☆ ここまでのあらすじ ☆
伊川一博は、実父釈光寺琢己と対面する。
生人形『谷汲観音像』そっくりだと言われる。
☆ 本文 ☆
「失礼いたします」
障子が静かに開けられ、若い舎弟がコーヒーを運んで来た。
室内に入る際と退出する際の馬鹿丁寧なお辞儀がヤクザ社会の異様さを如実に表していた。
「酒のほうがいいんだがな」
苦笑する琢己に、
「わたしが未成年だからですか。ご配慮いただき恐縮です」
一博は微笑みながら、頭を軽く下げた。
「オレのことを、ひどい男だと聞かされてきただろうが、何事も双方から話を聞かねえと真実とはかけ離れちまうからな」
オフクロのことなどどうでもいいと言いたかったが、傾聴するしかない。
「はい。母の話は極端で、信用できないと思ってきました。教えてください」
一博は琢己と目を合わせた。
琢己の目元がふっと緩む。
「オマエはオレを恨んでいるとばかり思っていたが、今日、こうしてオレの胸元に飛び込んできたんだ。オレは悪いようにはしねえ」
琢己はコーヒーを一口、口にしてから、長々と昔語りを始めた。
十七年前、唐津房枝は、埼玉県郊外の私立病院に勤務する新米看護士だった。
年の瀬も押し詰まった雪のチラホラ舞う十二月二十九日。
後に『第三次関東戦争』として語り継がれる一大抗争事件が勃発した。
関東進出を狙う広域暴力団関西神姫会と関東連合との全面対決だった。
死人、怪我人が多数出て、房枝の勤務する病院にまで、負傷したヤクザが搬送されてきた。
そのうちの一人が、若き日の釈光寺琢己で、房枝が受け持ちになった。
琢己は新進気鋭、売出し中の二十三歳の若い組長。
破竹の勢いで勢力図を塗り替えているところだった。
度胸も男気もあり、しかも見た目もなかなかの美形。
房枝は、女優かモデルかという美貌の持ち主で、気性が激しくプライドが高い。
強さを標榜する男には、そういう女がひどく魅力的だった。
二人は、たちまち激しい恋に落ちた。
房枝は考えた。
この人と一緒になる。
ヤクザなんてやめさせて、マトモなひとにしてあげる。
なんなら私が一生食べさせてあげる……と。
だが……琢己には妻が居た。
妻典子は、関東では名の知れた大本組の先代組長、大本久義の娘だった。
先代は施設で育った琢己を拾いあげて育て、その卓越した才能を買って大本組若頭に大抜擢してくれた。
先代は日頃の不摂生がたたって病に倒れた。
すでにかなり進行した肝硬変だった。
死の床に伏した大本組長は、若干二十歳の琢己に組の将来を託した。
愛娘の典子と夫婦になることを条件として。
典子は器量も十人並みで、五つも年上である。
典子に何の感情も持っていなかったが、大本組長の最後の願いを拒む理由もなかった。
琢己は考えた。
愛人を何人も持つことは、男の甲斐性の世界である。
二代目姐として、それなりに丁重に扱えばいい。
適当に立てておけばいいと。
その後、大本組組長という地位を足掛かりにしてのし上がり、自分の名を冠した釈光寺組を立ち上げた頃、唐津房枝と出会った。
半年ほどして、事実を知った房枝は激怒した。
琢己からすれば、別段隠していたわけではない。
訊かれなかったので答えなかったというだけだったが。
何もかもを捨てて、二人で行方をくらますという選択肢もあった。
だが、稼業が順風満帆な琢己は、極道人生が面白くなっていた。
妻という名は与えられなくとも、何不自由のない生活をさせてやればいい。
形式なんかどうだっていい。それで十分だろが。
典子と別れて籍を入れろだと?
何をしんきくさいことを言うんだ。
琢己はそう考える、根っからの極道だった。
琢己の考えと房枝の思いは激しくぶつかった。
愛し合うゆえに、二人は互いに譲らない。
昼間の秋晴れが一転して、突風を伴う激しい雨になった夕刻。
房枝は、琢己との激しい口論の末、何も持たずアパートの部屋を飛び出してそれきりもどらなかった。
そのとき、房枝は、自分の胎内に小さな命を宿していることを知らなかった。
五年後、我が子の存在を知った琢己は房枝を訪ねた。
房枝は、相変わらず看護士の仕事を精力的に続けながら、貿易会社勤務の平凡なサラリーマン、伊川正雄と家庭を持っていた。
美しさは健在だったが、不幸の翳を身にまとった女になっていた。
房枝は、英二という名の幼児を抱いていた。
伊川とのあいだにできた一博の弟だった。
英二はアトピーで皮膚がただれ、悲惨な顔だった。
掻き毟らぬよう手袋をされ、痒みに泣き叫んでいる。
房枝は懸命にあやしながら、子供の声に負けないほどヒステリックな声で、激しくののしった。
「一博には、『本当のお父さんは交通事故で死んだ』って言ってあるのよ。ヤクザが本当の親なんて知られたらどうしてくれるの。わたしたち家族に波風を立てないで」
一博に会わせて貰えず、けんもほろろに追い帰された。
仕方ない。
あきらめた琢己は車上のひととなった。
百メートルも行かぬうちに、公園わきの信号につかまった。
子供が、黒塗りのベンツのリムジンを物珍しげに見ながら通り過ぎる。
すぐ我が子だとわかった。
あまりにも房枝そっくりだったから。
琢己は、車を降りなかった。
信号が青に変わると同時にベンツは、夕闇の中へと滑り出した。
「もう十年か。この前、チラリと見たときは、まだちいせーガキだったが、成長したもんだ。野心むき出しで、おじけず目をしっかり合わせてくるオマエは、ガキの頃のオレそっくりだ」
「ありがとうございます。まだまだ、遠く及びませんが」
「それにつけても……」
琢己は冷めたコーヒーを口にしながら、
「祐樹には困ったものだ。『甘やかせて育てては、一人前の男になれない。他の組員たちにも示しがつかない』と、厳しく躾たつもりだが、典子が何かにつけて口出しして、猫可愛がりする。だが……オマエの出現で祐樹も発憤するだろう」
独り言のようにつぶやいた。
当面のライバルである、兄はたいした男ではなさそうでだ。
そのうち排除してやる。
一博は心の内でほくそ笑んだ。
「そこそこヤンチャをしてる面構えだな」
琢己は目を細めた。
「真っ正直だけで、この世の中やっていけませんから」
一博の鋭い目つき、服の着崩し方からも、真面目な高校生とは縁遠かった。
「オレはすぐわかった。オマエにはオレと同じ獣の血が流れていることがな。こうして二人まみえたからには、もうカタギの世界に魅力は感じないだろ。ここに居ればいい。気がすむまでな」
琢己は満足そうにうなずいた。
そのときだった。
庭先から背の高い青年が姿を現した。