鯉の寒雨が無事に滝を登りきって竜に成った、翌朝。
今日は河童の小雪、晩翠、澄清、花野の四人が滝登りに挑む日である。
ちなみに今日一日だけやってみて、日を伸ばすかどうか相談することとなっていた。
「こちらの希望としては今日登りきれちゃうことなんですけど」
「無茶言ってる自覚あります?」
「あります」
春愁は小雪にウィンクを飛ばした。小雪は苔むした緑色の河童だ。河童達の中で一番泳ぎが達者で、一番の年嵩だという。別に年功序列というわけではないが、礼儀正しい河童たちの中では彼がリーダー格で、キツネと会話をするのは主に小雪だった。
ちなみにほかの河童たちは小雪の後ろで「ええ……」「無茶いう」みたいな顔をしている。大丈夫、無茶を言っている自覚はちゃんとある。
ここは清香達が用意してくれた宿泊所だ。神社の人間たちが泊まるような場所ではなく、あそこのご神木の側の茂みを抜けると辿り着ける、人間に分かり易く言うと隠れ里のような場所になる。だから人間の亀井は宿泊していいない。亀井は近所のホテルだ。春愁もそっちが良かったけれど、用意されてしまったのだからこっちに泊まった。
春愁は場を読むことのできるキツネなので。
「あくまでも希望なので、無理なら無理で問題はありません。その場合は数日閉めます、と、告知済ですから」
この宿望には個室があって、それから食堂がある。夕飯は近所の美味しいお店に連れて行ってもらってそこで食べた。朝ご飯は河童達のためにと、作ってくれた。白ご飯とお揚げのお味噌汁ときゅうりの漬物と焼き海苔と卵焼きと小アジの開きだった。
今は朝食を終えてお茶を飲みながら、今日の予定の相談である。
要望はちゃんと言っておかねばならない。
ちなみに清香はいない。昨夜の内に寒雨を連れて旅だった。代わりに夕紅葉がいる。朝食をこさえたのも夕紅葉だ。
「とりあえず今日の午前は練習していただいて。お昼ご飯を食べながら、今後の流れについて再度相談させていただければな、って考えてるんですよ」
きゅうりの漬物をポリポリと齧りながら、春愁が説明をする。結局のところ、やって見なければ何も分からないのだ。キツネたちにはさらにさっぱり分からない。
水中用のカメラは持ってきているけれど使ったことがないので、その実験もしなければいけない。だから正直、今日の午前は撮影の予定はなかった。
そしてまあ軽い、河童にしてみれば何の相談にもなっていない打合せを終えて、河童たちは夕紅葉と一緒に滝へと赴く。
青い鳥居の前には、すでに数人の浪人たちがたむろしていた。彼らは夕紅葉を見ると、軽く手を振った。
「今日はダンジョンやってませんよー」
「うん、知ってる知ってる。それはそれとして昨日、竜に成ったっていうから、その話を聞きに」
そこにいた浪人たち計六人は、近所にお住まいの方たちだ。だからおそらく、一旦ここに顔を出して駄弁ってから、どこかのダンジョンに向かうのだろう。人数が集まったらまとまっていくのも悪くはないだろうし。
「そうですか。ちょっとこちらの方々をご案内して参りますので、しばらくお待ちください」
「ありがとう」
顔馴染の浪人にそう告げて、夕紅葉は河童たちを青い鳥居の方へと誘った。
夕紅葉も河童たちも、今は人の似姿を取ったままだ。浪人以外の参拝客もいるような境内を、キツネは耳と尻尾が出るだけだし何ならキツネ型で歩いてもキャー、可愛い! って言われるだけで問題ないだろうけれど、河童はちょっとそういう訳にはいかない。だから、昨日いなかった浪人たちは不思議そうな顔で河童たちを見送った。外見だけなら、ただの浪人に見えるので。
ただまあ何をするのかは聞いて知っているから、人間にしか見えないよなあと思いながら見送るだけだ。いくらなんでも口に出したら失礼が過ぎる。
青い鳥居の向こう側は、昨日と同じく今日も空は青く、木々の緑は鮮やかで、吹く風は涼やかで、池の水面には沢山の鯉。
「いつもより多いですね」
「多いですよね!?」
昨日はこんなにいなかったはずだと、滝の轟音よりもそちらに河童たちは気を取られた。滝の音には、そろそろ慣れてきてもいた。
鯉の一尾が代表して、パクパクと口を動かす。しかし夕紅葉には滝の音で聞こえない。
「ちょっとお待ちください」
花野は着ていた、赤味の強いピンクのワンピースをするりと脱いで、河童の姿に戻る。先ほど脱いだワンピースと同じ肌の色をした河童が、そこに顕現していた。脱いだワンピースは畳みたかったけれど、とりあえず一旦その場において、池の表面に耳を付ける。こうすれば、鯉の言葉も聞き取れるだろう。
なるほどな、と頷く夕紅葉を横目に、小雪に晩翠、澄清も服を脱いで畳む。彼らは花野のように脱ぎ着のしやすいワンピースタイプではなく、今日は似たような色に見える作務衣姿だ。作務衣にそんなにカラバリあるのか、というのがキツネたちの感想だった。
探せばあるのか、それとも自分たちで染めたのか。ちょっと気にはなるけれど、それは聞くほどの事でもないので聞いていない。
花野は鯉たちの話を聞いたら身を起こし、夕紅葉に背を向けて、ワンピースを羽織った。その頃には甲羅は消失し、人の似姿になっていた。
ちょいちょいと手招いて、花野は鳥居をくぐる。キツネと会話するなら、滝の音の響くここではない方がいい。
夕紅葉はそれに気がついて、花野について行った。
「なんでも、鯉の皆さんが一緒に練習をされたいそうで」
「皆さんのお邪魔にならないようであれば構いませんよ」
そもそも試験場であるこの滝での練習は、試験の時以外は解放している。昨日竜に成った寒雨など、それはもう熱心に練習していたものだ。
そんな寒雨が竜に成ったのだ。今、鯉たちのモチベーションはそれもう最高潮だ。今最高潮にならなくていつなるというのか。
だから夕紅葉は構わないと返す。ただ。
「あの川は、鯉のためのサイズですから。もしかしたら河童の皆さんにとっては狭いかもしれません。もしも皆さんにとってお邪魔であるようでしたら、そう言ってあげてください」
鯉は複数一気に滝を登っても、問題ない程度には川幅はある。けれど河童と一緒だとどうかは分からない。夕紅葉はキツネなので。
「皆さんの方から鯉の方々に言いづらいなら、私が言いますけれども」
「お願いできますか」
「勿論ですよ」
河童が言うよりも、キツネが言い渡した方が皆聞くだろう。キツネが怒って、神様に言って、このダンジョンが終わってしまっては、鯉も困るので。
一旦鳥居の中に戻る前に夕紅葉は、さっきの鯉からの提案を他の河童に伝えておいて欲しいと頼んだ。
鯉と一緒の練習になること、鯉には言い含めておくので、もしも狭いと感じたらそのように鯉に伝えること。
「正直、全員一緒に滝を登りはしないでしょうから、こう、順番に使って頂く感じで」
「多分そうなると思います」
「ですよね。河童の皆さんが休憩してるとか、そういう時は使っていいですよって話ですもんね」
夕紅葉と花野の意見は一致したので、問題ない、ということにした。春愁たちに話を通す必要はないだろう。昼には伝えてもいいかもしれないけれど。鯉の背中にカメラ括り付けて撮影するとか言いかねない。
「今伺ったんですけれど」
夕紅葉は、池の側にしゃがみこんで口を開く。鯉たちが寄ってきた。
「念のため、聞こえてるか確認させてください。聞こえているなら、一回左のひれで水面を叩いて頂けますか」
ぱしゃん。
全員が、水面を叩いた。本当に聞こえているのか。
「ありがとうございます。鯉の皆さんの練習に関してですが、河童の皆さんのお邪魔にならないようであればよろしいかと思います。
具体的には、河童の皆さんは鯉の皆さんより体が大きいですから、一緒に滝を登るのは危ないかもしれません。もしも河童の皆さんが一緒に泳いでほしくないと仰いましたら、滝を登る時間をずらすなど、調整してくださいね」
ぱしゃんぱしゃん。鯉たちは嬉しそうに水面を叩いた。多分楽しそうだ。
夕紅葉が認識している河童たちは、おそらく鯉たちが傷つくのを嫌がるだろう。だから、そう言い含めておけばよろしかろう。
「あ、あと。練習するとなると、動画に撮られてしまうと思いますので、そこは諦めて下さい」
今は春愁たちがいないのでカメラはないが、昼休み明けにはカメラは持ち込まれるだろう。そうなったらもう、映るのは諦めて欲しい。