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第6話 Bettgeflüster

 久我九朗は目を覚ました。目の前に見えるのは見知った天井。気が付いたら自分の部屋のベッドの上にいつの間にか寝かされていた。


 身体を起こそうとするが、身体中が悲鳴を上げている。王子に穿かれた傷が痛む。見れば上半身は裸で至る所に雑に包帯が巻かれていた。血が滲み赤黒くなっているところもある。

 赤ずきんがやってくれたのだろうか。ふと、部屋にいるはずの彼女の姿を目で探す。なんてことはない。すぐ隣で寝息を立てていた。何故か裸で。


 そんな彼女に背を向け九朗は何があったかを思い出す。


 嗚呼、自分はまた狼になってしまったのだった。狼は九朗が死の淵に立たされると目を覚ます。そうなってしまっては、最早制御は利かない。朧気ながらに意識はあるのに身体は別の意識に乗っ取られているかのように行動する。本能という名の狂気に。

 その状態の九朗に理性はない。あるのはただの殺戮衝動と享楽衝動だけ。ただの男を殺したい殺戮衝動と女を犯したい享楽衝動だけ。その後に残るのは凄惨な現場のみ。


 自分が何者かに変わってしまう恐怖。本能のままに欲望を満たす恐怖。それを俯瞰してるだけで何もできない恐怖。昨夜のことを思い出すだけで身体中の震えが止まらない。


 いっその事死んでしまいたい。死んでしまえば楽になる。だけれども、死ねない。死ぬことはできない。死ぬこともまた耐え難い恐怖だからだ。そして、狼は死ぬことを許さない。身体の震えは止まることはない。


 ふと、背中に温もりを感じる。温かくてやさしい熱がじんわりと伝わってくる。小さくて白くてか細い腕が九朗の胸へとまわされる。それだけで、九朗の震えはもう止まっていた。


「大丈夫だ。安心しろ。あたしがいる」


 赤ずきんにしては珍しく優しい言葉が九朗に投げかけられる。


「……僕はまた狼になったのか」

「ああ」

「……シンデレラとその読み手マスターはどうした?」


 一瞬の沈黙が辺りを支配する。


「……死んだよ。……お前が殺した」


 ああ、またか。九朗にはわかっていたことではあるが、赤ずきんの口から聞かされると心が抉られる。

 自分が生き残るためとはいえ、誰かを犠牲にしたことは事実。その罪悪感は今まで『殺し』などとは無縁の生活を送っていた九朗にとっては、言葉以上の重しとなっていた。


「……正当防衛だろ。お前たち人間……というよりか生物は本能的に死を恐れるもんだろうが。あたしら魔導書ばけものと違って。だから、誰も悪くねぇよ。お前は殺されそうになったから殺した。それでいいじゃねぇか」


 言葉ではわかっている。九朗としても死にたくない。死にたくないならどうする? 相手を殺すしかない。そうじゃないと殺される。それを正当防衛と言うならばそうなのであろう。だが、それでも九朗の罪悪感は拭えない。


「……わりぃ。つらい思いさせちまったな。全部あたしのせいだ」


 そう言うと赤ずきんは九朗を抱きしめている腕に力を込めた。


「……あたしは……あたしは呪われた童話メルヒェンだからな。失われた禁断の魔導書ロスト・グリモワール。数多くある原典と言われる口伝の物語のひとつ。決して存在することが許されない。決してあってはならないヴィランを愛した赤ずきんの話。元々の話の内容が歪んでるからな。性格まで歪んでいやがる」


 九朗の背中に冷たい雫が伝わる。


「もし……もし、お前が望むなら……今ここで契約を破棄してもいい。そうすれば、あたしはまた元の魔導書グリモワールに戻り、お前は晴れて自由の身だ。こんな馬鹿げた殺し合いに巻き込まれることもない。元の……平穏な生活に戻れるだろうよ。あたしの事は気にすんな。今までだってずっと独りだったんだ。孤独には慣れてるよ」


 慣れていると言った割にはその声は寂しそうに震えていた。心なしか抱きしめている細い腕も小刻みに震えているようにも思える。


 孤独。赤ずきんは生まれてからずっと独り。危険な魔導書として封印されてからずっと独り。父親グリムからも疎まれてただ独り。何百年とただ独り。

 それは九朗も同じだった。生まれてから両親に疎まれ。望まれていない生。天涯孤独の身の上。所詮は似た者同士。傷の舐め合い。共依存。だから。だからこそ。孤独は耐え難い。


「……僕も孤独だった。だからわかる。孤独はつらい。孤独はさびしい。誰からも相手にされず、誰の視界にも入らない。誰からも認識されない。まるで存在を否定されて、世界から爪弾きにされたような……そんな気持ちになる。心が壊れそうになる。押し潰されそうになる」


 そっと九朗は赤ずきんのその小さな手を握りしめる。


「……だから、僕はお前を独りにしない。孤独には戻さない。お前の傍にずっと居る。例え世界中がお前の敵になっても。例え僕のこの手が血に塗れようとも」

「……所有者マスターこっち向けよ」


 ゆっくりと九朗は赤ずきんの方に身体を向ける。金糸のようなサラサラとした金髪に、ぱっちりとした深紅の瞳。一糸纏わぬその姿は起伏が少なく女としては魅力に劣る身体ではあるが、その胸の桜色の先端だけははっきりと主張をしていた。


「どこ見てんだよ変態ロリコン。殺すぞ」

「……裸でいる方が悪い」


 赤ずきんは九朗の胸板へとそっと頭を寄せた。


「あたしはただ……ただ、普通にお前と生活がしたいだけなんだ。一緒に飯食って、一緒に寝て。……望んでるのはただそれだけなんだ。他の魔導書グリモワールなんてどうでもいい。グリムおやじ達が裏で何か企んでいたとしてもあたしにはどうでもいい。あたしにはお前がいればそれでいい。だから……」


 赤ずきんは九朗の背中へと腕を回しきつく力を入れた。


「だから、この平穏を邪魔するやつは許さねぇ。必ず殺す。それが誰であろうとな。生みの親グリムだろうと関係ねぇ。お前を殺そうとするやつは、お前をあたしから奪おうとするやつは全員殺す。皆殺しにしてやる」


 赤ずきんが顔を上げ九朗の瞳を見つめる。近くで見れば幼い顔つきながらも、とても美しい。とろんと濡れた瞳で見上げられれば、誰でもその誘惑に負けてしまいそうな扇情的な瞳をしていた。


「まあ、とはいえお前はそうそう死なねぇけどな。狼は童話の天敵だ。数多くの童話の敵は狼なんだよ。時代背景もあるだろうが、それだけ恐れられた存在なわけだ。ぶっちゃけあたしより強いかもしれねぇぞ、お前」


 褒められているのか貶されているのか、いまいち判断に困っている九朗。赤ずきんの視線から顔を逸らし部屋の隅を見つめるようにつぶやいた。


「なるべくなら、戦いたくはないな。痛いのは嫌だ。死ぬのも殺すのも勘弁して欲しい」

「大丈夫だ。安心しろ。お前の敵はあたしが殺してやる。誰だろうと殺してやるよ。……まあ、守ってやるとは言えないけどな。あたしは受けるより攻める方が好きなんだ」


 そういうと赤ずきんは九朗の胸に顔を埋め、静かに目を閉じ寝息を立て始めた。眠気が強かったのであろうか。九朗は美しい金糸のようなその髪の頭を静かに優しく慈しむ様に撫でた。


「おやすみ、赤ずきん」


 だが、そんな平穏はそう長くは続くことはなかった。


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