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14「訓練生Cクラス船員ルカ・ヴァルディ⑤」


 重く湿った空気がルカの肌にまとわりつく。冷たい金属の壁に手をつき、彼は深く息を吐いた。仮想現実の地球の鮮やかな景色は、遠い夢のように薄れていく。それとは対照的に、ここでは天井の通気口から漏れる蒸気が、まるで腐った息のように漂っていた。


 彼の耳には、仮想現実の中で見た地球の穏やかな風景がまだ残っている。青い空、波の音、満ち足りた人々の笑顔――それがどれほど遠いものなのか、今になって痛感していた。


「こんな状況で……俺に何ができるんだ?」


 再生処理プラントの不具合により、船内の湿度が異常に上昇している。すれ違う船員たちは汗を拭い、誰もが不満げな表情を浮かべていた。


 天井のモニターには、「水の節約にご協力ください」という無機質な警告文が点滅している。


 ルカは歩みを止め、Bクラスの船員たちが通路を悠々と歩いていくのを見送った。彼らの船内着は乾いたままで、空調の整った居住区に戻るのだろう。その一方で、Cクラス以下の船員は船の動力維持のために奔走している。


 微かに聞こえてくるのは、廊下の向こうで交わされるBクラス船員たちの談笑と、Dクラスの作業員たちの苛立ちが混じった怒声だ。ルカは唇を噛み締め、警告を点滅させるモニターを見上げた。


「ルカ!」


 背後からの呼び声に振り向くと、同期の訓練生であるアレックスが息を切らしながら駆け寄ってきた。彼の顔には不安の色が浮かんでいる。汗ばんだ額を拭いながら、彼は端末を突き出した。


「何かあったのか?」


 ルカが問いかけると、アレックスは息を整えながら端末を見せる。そこには停留所のカプセル運行システムのエラー通知が表示されていた。


「これを見てくれ……カプセルの運行がずっと遅延してる。しかも、再生処理プラント付近の停留所だけが、何かおかしいんだ」

「……これって、単なる遅延か?」


 ルカは画面を覗き込む。確かに、一部のルートで異常が検出されており、予定されていた停留所の到着履歴が空白になっている。


「誰かが手動で操作してるのか……?」

「わからない。でも、このままじゃあ、カプセルが停留所を無視して暴走するかもしれない」


 ルカの心臓が跳ね上がる。停留所には、Dクラスの作業員たちが点検作業を行っている。何も知らずにいる彼らが巻き込まれれば――。


「……行くぞ、アレックス。再生処理プラントに用事があるから、そのついでに確認しなきゃな」


 ルカは躊躇うことなく駆け出した。金属製の床が冷たく、湿った靴音だけが響く。彼の脳裏には、Dクラスの船員たちの疲れ果てた顔が浮かんでいた。


 再生処理プラントの停留所付近にたどり着いたルカとアレックス。ここは湿度のせいで視界が白く霞んでおり、設備の老朽化が一層目立つ。壁面の端末にアクセスし、カプセルの運行状況を確認すると――。


「やっぱり……ログの一部が欠落してる」


 ルカは端末をスクロールしながら眉をひそめる。


「手動制御に切り替わってるけど、誰の権限だ?」


 彼が表示されたセキュリティレベルを確認しようとした瞬間、背後から荒々しい声が飛んできた。


「おい、そこで何をやってんだ」


 振り向くと、汚れた作業服を着たDクラスの男が、険しい顔つきでこちらを睨んでいた。


「カプセルが異常な動きをしてる。止めないと危険だ!」


 ルカは焦りを滲ませながら説明するが、男はニヤリと笑った。


「そうかい……でも、俺たちDクラスが動くには、それなりの対価が必要だ」


 男は懐から端末のアクセスキーを取り出し、ゆっくりと見せつけるように振る。


「……ライフユニット200だ。それがあれば、すぐに手伝ってやるよ」


 ルカは目を見開いた。


「200だと……そんな余裕がCクラス船員にあるとでも思ってんのか⁉︎」

「なら無理だな。俺たちDクラスは毎日ギリギリのLUで生きてるんだ。贅沢させてもらうぜ」


 アレックスが焦った表情でルカを見た。


「ルカ、どうする?」


 悔しさが込み上げるが、時間がない。ルカは端末を操作し、自身のライフユニットを確認する。残りはあと1200。これを差し出せば今後の生活に影響するのは明らかだった。


(……けど、ここで渋ってる場合じゃない)


 ルカは決意し、黙って200LUを送信した。端末に「送信完了」と表示されると、Dクラスの男は満足げに笑い、アクセスキーを端末に差し込む。


「よし、あとは好きにしな」


 ルカは急いでシステムにアクセスし、手動制御を解除しようとした。だが――。


「待て……なんで自動運行モードに戻らないんだ⁉︎」


 アレックスが画面を覗き込み、青ざめた顔で警告を発する。


「『外部制御プロトコル有効』……誰かが遠隔から操作してるぞ!」


 ルカの背中に冷たい汗が流れた。画面には「衝突まで残り3分」のカウントダウンが点滅している。


「クソッ……手動ブレーキを試す!」


 緊急操作に切り替え、ルカの指がパネルを叩く。だが、画面に無情な文字が浮かんだ。


『ERROR:アクセス制限-権限不足』

「冗談だろ……⁉︎」


 船内アラートが鳴り響き、赤い警告灯が停留所を照らす。ルカは歯を食いしばりながら、目の前の状況をどう打開するか考えた。


「ルカ……別の手を試さないと」


 アレックスの指が画面を指し示す。


「貨物制御ログを改ざんできないか? 一時的に進行速度を落とせるかもしれない」

「そんなこと……不正アクセスだぞ」

「今更そんなこと言ってる場合じゃない!」


 ルカは覚悟を決め、端末に深くアクセスを試みる。指が震え、最後のコマンドを入力する。


『Override-Protocol:Engaged……』


 一瞬、画面が凍りつく。だが、次の瞬間――。


『不正アクセス試行が検出されました。保安部門へ報告中』

「……ヤバい」


 ルカの手が止まり、焦燥の色が濃くなる。指先は何度も端末の制御パネルを叩くが、無情にも画面には「アクセス拒否」の赤い警告が繰り返し表示される。額に滲む汗が視界を歪ませ、冷たい船内の空気すら重苦しく感じられた。


「無理だ……このままだと間に合わない……」


 ルカは奥歯を噛みしめるが、ふと視界の隅に映る古びた案内板が目に留まる。そこには、「緊急停止パネル:廊下右手50メートル先」と記されていた。彼の脳裏に、ライアンとの訓練の際に耳にした古い記憶が蘇る。


(……確か、古い手動停止装置が非常用に残されているはずだ)


「アレックス、俺たちのアクセスじゃあ駄目だ! 手動停止装置がある……あそこだ!」


 ルカは息を切らしながら走り出し、壁に埋め込まれた埃まみれの非常用パネルへと向かった。背後ではアレックスが慌てて追いかける。


「そんなもん、本当に動くのか⁉︎」

「そんなの知るかよ! でもやるしかないんだ!」


 ルカは震える手で古びたパネルのカバーをこじ開けた。中から現れたのは、錆びついたレバーと古いコード端子。彼は息を呑み、すぐに操作に取り掛かる。


「頼む……動いてくれ!」


 しかし、レバーは固着しており、まるでこの場所が何十年も使われていなかったかのように無反応だった。彼は歯を食いしばり、全力で引こうとするがびくともしない。


「無理だ、これじゃ間に合わない……!」


 ルカが焦燥に駆られたその瞬間、背後から無愛想な声が響いた。


「おい坊や、そんなモン、力任せじゃあ動かねえぞ」


 振り返ると、先ほどのDクラス作業員が腕を組みながら不敵な笑みを浮かべていた。彼はルカが差し出した200LUのことを思い出し、ニヤリと笑う。


「まあ、こいつはLU取引のサービスってことにしてやるよ」


 男は手にした工具を無造作に取り出すと、レバーの隙間に差し込み、ゴリゴリと錆びついた部分を削りながら調整を始めた。ルカが戸惑う間にも、男の手際の良さが際立っていた。


「何年も放置されてたからな……ほら、これでどうだ?」


 彼が再度レバーを押し込むと、ガクリと固まっていたレバーが僅かに動く感触がルカの手に伝わる。


「やった……!」


 だが、次の瞬間――端末から新たな警告音が響いた。


『手動停止装置の認証が不完全です。認証コードを入力してください』

「チッ……こんな時に、マジかよ……」


 ルカは慌ててアレックスに目配せをした。


「アレックス! 緊急放送システムを使え! 誰か、Bクラスの認証コードを持ってる奴を探すんだ!」


 アレックスは頷き、近くの船内通信端末へと走った。彼の指がすばやくタッチパネルを操作し、警告放送を船内の全エリアに送信する。


『こちら再生処理プラント停留所。緊急事態発生。Bクラス以上の認証が必要です。至急協力を……!』


 しかし、応答はない。アレックスが舌打ちしながら振り返ると、ルカはまだレバーに手をかけたまま必死に操作を試みていた。


「ダメだ、もう時間がない……!」


 ルカの視界に、カプセルの到着カウントダウンが点滅しながら減っていくのが見えた。残り――30秒。


「チクショウ……!」


 絶望的な状況に、彼は思い切った行動を取ることを決意した。


「もういい! このまま停止システムを直接ショートさせる!」


 彼はDクラスの男に向き直る。


「配線を手伝ってくれ……このままじゃあ、俺たちも危ない!」


 Dクラスの作業員は一瞬驚いたようだったが、すぐに鼻を鳴らしてうなずいた。


「分かったよ。流石に死ぬのはごめんだからな!」


 ルカと作業員は工具を駆使して、停止装置の配線を無理やりショートさせる作業に取り掛かる。彼の手が汗で滑るたび、時計のカウントは刻一刻とゼロへと迫っていた。


「間に合え……頼む……!」


 ルカは最後の接続を完了させ、レバーを思い切り引いた――。

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