☆ ここまでのあらすじ ☆
高校生の一博は、釈光寺組組長である、実父釈光寺琢己の屋敷を訪ね、母房江との過去を知らされる。
琢己に妻がいると知った房江は去り、伊川正雄という平凡な商社マンと結婚し、次男英二をもうけた。
琢己は、自分を頼って来た一博を受け入れるという。
琢己と正妻との間にできた長男祐樹を、お坊ちゃま育ちだとあなどる。
一博は、次男英二を偏愛する母房江に虐待されて育った。
手がつけられない粗暴な少年に育った一博を、心の優しい英二だけが心配してくれた。
ある晩、奥座敷で、龍と麒麟がむつみ合う姿を目撃した一博は、自分がゲイだと自覚する。
翌夕、若頭補佐の日向潤と引き合わされるが、麒麟の入れ墨を背負った男だった。
一博は、潤を誘うが、拒絶され、激怒する。
潤は「わたしは、オヤジさんに若のことを任せられた以上、命を投げ出してでもお守りします。それだけはわかってやってください」との言葉を残して立ち去る。
一博は、初めての男は特別な男でなければという思いを強くする。
大学を卒業した一博は、琢己不在時に、独断でカチコミを決行するが、重傷を負う。
☆ 本文 ☆
一博は、夢を見ていた。
存在し得なかった暖かな家庭の夢だった。
一博に向かって、優しく微笑みかける房枝。
その肩を抱く琢己。
英二はむろん存在しない世界線だった。
そんなの有り得ねえ。
心の中で叫んだ途端、夢の場面がハラリと変容した。
潤が一博の服を優しく脱がせ始める。
べっとりと重く濡れそぼったスーツの上着。
血でへばりついたシャツ。
「無茶はいけませんよ。若」
潤は、静かな深い色をたたえた瞳で見つめてくる。
潤ならオレのことを止めていただろうな。
冷静な潤なら……
そこで目が覚めた。
酸素マスクをつけられていたが、集中治療室ではなく、病棟の個室だった。
どうやら助かったみたいだな。
いくつもぶら下げられた点滴の容器をながめながら、小さくため息をついた。
「気がつかれましたか」
荒城浩介が枕もとに駆け寄ってきた。
「若、おやっさんは今日、帰国されます。よくやったと喜んでおられました。で……」
そのとき、ドアが開き、男がひとり入ってきた。
英二だった。
「なんでオマエがここに……」
酸素マスクをかなぐり捨てながら、身を起こした。
点滴のバッグが大きく揺れる。
英二は、淡いブルーをした医療従事者用の制服を着ていた。
胸ポケットから聴診器がのぞいている。
幼稚園の頃から、看護士になるって言ってたっけ。
英二の姿はサマになっていた。
「本部に連絡がてら、タバコ吸ってきます」
気を利かせた荒城は、そそくさと病室を出て行った。
「兄ちゃん。気がついたんだね。良かった。最初運び込まれてきたときはビックリしたよ。血の量を見てもうダメかと思った。ほんとに助かって良かった」
英二は相変わらず無垢な笑みを見せ、一博を戸惑わせた。
「これに懲りてもう足を洗ったら? ね。兄ちゃん」
面長な顔が近づいてくる。
八年ぶりに会った英二は、さらにイケメンになっていた。
短髪でスポーツマンタイプ、あっさり醤油顔は少年の頃と変わらなかった。
「ほっとけ」
そっぽを向きながら、すげなく返した。
一瞬、スンと押し黙った英二だったが、
「ところでさ、兄ちゃん……」
いきなり話題を変えてきた。
あの英二も、相手の気持ちがくみ取れるようになったか。
一博は妙なところで感心した。
「兄ちゃん。オレさ、今、この病院で昼間働きながら夜間の大学に通ってるんだ。もっと、看護学をやりたいからさ」
「オマエは相変わらず、オフクロの期待の星なんだな」
一博は口を歪めてみせた。
「母さん、すごく心配してるよ」
英二は、ブランケットをかけ直しながら、無神経な言葉を口にした。
「馬鹿言え! そんなはずがあるか」
言いかける一博に、
「兄ちゃんは、自分が思っているほどワルじゃないよ」
優しい笑みを投げかけてくる。
英二はやっぱり変わらない。
異世界の住人を見ている気がした。
「僕も大人になった。今すぐ兄ちゃんを連れ戻そうとは思わない。だけど、これだけは覚えていて。帰る場所があるってことを。母さんだってほんとは悪かったと思っているんだ。口には出さないけどね」
口に出さないけどだと?
さらに腹が立ってきた。
あの女が反省なんかしているものか。
英二はなんでも善意にしか解釈しない。
お人よしにもほどがある。
そういうところが嫌いだってわからないのか。
英二に罪がないことはわかっている。
だからこそ余計癇にさわる。
「英二とは一生平行線だ。出ていけ! この部屋に顔を出すな!」
一博は声を荒げた。
「わかったよ、兄ちゃん。けど、無茶はもうダメだよ」
英二は、こわばった笑みを浮かべながら、病室を後にした。
空調の音だけになった病室で、一博は急に傷の痛みを意識した。
痛みはずっと深層からのものだった。
「あ、あれって……!」
一博は突然思い出した。
二つの夢の前に、もうひとつ夢を見ていた。
誰かが、指先で一博の唇にそっと触れ、唇を重ねてくる夢だった。
その人物が薄いブルーの制服を着ていたことを思い出し、
「有り得ない」と激しく頭を振った。
三つの夢の中で、その夢だけが、生々しい感触を伴って、鮮明に甦ってくる。
「夢だ。夢」
モニターの音だけが響く病室で、一博はわめいたときだった。
「お元気そうじゃないですか」
軽いノックの音と同時に潤が入ってきた。
「説教なら今度にしてくれよな。傷が痛むんだ」
一博は顔をゆがめてみせた。
「なら、おとなしくベッドで寝ていてくださいよ」
潤は一博の体をベッドに横たえ、布団をかけた。
「オヤジさんは喜んでおられます。さすがオレの息子だって」
言いながら、潤はベッドの脇に置かれた椅子に腰をかけた。
「重傷を負ったから、哀れみ半分だろうけど、今回のカチコミで祐樹と差をつけたのは愉快だな」
「少なくとも、姐さんと祐樹の若は面白くないでしょう」
「オレ派と祐樹派の対立はさらに激しくなるだろうな」
組内では、旧大本組の生え抜きからなる祐樹派と、その後に盃を受けた者たちによる一博派に分かれていた。
ちなみに、琢己の懐刀である潤はあくまで中立の立場で行動している。
「オヤジさんは、身内の対立に悩んでおられます」
潤はぽつりとつぶやくように言った。
「どう悩んでいるんだ。言ってみろよ」
「それはまあ……」
「将来、組を継がせて組織を拡大させるには、オレが適任だけど、オレは攻撃的できつい性格だ。『親』として組員を束ねて行くには狭量すぎるってんだろ。親父は、祐樹が跡目を継いで、オレには相談役という手もあるなんて、考えているかもな」
ワガママいっぱいに育った祐樹も、一博への対抗意識むき出しで奮闘した結果、いっぱしの男に育った。
祐樹は、長男でしかも旧大本組直系である。
理事会の支持を取り付けやすい。
「けど、考えてみりゃ……親父は、世襲にこだわらず、優れた人材があれば、跡目を継がせるって、日頃から豪語しているだろ。潤、オマエが組長の座につく可能性もある」
潤は、度量と冷静さに加え、組員全員からの人望もあるから、圏外とはいえない。
「まさか。わたしはナンバー2が似合いだと心得ています。将来、祐樹の若かあなたが跡目を相続するとなれば……そのときは命がけでご奉公するまでです」
「堅物だな。ハハ、そういうところは確かに、組長ってガラじゃないな」
「ともあれ、オヤジさんの時代はまだまだ続きます。先は長いですから、功を焦るような真似はやめてください。てっぺんを取る前に自滅しては……」
「おためごかしはやめろ。オレが死んだってオマエは痛くもかゆくもないくせに」
言外に、オヤジと組だけが大事なのだろとの意を込めた。
「ハハ。バカなこと、言わないでくださいよ。とにかく、オヤジさんを悲しませることだけは謹んでください」
潤は早々に話を切り上げ、病室を後にした。
一週間後、一博は病院を脱走し、屋敷に戻った。
玄関を入ったところで、出かけようとする祐樹と典子に出会った。
黒地に墨色の紋様の入った生紬訪問着を着て厚化粧をした典子は、視線も交わさず出て行ったが、祐樹は歩を止めて一博の腕をつかんだ。
「すごいじゃないか。一博。驚いちゃったよ~」
「テメエのそのねちっこい話し方、なんとかしろよ」
手をふりほどき、汚いものに触れられたように、パッパッと払った。
「でもさ、一博~。無事で良かったよ。ライバルがいなくなっちゃ、オレとしても困るからさ~」
祐樹が口角を上げた。
「ふん」
一博は廊下を自室方向へと向かった。
まだ何か言いたげな祐樹は無視した。
祐樹、てめえなんか、ハナからライバルなんかじゃない。
この家の実権を握ったら、高慢ちきなくそ婆ァと一緒に叩きだしてやるからな。
一博は祐樹をなめきっていた。