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第7話 Der Wunderliche Spielmann -eins-

 朝日が昇るにはまだまだ早い深夜。九朗は遅くまで続いていたバイトを終え、帰路へとつこうとしていた。

 手元の時計では二時過ぎを廻ったところだ。さすがにこの時間なら赤ずきんは寝ている頃だろうか。いや、きっと起きているだろう。最近の彼女はゾンビを撃つテレビゲームに熱中しており、夜遅くまで起きていることがよくあった。今日のように深夜帰宅することが度々ある九朗は、誰かが家で起きて待っていてくれるということだけで嬉しいものだった。実際のところ、わざと九朗が帰ってくるまで赤ずきんは起きているのだが、当の本人は知る由もない。


 腹を空かせてはいないだろうか。いや、そんなことはないだろう。ああ見えて実は赤ずきんは料理ができるのだ。腹が空けば自分で作って食べるであろう。できるのはドイツの家庭料理のようなものだが、意外と料理だけでなく家事自体は一通りできるのだ。その料理は味も悪くなく、九朗には食べ慣れていない料理ではあったが、たまに振舞ってくれるので重宝していた。だが、赤ずきんは大酒飲みであり、一人でワインボトルを飲み干す。一本だけならまだしも放っておけば何本でも開けてしまう事だろう。


 そういえば以前近くにオーセンティック・バーがあった事を九朗は思い出した。小さいながらも雰囲気の良いお店で、店主であるバーテンダーが一人で切り盛りしていたはずだ。いつの間にかなくなってしまっていたが、昨今の不景気の煽りを受けて畳んでしまったのであろうか。赤ずきんを連れて一度くらい行ってみたかった、と九朗は思ったが、見た目がどう見ても未成年の幼女にしか見えない赤ずきんをバーに入れるのはさすがに無理があるかと思い直した。


 そんな事を考えながら夜道を歩いていると、ふと薄暗い街灯に照らされた電信柱の下に、深緑色のつば広帽トリコルネに、深緑色のケープコートを着た男性がひっそりと座っていた。


 見るからに怪しい人物と言えるだろう。こんな夜更けに一人で、こんなところに座っている人物が怪しくないわけがない。さらに、その手に握られているのは踊る擦弦楽器フィドルではなく歌う擦弦楽器ヴァイオリン

 さすがの九朗も見るからに怪しいこの人物を警戒した。普通に不審者である。酔っ払いか何かかもしれない。


「こんばんは、お兄さんヘア。いい月夜ですね」


 前を通り過ぎようとした時に男に声を掛けられた。妙に高い声の男だった。九朗は男の方を一瞥はしたが、立ち止まることはなくその前を通り過ぎた。


「おや、無視とは酷いなお兄さん。……そんな無防備では背後から刺されても文句は言えませんよ」


 背後からした男の物騒な言葉にすぐさま九朗は後ろを振り向く。男は座っていた姿からゆっくりと立ち上がり、九朗の方へと身体を向けた。


「どうです一曲? こんな退屈な月夜には音楽でもないとやってられないでしょう?」


 そう言うとその音楽家の男はヴァイオリンを肩へと担ぐと静かにその弦を弾き始めた。

 音楽家が奏でた音色は静かな寂しい音楽だった。何かもの悲しさを感じる冷たいイメージを聞いたものに植え付けるような。そんな印象を抱く音色だった。


「素敵な音色でしょう? さあ、弟子が師匠の言いつけを守るように、何でも私の言う通りにしないきゃいけませんよ?」

「……何故ですか?」


 率直に九朗は何を言っているのかわからなかった。音楽を奏でて自分の言うことを聞けとはどういう了見なのだろうか、と。


「なに? 私の言うことが聞けないのか?」


 音楽家はその帽子の下の目を見開いて驚愕の表情を浮かべていた。


「言っている意味がよくわからないのですが……?」


 九朗の言葉に男は激高したような憤怒の表情を浮かべ、弾いていたヴァイオリンの曲調を変えた。今度は激しく。喧しく。痛々しく。最早とても音楽とは言い難い音の暴力がそこにはあった。


 あまりの酷さに九朗は顔をしかめるが、音楽家の周囲に何やら影のようなものが集まりだしたのに気が付いた。目を凝らすと、それは大きさや種類の様々な犬や猫。それに空からは鳴き声と共に鴉が幾羽も舞い降りてきた。そのすべての動物が九朗の方向を凝視していた。


 ここに来て九朗はこの男が普通の人間ではないことに気付いた。おそらくはこの音楽で動物を操っているのであろうことは瞬時に予測がついた。


「あんなものにもう用はない! 死ね!」


 音楽家がそう言うと、周囲の動物たちは一斉に九朗へと襲い掛かってきた。


 ひとまずその場を全速力で九朗は駆け出すが、しかし追ってくるのは人間ではなく動物。身体能力の違いからかすぐに数匹に追いつかれた。

 塀の上から猫が飛びかかり九朗の腕に爪痕つめを残す。背後からは犬が飛びかかり九朗の足に牙跡きばを残す。空から鴉が飛びかかり九朗の顔に嘴跡くちばしを残す。素早く飛びかかる動物たちの攻撃を九朗は躱しきれずに、徐々に身体中に傷痕が増えていく。


 それでも九朗は駆け出す。この異変にさすがの赤ずきんも気付いている事だろう。赤ずきんが来るまで耐えなくてはならない。決してこの場で狼になってはならない。


 そうやって走っている九朗の視線の先に、薄暗い道の真ん中に、一人の男が立っていた。ボサボサの黒髪で茶色のインパネスコートを着た男性。歳は四、五十代程であろうか。


「キミたち何をしている!」


 男が叫ぶ。一般人を巻き込むわけにはいかない。九朗も咄嗟に叫んでいた。


「逃げてください! ここは危険です! はやく!」


 そんな九朗を見て、男は何か頷くと懐から一本の筆を取り出していた。かと思うと、その筆を空中で翻し、まるで絵を描くかのように、宙に光り輝く文字とも記号とも取れる線を作り出していた。その線がうねうねと動き出して形を変えては一定に並び始めた。と、同時にその線からは燃え盛る炎が巻き起こり、九朗に纏わりついていた獣たちをその内へと飲み込み始めた。


 辺りに獣の断末魔と血と肉の焼ける臭いが充満する中、九朗のさらに後ろから音楽家が追い付いてきていた。

 さらに男は、空中に絵を描く。今度はその絵が徐々に剣の形を成していく。その形がはっきりとした時、驚くべきことにそこには鈍く鉛色に光り輝く剣が出現していた。その剣は何の力か、真っすぐに音楽家へと飛んで行った。


 突然の事に音楽家が動けないでいると、横合いから鴉が飛び出し、まるでかばうように自ら剣へと刺さり犠牲になった。勢いを失ったためか鴉共々剣は道へと落ち、光り輝いた後霧散した。


「なっ……、ちっ……!」


 状況が不利と理解したのだろうか、音楽家はそれ以上の追撃を止め、元来た道を闇夜に紛れ駆け抜けていった。


 九朗は何が起きたのかわからなかった。一つ分かることは、目の前のこの男は普通の人間ではないこと。炎や剣を出せる人間など手品師でない限り有り得ないだろう。最大限の警戒をする必要性があるだろう。


「危ない所だったね。ケガをしているね。早く治療した方がいい。だが、その前に教えて欲しい。キミは何故魔導書グリモワールに襲われていたのだ?」

「魔導書を知っているということはあなたも読み手マスターなのですか?」


 九朗は警戒を強めた。読み手マスターならば敵の可能性も高い。


「残念ながら私は違う。魔導書グリモワールを所持してはいるが、読み手マスターではない。それよりキミの事を教えてくれ。何故と戦っていた? キミは魔導書グリモワール読み手マスターなのか?」

「……」


 九朗は沈黙を貫いた。まだ信用できるとは限らない。時間を稼ぐ必要がある。さすがにそろそろ赤ずきんも来る頃だろう。赤ずきんならこの男のことも知っているかもしれない。


「ああ、すまない。そんなに警戒しなくても大丈夫だ。私はエーミール。しがない絵描きだよ。キミの名前は?」

「……久我九朗です。先程は助けて頂きありがとうございます」

「クガクロウ……? ああクロウが名前か。すまない、日本の文化にあまり慣れていないんだ。それより先程の質問に答えてほしいな」


 エーミールと名乗ったこの男を信用してもいいのだろうか。九朗は判断しかねていた。だが、事情を少しでも知っているのならさっきのことぐらいは話をしてもいいとは思っていた。


「はい、僕は魔導書の所有者マスターです。おそらくそのために襲われたんだと思います」

「クロウくん、キミは聡明だね。何の魔導書グリモワール読み手マスターか口にだそうとしない。安心したまえ。少なくとも私はキミの敵ではない。味方かどうかはわからないが、少なくともキミのことは今初めて知った。知った上でなお、キミと敵対する理由を私は持ち合わせていない。これだけで納得はしてもらえないだろうか?」


 エーミールの言葉はおそらく事実であろう。それにもし敵対するつもりならそもそも助ける必要性もなかったであろう。


「わかりました。納得します。エーミールさん、あなたは一体何者なんですか?」


 魔導書グリモワール読み手マスターでもないというこの男は、一体何者なのか。異能の力を魔導書グリモワールなしに行使しているこの男は何なのであろうか。


「ふむ、魔導書グリモワールに関わる以上説明をしてあげたいところだが、生憎と今は時間がない。私も追われている身でね。……そうだ、きみにこの魔導書グリモワールを託そう」


 そう言うとエーミールは懐から一冊の魔導書グリモワールを取り出し、九朗へと手渡した。


「これは……?」

「預かっていて貰いたい。私が持っていては危険が及ぶ。もし、キミに覚悟があるなら読み手マスターになってくれても構わない。いや、もう既に魔導書グリモワール読み手マスターになっているのだから覚悟は十分だったな。それならばきっと君の力になってくれるだろう。それでは私はもう行くよ」


 そう言うとエーミールは筆で宙に先程と同じように奇妙な線を描く。その線に呼応してか、エーミールの身体は光り輝き、色取り取りの蝶になり宙に舞い上がり、そして暗闇の空へとその姿を消した。


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