これは体育祭の少し前のお話―
白崎先生は、かつてないほどの緊張を覚えていた。
生徒たちの前で話すことも、校長に意見を述べることも、問題児を指導することも、すべて冷静にこなしてきた。しかし、今日だけは違う。
「……ふぅ……落ち着け、俺……」
彼は、手に汗を握りながら列に並んでいた。そう、今日は天王寺リナの握手会。
ライブビューイングでの興奮冷めやらぬまま、衝動的にチケットを申し込んだのがすべての始まりだった。そして今、整理番号順に列が進み、推しとの距離が縮まっていく。
——しかし。
(……列、短くないか?)
周囲を見渡すと、他のメンバーのレーンは長蛇の列ができているのに対し、リナのレーンだけは明らかに人が少なかった。
(ま、まだ彼女は若いし、これから人気が出る……はずだ……)
自分に言い聞かせるようにして、ついに白崎先生の番がやってきた。
「はい、どうぞー!」
心臓がバクバクと高鳴る中、視線の先にいたのは——
「こんにちはー! 来てくれてありがとう!」
天使だった。
いや、天使などという言葉では足りない。目の前の天王寺リナは、輝くような笑顔を浮かべて、キラキラとこちらを見つめている。
(うっ……やばい……直視できない……)
顔を赤らめながらも、白崎先生は震える声で言葉を絞り出した。
「き、君のパフォーマンスは本当に素晴らしい……! いつも全力で輝いていて、見ているだけで力をもらえる。今日も最高だった……!」
「ええっ、本当ですか!? すごく嬉しいです!」
ぱっと花が咲いたような笑顔。
(俺は……俺は今、推しに感謝の気持ちを伝えたんだな……)
白崎先生は、感動で涙が出そうになった。
「これからも応援……している……!」
「ありがとうございますっ! えっと、お名前は——」
リナが聞きかけたその瞬間。
彼女の目が、ピタリと止まった。
「……」
「……?」
一瞬、沈黙が生まれる。
リナは、白崎先生の顔をじっと見つめ、何かを考えるような表情を浮かべた。そして、次の瞬間——
「……えっ、先生!?!?」
白崎先生「!?」
リナは明らかに動揺し、一歩引いた。
「ちょ、ちょっと待ってください、先生って、あの佐倉迅の担任の!?」
「えっ、あ、いや……」
「えええええ!?!?!? いやいやいや、ちょっと待ってください、うそでしょ!? うちの兄貴の担任が……推し……!? えっ、えっ、えぇ……(絶望)」
リナは白崎先生を見る目が、完全に「見てはいけないものを見てしまった」という表情になっていた。
(ま、まずい……これは、非常にまずい……!!)
白崎先生は必死に弁解しようとしたが、リナの動揺は収まらない。
「え、ちょ、待って、あの兄貴が通ってる学校の先生が、なんでここにいるんですか!? しかもなんで私のレーンに並んでるんですか!? えっ!??」
「い、いや、これはだな……」
「しかも、ライブの時めっちゃ叫んでませんでした!?『リナーーーッ!!今日も最高にかわいいぞーーー!!!』とか!!!」
「」
完全に詰んだ。
リナは、先生の手を握ったまま、絶望に満ちた顔で固まっている。
そして、その表情のまま、絞り出すように言った。
「……兄貴に言いますからね。」
「やめろおおおおおおお!!!!!」
「お時間でーす!」
スタッフの声が響いたが、白崎先生はそれどころではなかった。
(迅に知られたら……俺はもう教師としての威厳を失う……!!)
パニックになりながら、先生は震える足で握手会ブースを後にした。
——その直後。
「……先生?」
「!!?」
聞き慣れた声に、白崎先生の体が固まる。ゆっくりと振り向くと、そこには佐倉迅が立っていた。
「……お前、また見たのか?」
「いや、見たくなくても目の前で先生が推しに浄化されるの、めちゃくちゃ目立ってましたよ。」
「……」
「てか、先生、うちの妹にめっちゃ引かれてましたけど、大丈夫です?」
「……」
「で、どういうことですか? 俺の妹のオタクって。」
迅の目は、明らかに軽蔑の色を帯びていた。
「……あの、その……」
「まさかとは思ってましたけど……先生ってガチのオタクだったんですね。」
「……いや、これはだな、推し活の一環というか……」
「教師の威厳とは?」
「」
「しかも、俺の妹を推してるとか……無理っすわ……」
迅は、心底ドン引きした顔で先生を見下ろし、ため息をついた。
「ちょっと距離置いていいですか。」
「待て! 迅! 誤解だ!!」
「どこが?」
「俺は、俺はただ純粋に応援してるだけで——」
「リナーーーッ!!!今日も最高にかわいいぞーーー!!!(回想)」
「……」
「……」
「……無理っすわ。」
こうして、白崎先生の"秘密の休日"は、推し本人によって暴かれた挙句、迅にドン引きされるという最悪の結末を迎えたのだった。