何かが体の奥から締め付けてくる感覚に、ライアンは片膝をついた。
視界の端で酸素残量:9%の警告が赤く点滅する。
(ヤバい……)
頭がぼやけて足の感覚が遠のく。ウプシロンの声が何かを伝えているのは分かるが、その意味を処理する速度が追いつかない。
『酸素供給レベル低下中——残存量9%』
焦りが胸を締め付けた。
酸素が圧倒的に足りない。喉が焼けるように乾き、指先が氷のように冷たくなる。
それだけじゃない。
重力が揺らいでいる。
意識が霞む中で、ライアンは異変を感じ取った。B-99区画の気圧が異常に低下している。足元の金属床には、細かなひび割れが走っていた。
――長年の放置で劣化したパネル。
――酸素の薄い空気。
――熱がこもった淀んだ気流。
そして何より——身体が軽すぎる。
(まさか、空調制御が完全に止まっているのか……?)
脳が酸欠で鈍る中、ライアンは無意識にヘルメットの供給バルブを探った。だが、指がうまく動かない。
「ライアン、集中して。酸素の節約を」
ウプシロンの声が、微かに緊張を帯びていた。
「クソッ……」
彼女の声を頼りに、ライアンは懸命に酸素供給バルブを調整しようとする。だが——遅かった。
ガンッ——!
背後で重厚な金属ハッチが落ちる音がした。
同時に、通路の先で異常な光が煌めく。
それは、封鎖プロトコルが起動した合図だった。
「ハッチが閉まった……⁉︎」
霞む意識の中、ライアンは必死に端末にアクセスしようと試みる。しかし、次の瞬間、目の前の警告画面に無情な文字が浮かび上がった。
『外部環境制御、遮断』
「おいおい、ふざけるな……ッ!」
必死に立ち上がろうとするが、酸素不足がライアンの動きを鈍らせる。ウプシロンが冷静に次の行動を指示するが、それすらも頭に入らなくなり始めていた。
「ライアン、今すぐ私の指示に従って」
ウプシロンの声が機械的な落ち着きを保つ中、ライアンは虚ろな目で見上げた。彼女の黄金の瞳が、じっとこちらを見つめている。まるで全てを計算し終えたかのような、冷静で、それでいてどこか不気味な表情だった。
「大丈夫。あと数秒の我慢だから」
「何が……?」
その瞬間、ウプシロンが壁面の端末を操作し、低い振動音と共に天井から酸素供給ユニットが開放された。
「ッ……!」
ライアンの頭上で高強度カーボンポリマー合金製のカプセルがスライドし、内部から小型のO₂カートリッジが自動射出される。
B-99区画仕様のそれは彼のスーツのインターフェースに向かって一直線に飛来し、ワンタッチで装着された。同時に、折りたたまれていた緊急用のE-Breatheマスクが展開。周囲に漏れ出た空気を一瞬で取り込み、ヘルメット内部の密閉環境を瞬時に整える。
「お前……どうやって……?」
「計算通りよ。封鎖プロトコルの構造を利用しただけ」
ウプシロンは微かに口角を上げたが、ライアンにはその余裕が苛立ちに映った。彼の防護服が自動的に外部供給モードに切り替わり、ヘルメット内部に酸素が流れ込む。
焼けるようだった喉が一気に潤い、視界がはっきりと戻った。
「一歩間違えれば、俺は窒息死してたんだぞ……!」
「でも、死んでいない。結果が全てよ」
彼女の冷静な言葉に、ライアンは壁にもたれながら荒い息を吐いた。
酸素供給ユニットが作動し、防護服内部に冷えた空気が流れ込む。喉の灼けるような痛みが僅かに和らぎ、肺に十分な空気が満たされていくのを感じた。
——まだ動ける。
意識の混濁が引き、指先の感覚が戻る。酸欠で痺れていた四肢をゆっくりと動かしながら、ライアンは頭上を見上げた。
天井のパネルが微かに軋んでいる。
そこから白い霧がゆっくりと漏れ出していた。
「なんだよあれ――もしかして冷却材か?」
船内の環境制御システムが停止し、冷却装置のシールが剥がれたせいだろう。普段なら気圧や温度を一定に保つシステムが働くが、今のセクションB-99ではそれすらも機能していない。
冷却材が気化することで、局所的に気圧が低下している。このままでは空間そのものが不安定化する——そんな予感がした。
「ねえ、ライアン」
ウプシロンの冷静な声が響く。
「立てる?」
視線を移すと、彼女は壁際の端末の前に立ち、ホログラムを操作していた。左眼に黄金の光が揺らめき、何かを計算している。
ライアンは息を整え、膝に力を込める。
「……ああ。なんとかな」
だが、その瞬間、足元の床が僅かに沈んだ。
(——まずい)
周囲の金属が微かに軋む音を立て、重心が一瞬だけ揺れる。まるで船の一部が、じわじわと歪んでいるかのようだった。
「時間がないわ。ここに長く留まれば、低気圧による窒息だけじゃなく、船体そのものの崩壊に巻き込まれる」
ウプシロンが淡々と告げた。
「補助アクセスハッチを通って、この区画を離れるわよ」
ウプシロンの言葉に、ライアンは視線を巡らせた。
壁際の端末が警告を発しながら点滅し、天井近くのパネルが僅かに開いている。そこにあったのは、幅1メートほどの狭い開口部だ。
「……ここを通るのか?」
ライアンは顔をしかめた。明らかに防護服を着た人間が通るには無理がある空間だ。
「本来は船内ドローン用の経路よ。だけど、メインのハッチは封鎖されていて地上には戻れない。かなり遠回りすることにはなるだろうけど、これ以外に道はないの」
ウプシロンは端末を操作し、耐圧性のある強化カーボンフレームパネルを完全にスライドさせた。内部は驚くほど暗く、通路の頭上からは配管やケーブルが張り巡らされている。
奥行きの先が見えないほどだった。
「最悪だな……」
ライアンは奥歯を噛み締め、呼吸を整える。
「そういえば、オートノームはどうすんだよ?」
その問いに、ウプシロンは視線を動かし、背後に待機する二体の機械を見やった。
「彼らも同行する。あなたの護衛だから」
オートノームたちは無言で静止したままだった。その銀色の装甲が、警告灯の赤い光を鈍く反射している。
——動かない。
まるで何かを待っているかのように、彼らは一切の動作を見せなかった。普段なら警戒モードの僅かな駆動音が響くはずなのに、それすらもない。
その異様な光景に、ライアンが僅かに眉をひそめた。
「おい……嘘だろ?」
その瞬間——警告灯が一度だけ、点滅した。
何かを告げるように、低い電子音が響く。
ライアンは僅かに眉をひそめ、オートノームに目を向けた。二体の機械は相変わらず静止したままだ。しかし次の瞬間、左側のオートノームが微かに揺れる。
それは単なる動作ではなかった。
金属製の関節部がぎくりと震え、僅かに右腕の装甲が展開する。内部から短距離用のプラズマブレードが覗いた。
(おい、待てよ。まさかコイツも——)
ライアンは本能的に身構える。
声をかけた瞬間——ガンッという轟音とともに、オートノームが踏み込んで床を蹴り上げ、ライアンに向かって突進した。
「——ッ⁉︎」
——ありえない。
恒星間入植船
「五原則」——それは、この宇宙船において機械たちが人間と共存するための絶対的なルールだった。
第一原則:アンドロイドは、いかなる理由があっても人間を傷つけてはならない。
第二原則:アンドロイドは、人間の命令に従わなければならない。(ただし、第一原則に反する場合を除く)
第三原則:アンドロイドは、第一原則及び第二原則に反する恐れのない限り、自己の機能を保持し続けなければならない。
第四原則:アンドロイドは、自己の意識を持たず、人間の意志を代行する存在でなければならない。(自律した知性の発生を防ぐ)
第五原則:アンドロイドは、人間社会の秩序を維持することを最優先としなければならない。
もしも、これらのルールに違反する行動を取れば、アンドロイドは即座に自己破壊プロトコルを発動する。それが、恒星間入植船
「クソッ……」
だが——今、目の前でオートノームは絶対的な原則を無視し、彼を明確な敵と認識している。
ライアンは咄嗟に身を翻し、迫り来る鋼鉄の拳を避けた。その刹那、オートノームの目が赤く光り、内蔵プラズマブレードが展開される。
「人間モドキ……何が起きてんだ⁉︎」
反射的に身を翻すが、次の瞬間にはオートノームの鋼の腕がすぐ目の前を薙ぎ払った。鈍い衝撃が壁を揺らし、そこに設置されていた端末が一瞬で粉砕される。
「ライアン!」
ウプシロンの声が響く。床に転がるようにして距離を取ると、ライアンはオートノームの異様な様子に気づいた。
——目が、赤く点滅している。
「またかよ……何の冗談だ?」
オートノームは護衛モードのはずだった。それが、今は敵意剥き出しの兵器のように襲いかかってきている。距離を取ったウプシロンが素早くホログラムを展開し、解析を試みた。
「システム異常……いいえ、外部信号による強制的な再起動ね。制御権を奪われている可能性があるわ!」
「制御を奪われただと……?」
ライアンが叫ぶが、彼女は応えない。
次の瞬間、オートノームが再びライアンへと殺到する。
「クソッ……!」
避ける間もなく、鋼鉄の腕が振り下ろされた。