夕方。
陽は大分傾いてきているがまだ暗いとは思わない。春愁と炎陽はキツネだからそう思うのだろうか。人の似姿を取っている時は、その能力は人とほとんど変わらない、はずだ。それでも耳も目も人間よりいいかもしれない。現代の人間が鈍っているから、というのがその理由だけれども。
陽が落ちる前に、昼と同じように三脚のカメラが滝を下から捉えていた。
三段の滝は、キツネの春愁と炎陽にとっても威容であった。それはそうだ。この滝を登るのか。登れるのか。登りきれるのか。それを、鯉に問わなければいけないのだから。
ちなみに現在、なぜか河童にもそれを問うている。キツネは問われていない。問われても無理ですと即答するのが滝にも分かっているのだろう。
夕方の試練に挑戦するのは、四尾。一尾は寒雨だ。それから、初めて挑戦するのが一尾に、二度目が一尾。七度目が一尾。寒雨以外の三尾は、どの時間帯が自分に向いているのかを調べているという。
浪人の岩越の情報を伝えてみたところ、やはり水に潜ってしまえばそれはどうでもいい事のようだ。むしろ、朝や昼間の方が、水への太陽の入射角によっては眩しかったりもするらしい。
その辺は好みですね、と、寒雨が言っていた。
春愁と炎陽と、清香と夕紅葉、それから岩越はその情報に驚いた。とりあえず岩越は情報を見直すそうだ。
一尾目は二つ目の滝を登りきれなくて流されていった。二尾目は、一つ目の滝から二つ目の滝へと移動する際に流されていった。三尾目は一つ目の滝を登りきれなかった。
寒雨は、最後に挑戦した。スピードを上げて一つ目の滝を登りきり、高く飛んで二つ目の滝へと着水した。そこで流される鯉も多いのだけれど、寒雨は滝の下三分の一ほどの所にうまく着水して、勢いそのままに二つ目の滝を登りきった。多分。寒雨は恐らく流れの急ではない水底付近にいるのだろう。目視では判断が出来ない。流れていくときは神使の皆様のお力でそうと分かるので、まだ流れていっていないはずだ。
それに観覧席からだと、上から覗き込む形になるのでよく見えない。というのもある。
そうして、三つ目の滝の中ほどで。
きらり、と、何かが輝いた。
「ああ、登りきりましたね」
「まだじゃないですか?」
「登りきれる鯉は、三つ目の滝の中ほどから変化が始まるんですよ」
ぐんぐんぐんと、その光ったものは体積を増して滝を駆け上る。
ざっぱぁぁぁぁぁん!!!
滝の上空に、蛇のように恵体をくねらせて浮かぶものがいる。龍が、生まれたのだ。
細長い体に、四本の足。夕日を受けて輝く鱗は、地上からだと少し暗くなってきていて分かりづらいが、緑に見えるような気がする。青竜だろうか。
観覧席でカメラを構えていた春愁は、ただ、茫然と空を見上げた。
それはとても壮大で。
それはとても荘厳で。
それはとてもとても、美しいものだった。
何とかカメラも、竜に成った寒雨をとらえている。視聴者はどう思うだろうか。ああ、宇迦之御魂神様はお喜びになられるな。多分、寒雨にも会いたがるだろう。寒雨が亀井を選んでくれれば、宇迦之御魂神様に会わせて差し上げられるなぁ。だなんて、春愁は考えた。
寒雨はぐんぐんと滝を登った。ああ、これはいける。そう分かったのは、どのあたりだったのか、もう定かではない。定かではないけれど、そうと分かった途端、体に変化が訪れた。まずはぐっと体が伸びた。背筋が伸びる思いでぐっと伸ばせば、どこまでもどこまでも伸びていった。
次に、体がとても軽くなった。川の流れを感じなくなった。川は滝壺に向かって流れ落ちているはずなのに、その飛沫は自分を押し流すのではなく、もっと上へ、もっと空へと運んだ。
鯉の滝登り。
それは「滝を登りきるから竜に成る」のではなく、「鯉が竜に成るために必要な舞台装置」なのだと。悟った時には、鯉は竜に成っているのである。
しゅる、しゅる、しゅるんと小さくなりながら、寒雨は地上へと降りてきた。観覧席は大興奮である。主に春愁が。
「すごいすごいすごい! やりましたね! 寒雨さん!!」
「ちょ、春愁!」
炎陽に止められてなお、きらっきらした瞳で春愁は寒雨を見ている。
春愁はキツネであるからして、浪人になることは出来ない。だから寒雨の相棒になることは出来ない。けれど凄いと思ったのは本当だし、感動したのも本当だから、それを素直に口にした。カメラは回っている。嫌だったら後で自分で編集するだけだ。
「ありがとうございます」
丁度、春愁たちの顔の位置に、小さな青竜が浮遊している。その三本の爪には、白い宝珠が握られていた。
「お疲れさまでした、寒雨さん。この後はここに、寒雨さんに賭けていた二人の浪人をお呼びしますので、そのどちらかと友誼を結ぶのか、それとも断るのかをお考え下さい」
「その前に、インタビューさせていただいても?」
「勿論ですとも!」
清香が何かを言うより先に、寒雨が鼻息荒く頷いた。
「竜に成った時の感覚とか、お伺いしてもいいですか」
寒雨はくるんと回った。前転、後転、それから横に。
「報われたんだ、って思いました。鯉が竜に成るための修業って、自分との闘いなんですよ。自分は報われたからいいですけれどね、多分、ほとんどの鯉が、自分がしている修行は合ってるのか、分からないと思うんです」
寒雨は、何回滝登りに挑戦した、と言っていたっけ。
「鮭なんかは、普通の滝を登るでしょう。鯉の自分たちは、滝を登るだけで竜に成れて、いいのか、とか」
「いいんじゃないですか? そういう生き物なんですし」
キツネは、神に近しい生き物だ。春愁自身は神に連ならないけれど、神様にお呼ばれしてそのお部屋でお茶とか頂くし。それをよろしくないことだと言われると困ってしまう。
だからきっと、鯉たちもそれでいいのだ。鮭たちだってきっとそうだ。いやどうだろう。鮭も、竜に成りたかったりするのだろうか。聞いたことないから、分からないけれど。
「一応お声がけしておくとですね、鮭が登る滝と、鯉が竜に成るために登る滝は、まったくの別ものです」
そっと、清香が話に入ってくる。
言われてみればその通りだ。
普通の滝を登って竜に成る鯉がそこそこいたら、もっと有名な話になっていて、故事成語になんてなっていないだろう。
驚いた顔で、寒雨が清香を見ている。寒雨にしてみれば、鮭が登る滝も、今自分が登った滝も、同じだったのだろう。作った清香にしてみれば、同じじゃなかっただけで。
「あー……いや、分かりますよ。
一人でうんうん唸ってやってる時って、辛いんですよね。これが本当に正しいのか、自分に合ってるのか分かんないと、特に」
炎陽が、ぽそっという。あれこいつそんなことするような奴だっけ、と、春愁はちょっと首を傾げた。
「世の中反復練習って言いますけど、この反復は正しいのか? ってなりますよね」
「なる?」
「お前はならないかもしれないけど、そうなるんだよ。
でさ、何回かやってる時にあ、これ間違ってるなとか、これ正しいんだな、みたいな確信が、出るときありますよね」
「そうですそうです。そうなんです。
竜に成った時も、そうでした。まだ登りきっていないのは分かるんですけれど、ああ、自分は竜に成るんだ、成ったんだ、っていうのが、分かったんです」
くるん。くるん、くるん。
寒雨は回る。その場でくるくるくるんと前に後ろに左右にと回る。よほど嬉しいのだろう。
あとちょっとかわいい。
春愁は首をかしげる。出来るものは出来るし、出来ないものは出来ない。春愁は、そういうキツネだ。