリュウトはわからなかった。同時に相談するならレンかマナが適任だとも感じた。
そんなリュウトを気にもせずマナはその問いに口を開く。
「君が上級クラスの
マナの提案は悪いものでは無かった。
ユウキなら相談に乗ってくれるとは思うものの、同時に連絡手段が無く、別れてから一度も会っていない。リサにもかなり忙しいとだけ聞いている。
そんなユウキを呼び出す事は出来ないと思ったリュウトは、ゆっくりと頭を下げた。
「ごめん……確かに知り合いだけど、今は忙しいみたいでいないんだ」
「そっか、そうだよね……。でもよかった」
アズサは残念そうな表情を浮かべるも、すぐに安心した様にリュウトを見つめる。
「止めたいって人が一人でもいてくれたから。私のクラスもそっちのクラスも、皆怖がって動かないか、むしろ試合で相手を倒してやるって人だけだったから」
リュウトはそれを聞いて、俯き加減に首を振る。
「そもそもがおかしいんだよ……」
「え?」
言っている意味がわからないアズサは僅かに驚いた様子を見せながらリュウトを見る。
「敵は悪魔なのに、なんで仲間同士で傷つけ合わなくちゃ行けないんだ……そもそもそこが間違ってる」
「優しいんだね……君みたいな人に会えてよかった」
アズサは嬉しそうに微笑を浮かべながら、言葉の後半は呟く様に話す。
聞き取れなかったリュウトが首を傾げると、アズサは気にするなと言いたげに首を振った。
「とにかく止める方法を考えてみよう。ごめん、私急ぎの用事があるからこれで!」
「あ、ちょっと!行っちゃった。……止める方法か」
寮の前で取り残されたリュウトは、アズサの姿が見えなくなった方向を見つめながら呟く。
だが方法は結局見付からず、アズサにも会う事が出来ず、二日後の模擬戦の日が来てしまった。