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第17話  日向潤の正体

         ☆   ここまでのあらすじ   ☆


伊川一博は、次男英二を偏愛する母房江に虐待されて育った。

手がつけられない粗暴な少年に育った一博を、心の優しい英二だけが心配してくれた。


高校生になった一博は、釈光寺組組長である、実父釈光寺琢己の屋敷を訪ね、『愛し合った琢己に妻がいると知ったとき、房江は一博をお腹に宿していた。房江は、世間体を考え、伊川正雄という平凡な商社マンと結婚した』という経緯を知る。


琢己の屋敷で暮らし始めた一博は、ある晩、奥座敷で、龍と麒麟がむつみ合う姿を目撃し、自分がゲイだと自覚する。


翌夕、若頭補佐の日向潤と引き合わされるが、麒麟の入れ墨を背負った男だった。

一博は、軽い気持ちで潤を誘うが、拒絶され、激怒する。


潤は「わたしは、オヤジさんに若のことを任せられた以上、命を投げ出してでもお守りします。それだけはわかってやってください」との言葉を残して立ち去る。



大学を卒業した一博は、琢己不在時に、カチコミを決行して重傷を負う。


退院した一博は「一度だけ」という約束で、琢己と関係を持つ。


祐樹が関西の組織と手を結び、一博は罠に落ちて捕らえられるが、潤に救われる。


再び潤に拒絶され、潤の琢己への思いを再認識する。


英二が、一博をかばって刺される。



離れ座敷で琢己と再び関係を持ってしまった一博は、琢己を疎ましく思うようになる。



           ☆   本文   ☆



 オヤジという飼い主がいなくなれば、あの頑なだった潤も、オレに忠誠を誓ってくれるに違いない。

 一博は、自分が潤の支配者となるという甘美な夢想に酔った。


 実行に移すまでの我慢だ。

 目標ができたことで、鬱状態から抜け出せた。

 空手の練習や筋トレにも力が入り、体重も回復していった。


 房枝が見せた、般若のごとき憤怒に満ちた顔を夢に見ることもなくなった。


 英二のことは、最善を尽くすのみ。

 運を天に任せようという気になれた。


 だが、組長殺害の好機はなかなか到来しなかった。



 そんなある日の午後、義父伊川正雄から呼び出しの電話があった。

 声のトーンは、相変わらず、もの静かで気弱だった。


 英二の容態が急変したかと狼狽したが、そうではなく、ともかく会いたいの一点張りである。


 金の無心か。

 金は十二分に出しているのに。

 あの女が、気の弱いオヤジに、『こんなくらいじゃ足りないから、あなた、談判して来て』とでも命令したのだろう。

 金ならなんとでもしてやる。


 一博は、愛車のポルシェを自ら運転して、指定された場所に向かった。


 今日の一博は、まばゆいばかりの純白のスーツ姿だった。

 黒のカッターシャツにシルバーのネクタイ。

 純金の太いネックレスや指輪。

 腕には琢己からもらったロレックスの宝石入り時計が燦然と光を放っている。

 正雄に、自分の暮らし振りを見せ付けたいという気持ちがあった。



 そこは、東京湾に面した倉庫の林立する一角だった。

 日はまさに落ちようとしていた。

 海からの潮風が心地よい。


 Vシネマなら、こういう人気の無い倉庫でドンパチやるんだよな。

 お約束のような舞台設定に、

「これはVシネじゃない。さえない親父に会うだけじゃ、面白くもねえ」とつぶやいた。


 指定された倉庫U19は、『神龍公司』という華僑系企業の有する倉庫のひとつだった。

 入り口から、積み上げられた漢方薬のダンボール箱が見える。


 なぜ、こんなところなんだ。

 疑問がわいたが、正雄が貿易関係の商社に勤務していたことを思い出して合点がいった。


「やあ。いつもすまないね。こんなところでなんだが、ひとに聞かれたくないのでね。まあ。入って」

 出迎えた義父はいつになく饒舌だった。


 足を踏み入れた一博は、倉庫内に充満した漢方特有の臭いに思わず腕で口元を覆った。


 カツカツカツ

 正雄が、靴音を響かせながら前を歩く。

 自信に満ちた歩き方だった。


「こちらだ」

 正雄は、倉庫の奥にある無人の事務所に招き入れると、ドアを閉め、鷹揚なしぐさで、椅子に腰をかけた。


 眼鏡をはずして机の上に置き、ゆったりと微笑みかけた男は、まるで別人だった。


 一博は、正雄の発する、形容し難い威圧感に声を呑んだ。

 十五で釈光寺琢己と初めて会ったとき以来の経験だった。


 だが、琢己とは決定的に相違点があった。

 一博は、瞬時に理解した。

 この男が、義理人情を重んじる甘っちょろい琢己とは全く異質で、冷酷な人種であることを。


「一博くん。単刀直入に言おう」


「な、なんだ」


「君を助けてあげようと言っている」

 静かな口調だったが、相手をすくませる凄みがあった。


 一博には正雄の意図が判らなかった。


「Dù Yuèshēng、来なさい」

 正雄の言葉とともに、ドアノブに手をかけるかすかな音がした。


「え?」


「和名表記では『と げっしょう』だ。良い名だろう? 杜は神社のもり。げっしょうは、月に、笙の笛の笙と書く。わたしがつけた名前でね。戦前、上海のゴッド・ファーザーと呼ばれた、偉大な杜月笙の名からとった」


 月笙は何故か、ドアの前で立ち止まったまま入ってこない。


「おい。何をしている。早く入って来んか!」

 正雄は厳しい口調で急き立てた。


 一瞬の沈黙ののちドアが静かに開かれ、ためらうように入ってきたのは……。


 日向潤だった。


「潤。何でオマエが……。それに杜月笙って? オマエ……」


 一博に視線を合わさず、潤は、正雄に向かって深々と一礼した。

 ヤクザ特有の、くの字に体を曲げてする礼ではなかった。


「月笙は、日本生まれの日本育ちでね。中国なまりがないから気づかなかったのも無理はない。月笙はわたしの組織のナンバー2、副香主だ」


「親父も中国人だったのか?」


「伊川正雄も本名じゃない。香港で黒社会に入った頃の名は金廷遜で、今は単に“ミスター・K”と呼ばれている」


 伊川正雄ことミスター・Kの話はこうだった。


 母親は中国残留孤児で、雪深い黒竜江省の田舎町で養父母に育てられ、広東出身の男と結婚して南の広東省に移った。


 もともと粗暴だったKは地元で黒社会とつながりを持つようになり、香港に渡って広東系の香港マフィア『14K』の一員になった。


 一九七三年、日本で『14K』の組織が発足した際、日本語ができたミスター・Kも入国した。

 香港で殺害した日本人旅行者のパスポートで。


 既に『14K』におけるナンバー2、武闘担当の『紅棍』に出世していたが、それでは飽き足らないミスター・Kは、来日後すぐ自分の組織『神龍』を極秘裏に作り始めた。


『14K』内部を熟知する幹部の組織脱退は難しいが、ミスター・Kは十分力を蓄えた上で、有無を言わさず独立した。


「今はアメリカをはじめ、カナダ、オーストラリアと、華僑、華人の存在する世界各地に拠点を持っている。その中で、出発点となった日本がいわば心の故郷ってやつだ。ふふ。可愛い妻も子もいるしね。房枝はわたしが日本人ではないことすらいまだに気づいていない。もっともあのひとにとって関心があるのは、看護士としての、いわゆる『社会奉仕』と、あの聖人のように無垢な英二だけだがね」

 ミスター・Kの目に僅かに寂しげな光が宿った。


「神龍は、近いうちに、広東系、潮州系、大陸系、台湾系といった中国マフィアすべてを傘下に入れる。中国本土からの不法入国者を、世界各地で取り込んで、着々と勢力を蓄えてきた」


「潤。潤は……?」


「月笙は、わたしに拾われた秘蔵っ子でね。十分に仕込んで、因果を含め、釈光寺組に送り込んだ。我々でいうところの『睡棺材底』だ。優秀な人材を一流の会社や銀行に送り込んで、何年もかかって信用を得たあとで……という手法だ」


「組を乗っ取るための?」


「日本のヤクザと中国黒社会が太いパイプでつながって、大儲けをする計画だ」


「じゃ、じゃあ。オフクロと結婚したのも偶然じゃなかったのか」


「ふふ。そこが人生の面白いところでね」

 伊川正雄の仮面をかぶったミスター・Kは薄く笑いながら、突っ立ったままの一博に座るよう、かたわらの椅子を指差した。


「日本での組織固めと勢力拡大のため、有益な情報はないか、日本の裏社会について調べているうちに、たまたま釈光寺琢己という新進のヤクザに注目した」


 ミスター・Kは、プレミアム葉巻用の木製の箱から、トリニダード・フンダドレスとラベルされた葉巻を取り出した。


「で……」

 ヘッドをカッターで切り、おもむろにガスライターで火をつける。

 潤は、すぐ傍らにいたが、日本のヤクザのように、すかさず火をつけることはしなかった。


「房枝という女を知った。房枝に惚れたのは、計算づくではない」

 ミスター・Kはまだ殆ど吸っていない葉巻を灰皿に捨てた。


「血を見ることばかりの因果な商売だけに、気の強い女の尻にしかれる凡夫の真似はなかなか楽しいものだよ」

 ミスター・Kはニヤリと口角を歪めた。


「それで、貿易会社に勤めて、しょっちゅう海外出張だなんて、オレやオフクロを欺いてきたってことか」


「あの奥さんにとって、わたしとの見合い話が来たときは、渡りに船だった。即座にOKされたよ。おまえが腹の中にいたから、焦っていたのだろう。フッ。適当に結婚した相手だから『亭主元気で留守が良い』だったろう」


「そんなノロケ話なんかより、オレに何の用なんだ。こんな秘密を打ち明けたってことは……」


「夜道に日は暮れないよ。一博くん。まあ、これでも一杯どうだね。ゆっくりとわたしの話を聞きなさい」

 ミスター・Kは、一博に、潤が用意した老酒のグラスを勧めた。


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