☆ ここまでのあらすじ ☆
伊川一博は、次男英二を偏愛する母房江に虐待されて育った。
手がつけられない粗暴な少年に育った一博を、心の優しい英二だけが心配してくれた。
高校生になった一博は、釈光寺組組長である、実父釈光寺琢己の屋敷を訪ね、『愛し合った琢己に妻がいると知ったとき、房江は一博をお腹に宿していた。房江は、世間体を考え、伊川正雄という平凡な商社マンと結婚した』という経緯を知る。
琢己の屋敷で暮らし始めた一博は、ある晩、奥座敷で、龍と麒麟がむつみ合う姿を目撃し、自分がゲイだと自覚する。
翌夕、若頭補佐の日向潤と引き合わされるが、麒麟の入れ墨を背負った男だった。
一博は、軽い気持ちで潤を誘うが、拒絶され、激怒する。
潤は「わたしは、オヤジさんに若のことを任せられた以上、命を投げ出してでもお守りします。それだけはわかってやってください」との言葉を残して立ち去る。
大学を卒業した一博は、琢己不在時に、カチコミを決行して重傷を負う。
退院した一博は「一度だけ」という約束で、琢己を関係を持つ。
祐樹が関西の組織と手を結び、一博は罠に落ちて捕らえられるが、潤に救われる。
潤に拒絶され、潤の琢己への思いを再認識する。
英二に頼まれ、大金を工面して、病に倒れた房江を救う。
礼に来た英二が、一博をかばって刺される。
☆ 本文 ☆
手術室の前で一博は、房枝と十年ぶりに再会した。
髪を無造作に束ねたほつれ毛にさえ、強烈な色香があった。
「一博。オマエはなんという疫病神なの! 英二が死んだら……死んだら……どうしてくれるの」
房枝は金切り声で叱責し、
「父さんの会社から退職金の前借をしたって英二が言うから、すっかりそれを信じたのよ」
そっぽを向く一博にたたみかけた。
あの礼状は英二の仕業だったのか。
一博は唇をかんだ。
「一博。オマエが死ねば良かった。害悪ばかりまき散らすオマエと正反対に、英二なら、英二なら、この先、どれだけひとさまのお役に立てたか……」
房枝は一方的にまくし立てた。
一博の頭の中を、過去が次々にフラッシュ・バックする。
雪の夜に裸足で閉め出されたこと。
包丁を持って本気で追い回されたこと。
死ぬ寸前まで風呂の湯に何度も顔を浸けられたこと。
体中にタバコの火を押し付けられたこと。
そのときの狂気に満ちた、それでもなお美しかった母の顔……。
「オマエのために、苦労して金をかき集めたわけじゃない。けなげな英二の気持ちにほだされただけだ」
一博はドア横の壁を思い切り蹴った。
「一博! アンタって子は……」
房枝が一博の頬を思い切り叩いた。
「てめえ!」
威嚇してやろうと手を振り上げた、そのときだった。
後ろから腕をつかむ者がいた。
伊川正雄だった。
一博は、正雄の強い目に狼狽した。
「あ、あなた。無事で……。今までいったい何処に……」
房枝は、正雄に駆け寄って口汚くののしり始めた。
ののしりながら、大粒の涙を流し続ける。
「すまないね。房枝。向こうで大きなトラブルに巻き込まれてね。どうしても……」
正雄は、連絡さえ取れなかったいきさつを、くどくどと説明し始めた。
こんな男でも、自分の妻のピンチには男気を出すんだな。
一博は感心しながら足早に立ち去った。
緊急手術を受けた英二は危機を脱し、集中治療室から出られたが、意識は戻らなかった。
脳に十分な血流が確保されず、大きなダメージを受けていたため、覚醒は難しい。
医師の見立ては、絶望的なものだった。
房枝のいない時間を見計らって、毎日病室をのぞくが、一向に変化はなかった。
何本もの管につながれた姿を見れば心が滅入るばかりである。
オレのせいだ。
どうしていいかわからず、叫び出したくなる。
自室でうつうつと過ごすことが多くなり、頬がげっそりこけて、顔の骨格が浮き出てきた。
生活は荒れ、何かにつけて癇癪を起こした。
空手の稽古にも身が入らない。
自分でも体のキレが悪くなったと思うようになった。
極道の世界で頂点を極めようと、もう何の意味もなくなった。
房枝に自分を認めさせるすべはなくなった。
そのまま秋へと季節が流れた。
ある日の午後、一博は久しぶりに組事務所へ出むいた。
琢己と潤は義理ごとで北関東へ出かけていて留守だった。
会長執務室の前を通りかかった一博は、
そういえば、最近、リフォームしたんだよな。
思いながら、ドアを開けた。
少し前まで、室内は極道色一色で、組の名を入れた提灯が飾られ、正面には、金縁の額に入った仰々しい代紋が飾られていたが、まるで一般企業の社長室のように変化していた。
絶大な信頼を置く潤の勧めに、昔かたぎな琢己も『今日びそんなものか』と、素直に従った結果だった。
巨大な琢己専用デスク以外に、ふたつ机があった。
ひとつは機能性を重視したシンプルなデザインで、琢己の傍らで秘書的役割を担う日向潤のものだった。
もうひとつは、潤のデスクより大きい。
若頭井出平強兵の席だった。
先代の大本組長時からの若頭、七十二才になった井出平に実権はなく、その席を暖めるのも月に一、二回、挨拶を兼ねて出勤といった具合だった。
琢己がオーダー・メードした革張りの椅子に腰を掛けてみた。
この席に座るのが目標だったのに、今となってはどうでもよくなった。
苦笑しながら、部屋を出ようとしたときだった。
廊下を近づいてくる琢己と潤の声がした。
二人きりの会話に興味がわいた一博は、キャビネットの陰に身を隠した。
「それはそうと……」
琢己が椅子に体を預け、くつろぐ。
プレミアムシガーを、専用の葉巻箱からもったいぶった手つきで取り出し、先をフラットカットした。
ゆっくりと葉巻を回しながら、スペイン杉でできたシガーマッチで火をつけた。
「一博をこのまま放っておくのは問題だな」
「はい」
傍らに立つ潤が、低い声で応える。
琢己は、火をつけた葉巻を大理石の大きな灰皿に置いた。
「オレの若い頃と似ているだけに、弟が死ねば、関西神姫会のヘッド野々村一茶会長のタマ取りを画策するだろう」
「その恐れは十二分にあります」
「仕掛けた、跳ねっ返りどもが全員死亡という結果をもって、双方平和的決着をみた。一博が、野々村会長を狙うのは筋違いだ。東西二大組織の全面戦争に突入する恐れがある。それだけは避けねばな」
琢己は苦りきった口調で言った。
「大勢の可愛い組員たちの生活がかかっていますから、ご心配はもっともです」
潤が大きくうなずく。
「かつては武闘派最右翼で鳴らしたオレも、この数年で守りに入ったというわけだ」
琢己は自嘲気味に漏らした。
二人の間に沈黙が流れた。
「若は、肉親の愛に飢えておられるのです」
潤が唐突に切り出した。
「若は、愛してくれなかった母親へのわだかまりが、いまだに払拭できていません」
「一博には支えが必要だな。今のままだと、とんでもない方向に突っ走ってしまう」
うなずき合う二人は、まさにあうんの呼吸の仲に見えた。
何を言っているんだ。
オレがそんなバカに見えるのか。
反発を抱きながらも、一博は、ほんの少し救われた気がした。