魔王は、目を覚ました。
六曜の一人、五つ目のアーベルが新しく作ったダンジョンの最奥、玉座の間でまた眠っていたのだ。まだ力は完全ではない。この最後のダンジョンは階層が深いから、ここに訪れるもの達から力を貰って、と思っていたのだが。その目論見は、崩れ去っている。
四十階層目にいるボスを斬って捨て、
四十一階から四十九階までは普通のダンジョンだった。出てくるモンスターはどんどん気色悪くなっていて、まるで絵を描くのが下手な子供が書き殴っているようだった。遠近感も狂うし見ているだけで吐き気を催すような。
もっとも、彼らはそうなる前に斬って捨てたから、それほどダメージを受けてはいなかったのだけれど。
最後の長い長い、これまでと比べたら本当に長い階段を下りると、目の前には両開きの扉があった。素戔嗚尊の三倍は大きいその扉を見上げて、なるほどこれだけの距離を下ってきたのかと感慨に耽った。
ことここに来たら猿田彦にやることはないし、
『念のため確認しておくけれど』
心配になったので、櫛名田比売は二柱に声をかけた。
『生け捕りで、姉上の前に、だろう?』
『まあ頭と体が繋がっておれば最悪良かろう。生きておればよいのだ、生きておれば』
とりあえずここまでの敵の強さを見るに、そんなことにはならなかろう、というのが素戔嗚尊と武御雷の見立てであるが。念のため、最終確認は行った。ちょっと暇だったので。
両開きの重いドアが開いた。開けたのは、猿田彦である。よくここまで訪れたと、魔王が言祝ごうとしたところで、剣が魔王の顔の横に突き刺さった。より正確には両刃ではないから、剣ではなく刀だな、などと、魔王は一瞬違うことを考えた。
野性味溢れる男が、魔王の目を覗き込んだ。
『座しているってことは、お前が首魁で間違いないな? 姉上がお呼びだ。否やは言わせん』
魔王が何かを言う前に、男は剣を玉座の背もたれから抜き、鞘に納める。ポケットからぐるぐると巻かれた布を取り出し、それで魔王を拘束した。その布は素戔嗚尊の拳程度の大きさのはずだったのに、ほどいてもほどいてもまだあった。
その間魔王は何も言えず、身じろぎも出来ず、ただなされるがままだった。気が付いた時には拘束され、その男に背負われていた。
驚いていた。それはある。見たところここまでほぼ無傷で来ているようだったし、疲労も感じられない。
目の前の男が、自分に肉薄したその瞬間を、捕えられなかった。それほどまでに自分が鈍っているのだろうか。
それもあるだろう。けれど、そうではない、と魔王の体のどこかがそれを訴えた。どこだ。渦を巻いた角か、それともまだほんのちょっと闇がまろび出ている足の先か。
動けない、というのが正しいのだろう。何故だ、と問うがその答えは出なかった。
魔王は必死に目玉だけを動かして玉座の間を見渡す。他の六曜の者たちは皆打ち据えられていた。ざっと見たところ死んでいる者はいない。しかし誰もが拘束されている。
素戔嗚尊が玉座に詰めたのを横目に、武御雷はなぜか一か所に固まっていてくれた、おそらく魔王の取り巻きだろう六体に向かって印を切る。
右手の人差し指と中指を、左手の人差し指と中指の上に乗せて井の字を作り、それを、魔王の取り巻き達に向けて振りぬいた。
それは、
武御雷はこれまでのダンジョンでの戦闘を踏まえ、大分弱めの雷の網にした。井の印は指を互い違いに組みもせず、ただ左手の指の上に右手の指を乗せただけだ。
移動の阻害が出来なくても、一瞬の隙が突ければそれでよいと思ったが。六曜は、全員がその雷にからめとられた。
武御雷はちょっと面食らったが、まあ考えないことにした。
きっとあ奴らは神ならぬ身であるのだろう。なれば自分の雷に絡め捕られるのも道理。武御雷はそう自分を納得させたが、それは正しい事であった。
『ああそうか。殺してないから地上までの道出来ないのか。おい誰か作れる奴いるだろう。作れ。そうしたらお前たちの首魁を、殺さないでいてやる』
戦闘が終了したのを見て取って、少名毘古那神がそう告げる。魔王たちにしてみれば、どこからともなくそんな声が聞こえると言った状態だ。男の声である、というのだけは分かるが、それ以上の情報は魔王たちにはない。
「無事に、返してくれるというのか」
『いやそれは分からんが』
『ちょっと約束できねぇな』
『彼がよほどのことをしたら、さすがにねぇ』
部屋の中に入ってきたもの達は皆、首をひねる。何をしても無傷で返すなど、空手形を切ることは出来ない。よほどの事がなければ殺されは多分しないだろうから、返すことは出来るだろうが。傷の有無まではちょっと。
『まあ、道を作らなければこいつを引きずっていくだけだからな。傷は増えるだろうな』
魔王を担いだ素戔嗚尊の言葉に、アーベルは地上への直通の魔法陣を設置した。
立ち上がれば五メートルはあるだろう天井に、その角が届くほどの巨体である魔王を、軽々と片手で持ち運ぶ男に、喧嘩を売る必要はあるのかと。そのことに気が付いたのだ。
それにダンジョン内の天井はここほど広くない。上まで魔王様を本当に担いで運ぶとするならば、頭か角か足かが、必ずどこかに当たるのだ。それは、よろしくない。
『お。ありがとうよ。良かったな、無駄な怪我をしないで済んで』
誰も魔法陣に触れていないのに、触れてなどいないはずなのに、一度淡く輝いた。また淡く輝いて。
『大丈夫だ、この魔法陣は地上にちゃんとつながっている』
また男の声がした。姿は見えない。
実際にはとても小さい男が、小さい船に乗っているだけである。知恵の神少名毘古那神が。ただ魔王たちはそれを知らないから、どこからともなく声が聞こえると身震いをしていた。
そうして。
人々の知らぬ間に、魔王は討伐された。正確には討伐されてはいない。彼の首は胴体に繋がっている。
満足に戦うことすらできずに、初めて目にする顕現した神々に拘束され連行された。
ダンジョンは、キツネと天狗が封鎖している。ここは、
魔王がどうなったのかは分からない。
彼は一人高天原に連れていかれ、天照大御神の御前に転がされた。神ならぬその身で、神の愛する地に侵攻してきたのだ。
女神さまが、それはそれは美しく微笑まれたところで、素戔嗚尊は御前を失礼して来たから何も分からない。俺は命じられたことは成し遂げたんだ、あとはもう知らん!
しかしダンジョンはなくなっていない。ああいやこれを作ったのはアーベルの方だから、たとえ魔王が根の国に送られていても維持は出来るのだろうか。
六曜? 彼らは高天原ではなく、中つ国にてまとめてとある屋敷に放り込まれている。彼ら以外の気配はないが、食事も布団も湯殿の用意もされている。手抜かりはない。
ただ、その屋敷から外に出られないだけである。縁側から見える庭には池があり、鯉が泳いでおり、鹿威しがあり、灯篭もある。古式ゆかしい日本庭園であるが、彼らはその庭の散策が出来ない。
当然玄関から外に出ることも出来ない。死ぬことは多分ないので、どうぞゆるりと堪能するがよい。