「……気味が悪いな」
彼の呟きは湿った空気に溶け、やがて金属壁に反射して消えていった。目の前の通路はほとんど機能しておらず、非常灯の明かりだけが薄ぼんやりと空間を照らしている。
ウプシロンは静かに前を見据え、冷静な声で言った。
「慎重に行きましょう。この先、何が待っているか分からないわ」
彼女の言葉にライアンは鼻を鳴らし、足元の埃を踏みしめた。
「もうすでに十分、不吉な気がしてるさ」
薄暗い廊下に響く足音は、湿った金属の反響によって不気味に歪んでいた。通路には幾重にも積もった埃がこびりつき、ライアンの足跡が濃く刻まれる。歩くたびに軋む床板は、まるで彼らの侵入を拒むかのようだった。
「息苦しいな……酸素、足りてるか?」
ヘルメット越しに吐き出されたライアンの言葉は、普段の軽口よりも遥かに重々しい。酸素供給装置のモニターを確認しながら眉をひそめる。酸素濃度は標準より僅かに低く、薄い空気が喉を刺すようだった。周囲の温度は極端に低く、肌にまとわりつく冷気が防護服の隙間から入り込む。
「環境制御は最低限しか稼働していないみたいね。この区域は長年放置されてきたから、生命維持の優先順位からも外されているのよ」
ウプシロンの声は相変わらず淡々としていたが、肩にうっすらと結露が浮かんでいるのがわかった。彼女の植物由来の体は湿度の変化には強いが、極端な寒さの適応にはある程度の時間がかかる。
ライアンは冷えた息を吐き出しながら、手袋越しに指先の感覚を確かめた。オートノームが静かに背後をついてくるが、その関節部分から軋むような音が漏れ始めている。
「ロータス、生命維持装置の酸素供給を少し上げてくれないか?」
ライアンが小声で通信を試みるが、応答が遅れて戻ってきた。
『……了解。ですが、この区域の通信は依然不安定なままです。長くいるのは推奨しません』
「わかってるさ、さっさと部品を見つけて戻るよ」
ロータスの警告を聞き流しつつも、ライアンは僅かな不安を感じた。未使用エリアに入った瞬間から、どこか落ち着かない感覚が胸の奥を支配している。それはただの寒さや酸素不足のせいではない、もっと根源的なもの――ここに来たことがあるような、記憶の奥にある断片の影響だった。
「ライアン?」
ウプシロンの声に、彼はハッと我に返る。
「悪い……行こう」
彼女の指示で、ライアンは通路の奥へと足を踏み入れる。進むにつれ、周囲の暗闇がさらに深くなっていった。持ち込んだライトが照らす先に、巨大な格納庫が姿を現す。壁に刻まれた「未使用備品保管庫」の文字が、微かに残る照明に浮かび上がっていた。
ライアンは倉庫の扉を慎重に押し開けた。内部は無重力環境下で保管された設備が天井近くまで積み上がり、冷気がこもっている。
「まるで墓場みたいだな……」
彼が小さく呟くと、ウプシロンは倉庫内に目を走らせた。彼女の左眼に流れる黄金の染料が、部品の劣化状態をスキャンし、必要な機材の位置を割り出していく。
「こっちに、まだ使えそうなものがあるわ」
ウプシロンが指し示した先、埃に覆われた棚の奥に、整然と並べられた数種類の部品があった。ライアンは慎重に手を伸ばし、そのうちの1つを取り出す。表面は汚れているが、破損の兆候は見当たらない。
「状態は……良好か」
彼が手にした部品をライトで照らしながら呟くと、ウプシロンは冷静に分析を続ける。
「必要な機能は維持されているわね。ただし、接続端子の一部が古い規格になっている。多少の改修が必要かもしれない」
ライアンは工具箱を開き、応急処置が可能かどうか検討した。
「……こんなもんが、ここに放置されてたなんてな」
苦笑しながら部品を確保すると、ふと保管ラックに記された古びたラベルが目に留まった。
「"優先保管エリア"だと? なんで未使用エリアに?」
彼は困惑しながら、ラベルを指でなぞった。普通ならば最優先の重要設備が保管されるべき場所ではない。何か裏があるのではないか――そう考えた瞬間、頭の奥に微かな痛みが走った。
ライアンが部品を確保して振り返ると、ウプシロンが背後で警戒していた。彼女の視線の先では、朽ち果てた機材が不自然に積み上がっており、明らかに誰かが手を加えた痕跡が残されている。
「ここ、何か隠されてるかもしれないわ」
ウプシロンの声が低くなる。ライアンは息を詰め、手元の部品を抱え直した。急にエリア全体が異様な静けさを帯び、ロータスの通信が微かに乱れ始める。
『酸素供給量低下、警戒を――』
警告アラートがヘルメット内に響いた。二人はすぐに撤退を開始したが、出口への通路の一部が密かに封鎖されていることに気づく。
「何かがおかしい。急いで脱出するぞ」
ライアンはウプシロンの指示に従いながら、廊下を駆け抜けた。だが、彼の心の奥底では、1つの疑念が燻り続ける。
「おい人間モドキ、こっちの通路……完全に塞がれてるぞ」
ライアンは行く手を阻む巨大な隔壁に手を当て、硬く閉ざされた扉を見上げた。オートノームがセンサーをかざし、アクセスを試みるが、赤いエラーランプが無情にも点滅し続ける。ウプシロンが即座に端末を操作し、解除プロトコルを試みるが、予想以上に手こずっていた。
「妙ね……通常の封鎖プロトコルとは違うみたい。何か、別の制御が働いてるわ」
ウプシロンの声は冷静ながらも、どこか普段とは異なる硬さがあった。ライアンは焦る気持ちを抑えつつ、ふと周囲を見渡す。古びた通路、壁に刻まれた識別番号――そこに、微かに剥がれかけたラベルが目に入る。
「……この番号、見たことある気がする」
何かが喉の奥で引っかかるような感覚。記憶の奥底に沈んでいた映像が、ぼんやりと浮かび上がる。だが、それはあまりにも曖昧で、確信には程遠い。
「ライアン?」
ウプシロンの声が、彼の意識を現実に引き戻した。彼は僅かに首を振り、強張った声で答える。
「いや……気のせいかもしれねぇ。だが、ここはやばい気がする」
その時、不意に酸素供給の警告アラートが鳴り響いた。周囲の気圧が僅かに低下し、ライアンは息苦しさを感じ始める。オートノームの動作も鈍くなり、ライアンは歯を食いしばった。
「植物野郎、手早く頼むぞ……長居はしたくねぇ」
だが、ウプシロンはそんな彼の言葉に答えることなく、じっと目の前の封鎖された扉を見つめていた。黄金の左眼が微かに光り、彼女の思考が何かを探っているのがわかる。その視線の奥に何かを探る意思が見え隠れする。
二人は未使用エリアの奥深くから戻るべく、足早に通路を進んでいた。酸素濃度はさらに低下し、ライアンは息苦しさを覚えながらも、次第に馴染みのない不安に胸を締め付けられるのを感じていた。
「急ごう……このままじゃ、酸素の残量が持たねえ」
ライアンが息を整えながらエレベーターの制御端末に手を伸ばす。しかし、端末のディスプレイが淡く光ると同時に、赤い警告ホログラムが浮かび上がった。
『警告:セクションB-99=X-07に異常検出。封鎖プロトコル起動。アクセス不可』
「なんだと……ふざけんな‼︎」
ライアンが忌々しげに端末を叩くが、応答はない。ウプシロンは冷静にホログラムを見つめ、黄金の左眼に情報を流し込む。
「……誰かが意図的にここを閉鎖したわね」
「冗談じゃねえ……どうすんだよ?」
ライアンが焦りを滲ませる中、ウプシロンは視線を横に向け、脇の通路を示した。その先に、薄暗いホログラムがぼんやりと輝いている。『立入禁止区域』――かすれてはいるが、警告表示がはっきりと残されていた。
「選択肢は限られているわ。ここを調べるしかないのね」
ライアンは溜め息をつき、ホログラムの向こうに広がる未知の領域を見据えた。その時、胸の奥に不意に蘇る微かな感覚が、彼の足を一瞬止めさせる。
「……ここ、前に来たことがある気がする」
呟いた言葉に、ウプシロンは僅かに振り向く。だが、その表情には微かな躊躇が漂っていた。
「フルダイブのやり過ぎよ。記憶違いじゃない?」
彼女の声はいつになく優しく、それが逆にライアンの胸に重くのしかかった。
「……そうかもな」
ライアンは気を取り直し、ウプシロンと共にホログラムの先へと進む。通路の奥には、かつてのプロジェクトの名残を示すように、壁面の錆びついたパネルの隙間からN.O.V.Aのロゴが微かに覗いていた。