目次
ブックマーク
応援する
1
コメント
シェア
通報

第9話 Fesseln

 九朗は熱いシャワーを頭から浴びる。先程の戦いで傷付いた身体には、文字通り染み渡るがあちこちに付いた血や汚れを洗い流さなければならなかった。

 シンデレラの読み手マスターにつけられた傷もまだ完全には癒えておらず、その痕跡は至る所に残っている。こんなに傷だらけの身体では暴行か虐待を疑われてもおかしくはない。自らの身体を眺めては病院には行けないな、などと自虐めいた嘲笑を浮かべた。


 浴室から出るが、このまま寝間着を着ては翌朝には血だらけになってしまう。傷の手当が必要だ。ひとまずは下着だけを履いて脱衣所を後にした。


 ワンルームのマンションだ、左程広くはない。キッチンと部屋は繋がっているし、ベッドにテーブルとテレビ、あとはクローゼットがあるだけ。物も大して置いていない。唯一、風呂がユニットバスでトイレと別々になっているのが救いだった。


 ベッドの上には赤ずきんが救急箱を持って待っていた。薄いキャミソールにパンティ姿のラフ……というより淫猥な恰好をしている。赤ずきんは基本的に寝る時はいつもこの下着姿だった。何度寝間着を着ろと九朗が言ったかはわからないが、寝苦しいと言っていつも拒絶をする。


 九朗は赤ずきんの目の前のベッドに腰を掛けた。それを確認すると赤ずきんは救急箱から消毒液とガーゼ、包帯など簡易治療に必要なものをひとつひとつ取り出した。

 そのまま九朗の傷を無言で赤ずきんは治療していった。包帯の巻き方はぐちゃぐちゃであまりうまくないものの、丁寧に一か所一か所手当していった。そして目立つ傷は一通り包帯に覆われていく。


「ありがとう、赤ずきん。すまなかった」


 九朗が礼を述べるも赤ずきんの視線は未だ治っていない生傷を見ていた。


「謝るのはあたしのほうだな。魔導書あたしらと違って人間は傷の治りが遅い。なんか治療するような能力でもありゃよかったんだが、生憎とあたしにはそんな高尚なもんはねぇ。あたしができるのは応急手当こんなことくらいだ」


 そう言うと赤ずきんは九朗の生傷にその白く小さな細い指で触れた。傷に沿うようにその指を優しく微かに触れる程度になぞっていく。少し目が潤みを帯びているようにも見える。その姿は傍から見れば酷く扇情的に映ることであろう。


 居た堪れなくなった九朗は視線を逸らした。ふと、目に入ったのはテーブルの上に置かれた一冊の魔導書グリモワール。その視線に赤ずきんも気付いたように、目を半分伏目ジト目がちにしながら九朗に詰め寄った。


「……んで、魔導書あれどうすんだよ? 契約すんのかよ?」


 九朗としては悩ましい所であった。理由はわからないが、今後も先のように戦闘が続くのであるならば戦力は多い方がいい。特に、九朗は今のところ戦闘では大して役には立たない。狼が目覚めればまた別なのだが、基本的には戦闘は赤ずきん任せである。赤ずきんの負担を減らす為にも契約するのは悪くない選択肢と言える。

 だが、それは赤ずきんのような同居人が増えることも意味する。どうも魔導書グリモワールと言うのは総じて性格に難があるようだ。問題行動を起こされてはたまったものではない。ただでさえ、赤ずきんだけでも手一派なのだ。

 それに、いやこれが一番重要だろう。赤ずきんの機嫌を絶対に損ねることになる。今の関係が良好とまでは思わないが、確実にひびが入るのは明確だ。赤ずきんのこれまでの性格から他の魔導書グリモワールとは相容れないであろう。九朗は頭を抱えるしかなかった。


「……なあ、赤ずきん。そもそもの話なのだが、一人の人間が複数の魔導書と契約することはできるのか?」

「ん? ああ、できるぞ。特に制限とかはねぇな。グリム兄弟クソ親父たちは何冊もの魔導書グリモワールと契約してたしな。……って、てめぇ! やっぱ契約しようとしてんじゃねぇか! ああん?」


 掴み掛かろうとする赤ずきんだが、そもそも九朗は風呂上がりで下着姿であったため、掴むところすらなく手が泳ぐ。


「落ち着け、赤ずきん。今後も戦闘があるなら戦力は多い方がいい。それは、お前だってわかるだろ?」

「わからねぇな! あたしがいれば戦力は十分だ! あたしはまだ本気マジ能力ちからをお前に見せてねぇ! だから十分なんだよ!」


 九朗は必死に説得しようとしている赤ずきんのその様が、何故だか無性に可愛らしく思えてきた。赤ずきんの頭に手を置くとぐりぐりと撫でまわした。


「まあ聞け。戦力もそうだが、それだけじゃない。やっぱり魔導書はずっと独りで寂しいんじゃないかと僕は思うんだ。お前と同じようにずっと孤独に耐えているんだと思う。だから、少しでも解放してあげたいと思うのは傲慢だろうか?」


 いつまでも撫でまわす九朗の腕を振り払うと、赤ずきんはそっぽを向いた。


「けっ。そう言えばあたしが納得するとでも思ってるんだろうが、お生憎様だぜ。お人好しもそこまでにしておけ所有者マスター。お前は勘違いしてやがる」

「勘違い? 何をだ?」


 赤ずきんは九朗の顔をじっと見つめる。九朗はその深紅の瞳に吸い込まれそうになる。


魔導書グリモワールがすべてってことだ。お前だってグリム童話を読んだことがあんだろ? 中には話の性質上救いようのないのがいくつもありやがる。そのためか、人間を道具ゴミカス程度にしか思っていないやつもいやがる。性善説はやめておけ」

「……しかし、お前たちは読み手マスターを必要とするじゃないか」


 赤ずきんはひとつ溜息をつくと、頭を掻きむしりながら話を続けた。


「あんまりこういう事は言いたくねぇんだが、赤ずきんあたし灰被りアシェンプテルなんかは愛した男マスターさえ居ればいいタイプだ。そういう意味での読み手マスターは必要だ。逆に読み手マスター道具ゴミカスにしか思ってないやつは、そういう感情では動いてねぇ。例えば人間を恨んで利用しているって場合もあるしな」


 赤ずきんは九朗に背を向けるとそのまま身体を九朗の方へと倒し、ちょうど九朗の腕にもたれかかるように背中を預けた。


「それは戦闘のタイプにも反映される。魔導書グリモワール本人が戦うか、読み手マスターに戦わせるかだ。あたしらは基本的に読み手マスターを守るため自分が戦う側だが、読み手マスターを強化して戦わせるやつもいるってことだ。奇妙な音楽家デア・ヴンダーリッヒ・シュピールマンなんかいい例じゃねぇか。あいつは人間を操る。あいつの読み手マスターはおそらく斧を持った木こりだろうな。話の中でも操られてるしな。自我とか自意識とか吹っ飛ばして操り人形化してるだろうよ」

「しかし、読み手マスターが死んでしまったらお前たちは存在できなくなるのだろう? 戦闘に出したら危険なのではないか?」

「確かに危険度はたけぇな。それしか能の無いやつはしかたねぇ。が、一部の例外を除く大体の魔導書グリモワールは、読み手マスターが死んでも一定時間は存在できんだよ。まあ、長くても一日ぐらいじゃねぇか? さすがに戦闘は無理だろうけどよ。その間に新しい読み手マスター見つけて、再契約すればいいだけだ。そして、道具ゴミカス扱いしてるやつらは、それを容易に成し遂げられるやつがほとんどだ。音楽家シュピールマンだって人間を操れるんだ。読み手マスターの代わりはいくらでも作り出せるんだろうよ」


 自分の意思とは無関係に操られ、強制的に読み手マスターにさせられる様を九朗は思い描いた。考えただけでも恐ろしい。背筋に冷たいものが走り、少し肌寒くなってきたので、九朗は赤ずきんを押しのけて寝間着を羽織り出した。


「そうか……なら、僕が死んでも、一応お前はまだ新しい読み手マスターを探す時間があるんだな」


 九朗がそう言うと赤ずきんは乾いた笑いと、悲しそうなそれでも嘲笑うかのような奇妙な笑みを浮かべた。


「けっ。そうなったらこの世に未練はねぇよ。その場で後を追ってやるさ」


 そういうと右手の人差し指と親指を上げ、自分の顳顬こめかみへと当てた。まるで銃口を突き付けるかのように……。


「……それは……そんなことをされても、僕は喜びはしない」

「いいんだよ、気にするな。別にこの肉体が消滅しても、あたしの本体は魔導書グリモワールだ。そっちがどうにかならなきゃ消滅はしねぇよ。まあ、二度と現世は拝めないかもしれないがな」


 これ以上この話を続けるのは悲し過ぎると九朗は思い始めていた。どういうつもりで赤ずきんが言ったのかはわからないが、そこまで自分に固執する理由が九朗にはわからなかった。


「話を戻そう。安易に魔導書と契約をするなという忠告は聞こう。……それで、この魔導書は一体どんな物語なんだ?」


 九朗は魔導書グリモワールを手にして赤ずきんの前に差し出した。赤ずきんは明らかにふてくされたように頬を膨らませて、九朗から視線を逸らした。


「……言いたくねぇ」


 何か臍を曲げることを言ってしまったであろうか。しかたなく、九朗はひとつ溜息をすると魔導書グリモワールを棚へと仕舞い込んだ。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?