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19「バベッジ博士の五原則」


 何かが体の奥から締め付けてくる感覚に、ライアンは片膝をついた。


 視界の端で酸素残量:9%の警告が赤く点滅する。


(ヤバい……)


 頭がぼやけて足の感覚が遠のく。ウプシロンの声が何かを伝えているのは分かるが、その意味を処理する速度が追いつかない。


『酸素供給レベル低下中——残存量9%』


 焦りが胸を締め付けた。


 酸素が圧倒的に足りない。喉が焼けるように乾き、指先が氷のように冷たくなる。


 それだけじゃない。

 重力が揺らいでいる。


 意識が霞む中で、ライアンは異変を感じ取った。B-99区画の気圧が異常に低下している。足元の金属床には、細かなひび割れが走っていた。


 ――長年の放置で劣化したパネル。

 ――酸素の薄い空気。

 ――熱がこもった淀んだ気流。


 そして何より——身体が軽すぎる。


(まさか、空調制御が完全に止まっているのか……?)


 脳が酸欠で鈍る中、ライアンは無意識にヘルメットの供給バルブを探った。だが、指がうまく動かない。


「ライアン、集中して。酸素の節約を」


 ウプシロンの声が、微かに緊張を帯びていた。


「クソッ……」


 彼女の声を頼りに、ライアンは懸命に酸素供給バルブを調整しようとする。だが——遅かった。


 ガンッ——!


 背後で重厚な金属ハッチが落ちる音がした。

 同時に、通路の先で異常な光が煌めく。


 それは、封鎖プロトコルが起動した合図だった。


「ハッチが閉まった……⁉︎」


 霞む意識の中、ライアンは必死に端末にアクセスしようと試みる。しかし、次の瞬間、目の前の警告画面に無情な文字が浮かび上がった。


『外部環境制御、遮断』

「おいおい、ふざけるな……ッ!」


 必死に立ち上がろうとするが、酸素不足がライアンの動きを鈍らせる。ウプシロンが冷静に次の行動を指示するが、それすらも頭に入らなくなり始めていた。


「ライアン、今すぐ私の指示に従って」


 ウプシロンの声が機械的な落ち着きを保つ中、ライアンは虚ろな目で見上げた。彼女の黄金の瞳が、じっとこちらを見つめている。まるで全てを計算し終えたかのような、冷静で、それでいてどこか不気味な表情だった。


「大丈夫。あと数秒の我慢だから」

「何が……?」


 その瞬間、ウプシロンが壁面の端末を操作し、低い振動音と共に天井から酸素供給ユニットが開放された。


「ッ……!」


 ライアンの頭上で高強度カーボンポリマー合金製のカプセルがスライドし、内部から小型のO₂カートリッジが自動射出される。


 B-99区画仕様のそれは彼のスーツのインターフェースに向かって一直線に飛来し、ワンタッチで装着された。同時に、折りたたまれていた緊急用のE-Breatheマスクが展開。周囲に漏れ出た空気を一瞬で取り込み、ヘルメット内部の密閉環境を瞬時に整える。


「お前……どうやって……?」

「計算通りよ。封鎖プロトコルの構造を利用しただけ」


 ウプシロンは微かに口角を上げたが、ライアンにはその余裕が苛立ちに映った。彼の防護服が自動的に外部供給モードに切り替わり、ヘルメット内部に酸素が流れ込む。


 焼けるようだった喉が一気に潤い、視界がはっきりと戻った。


「一歩間違えれば、俺は窒息死してたんだぞ……!」

「でも、死んでいない。結果が全てよ」


 彼女の冷静な言葉に、ライアンは壁にもたれながら荒い息を吐いた。


 酸素供給ユニットが作動し、防護服内部に冷えた空気が流れ込む。喉の灼けるような痛みが僅かに和らぎ、肺に十分な空気が満たされていくのを感じた。


 ——まだ動ける。


 意識の混濁が引き、指先の感覚が戻る。酸欠で痺れていた四肢をゆっくりと動かしながら、ライアンは頭上を見上げた。


 天井のパネルが微かに軋んでいる。

 そこから白い霧がゆっくりと漏れ出していた。


「なんだよあれ――もしかして冷却材か?」


 船内の環境制御システムが停止し、冷却装置のシールが剥がれたせいだろう。普段なら気圧や温度を一定に保つシステムが働くが、今のセクションB-99ではそれすらも機能していない。


 冷却材が気化することで、局所的に気圧が低下している。このままでは空間そのものが不安定化する——そんな予感がした。


「ねえ、ライアン」


 ウプシロンの冷静な声が響く。


「立てる?」


 視線を移すと、彼女は壁際の端末の前に立ち、ホログラムを操作していた。左眼に黄金の光が揺らめき、何かを計算している。


 ライアンは息を整え、膝に力を込める。


「……ああ。なんとかな」


 だが、その瞬間、足元の床が僅かに沈んだ。


(——まずい)


 周囲の金属が微かに軋む音を立て、重心が一瞬だけ揺れる。まるで船の一部が、じわじわと歪んでいるかのようだった。


「時間がないわ。ここに長く留まれば、低気圧による窒息だけじゃなく、船体そのものの崩壊に巻き込まれる」


 ウプシロンが淡々と告げた。


「補助アクセスハッチを通って、この区画を離れるわよ」


 ウプシロンの言葉に、ライアンは視線を巡らせた。


 壁際の端末が警告を発しながら点滅し、天井近くのパネルが僅かに開いている。そこにあったのは、幅1メートほどの狭い開口部だ。


「……ここを通るのか?」


 ライアンは顔をしかめた。明らかに防護服を着た人間が通るには無理がある空間だ。


「本来は船内ドローン用の経路よ。だけど、メインのハッチは封鎖されていて地上には戻れない。かなり遠回りすることにはなるだろうけど、これ以外に道はないの」


 ウプシロンは端末を操作し、耐圧性のある強化カーボンフレームパネルを完全にスライドさせた。内部は驚くほど暗く、通路の頭上からは配管やケーブルが張り巡らされている。


 奥行きの先が見えないほどだった。


「最悪だな……」


 ライアンは奥歯を噛み締め、呼吸を整える。


「そういえば、オートノームはどうすんだよ?」


 その問いに、ウプシロンは視線を動かし、背後に待機する二体の機械を見やった。


「彼らも同行する。あなたの護衛だから」


 オートノームたちは無言で静止したままだった。その銀色の装甲が、警告灯の赤い光を鈍く反射している。


 ——動かない。


 まるで何かを待っているかのように、彼らは一切の動作を見せなかった。普段なら警戒モードの僅かな駆動音が響くはずなのに、それすらもない。


 その異様な光景に、ライアンが僅かに眉をひそめた。


「おい……嘘だろ?」


 その瞬間——警告灯が一度だけ、点滅した。

 何かを告げるように、低い電子音が響く。


 ライアンは僅かに眉をひそめ、オートノームに目を向けた。二体の機械は相変わらず静止したままだ。しかし次の瞬間、左側のオートノームが微かに揺れる。


 それは単なる動作ではなかった。

 金属製の関節部がぎくりと震え、僅かに右腕の装甲が展開する。内部から短距離用のプラズマブレードが覗いた。


(おい、待てよ。まさかコイツも——)


 ライアンは本能的に身構える。

 声をかけた瞬間——ガンッという轟音とともに、オートノームが踏み込んで床を蹴り上げ、ライアンに向かって突進した。


「——ッ⁉︎」


 ——ありえない。


 恒星間入植船Phageファージに配備されたアンドロイドは、すべてバベッジ博士が考案した「五原則」 によって統制されている。その中には 「人間に危害を加えないこと」 が絶対的にプログラムされているはずだった。


「五原則」——それは、この宇宙船において機械たちが人間と共存するための絶対的なルールだった。


 第一原則:アンドロイドは、いかなる理由があっても人間を傷つけてはならない。

 第二原則:アンドロイドは、人間の命令に従わなければならない。(ただし、第一原則に反する場合を除く)

 第三原則:アンドロイドは、第一原則及び第二原則に反する恐れのない限り、自己の機能を保持し続けなければならない。

 第四原則:アンドロイドは、自己の意識を持たず、人間の意志を代行する存在でなければならない。(自律した知性の発生を防ぐ)

 第五原則:アンドロイドは、人間社会の秩序を維持することを最優先としなければならない。


 もしも、これらのルールに違反する行動を取れば、アンドロイドは即座に自己破壊プロトコルを発動する。それが、恒星間入植船Phageファージ-No.χカイの統治機構 N.O.V.A が定めた「鉄の掟」だった。


「クソッ……」


 だが——今、目の前でオートノームは絶対的な原則を無視し、彼を明確な敵と認識している。


 ライアンは咄嗟に身を翻し、迫り来る鋼鉄の拳を避けた。その刹那、オートノームの目が赤く光り、内蔵プラズマブレードが展開される。


「人間モドキ……何が起きてんだ⁉︎」


 反射的に身を翻すが、次の瞬間にはオートノームの鋼の腕がすぐ目の前を薙ぎ払った。鈍い衝撃が壁を揺らし、そこに設置されていた端末が一瞬で粉砕される。


「ライアン!」


 ウプシロンの声が響く。床に転がるようにして距離を取ると、ライアンはオートノームの異様な様子に気づいた。


 ——目が、赤く点滅している。


「またかよ……何の冗談だ?」


 オートノームは護衛モードのはずだった。それが、今は敵意剥き出しの兵器のように襲いかかってきている。距離を取ったウプシロンが素早くホログラムを展開し、解析を試みた。


「システム異常……いいえ、外部信号による強制的な再起動ね。制御権を奪われている可能性があるわ!」

「制御を奪われただと……?」


 ライアンが叫ぶが、彼女は応えない。

 次の瞬間、オートノームが再びライアンへと殺到する。


「クソッ……!」


 避ける間もなく、鋼鉄の腕が振り下ろされた。

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