再生処理プラントの蒸気と金属臭の漂う廊下を、ライアンは険しい表情で進んでいた。彼の隣では、ウプシロンが静かに歩を進めている。目的はただ一つ――再生処理プラントの本格的な復旧に必要な部品を手に入れることだ。だが、その部品が「未使用エリア」にあると聞いたときから、ライアンの胸には疑念が渦巻いていた。
「なあ、植物野郎。未使用エリアって、一体どこにあるんだ?」
前を向いたままのウプシロンに問いかける。
「艦内の最下層よ。元々は予備設備や緊急用の格納庫として設計された区画。でも……今はほとんど使われていないわ」
ウプシロンの声は、どこか含みのあるものだった。ライアンは鼻を鳴らし、僅かに眉をひそめる。
「そんな場所があったなんてな。今まで一度も聞いたことがないぜ」
彼は腕を組みながら、ウプシロンの言葉を反芻した。入植船内の各エリアは、漂流世代の彼にとっては把握しきれないほど広大だったが、最下層の存在というのは、これまでの訓練や日常業務では一切触れられたことがない。
「それもそうね。最深部へのアクセスは、通常の船員には許可されていないのだから」
ウプシロンはゆっくりと足を踏み出し、通路の端に設置された古びたエレベーターのパネルを指でなぞった。年季の入った端末がうめき声を上げるように起動し、微かな振動とともに扉が横に開く。内部は想像以上に狭く、長年放置されていたせいか、薄っすらと埃が積もっている。
「これを使うのかよ……」
ライアンは眉をひそめた。
「壊れてないんだろうな?」
「基本機能は維持されているわ。ただ、動作が不安定かもしれないけれどね」
ライアンは深い溜め息をつき、渋々エレベーターの内部に足を踏み入れる。ウプシロンとオートノームが続くと、ドアが軋む音を立てて閉じた。彼女が手元のパネルに指を滑らせると、液晶に「B-99」と表示される。最下層、船の最も深い場所へのコードだ。
「何百年も使われてなかったんじゃないのか?」
ライアンは、不安げに壁を叩いた。
「最低限のメンテナンスは行われているわ。でも、あまり期待しないほうがいいかもね」
ウプシロンが淡々と答える。
重力が僅かに変化し、エレベーターはゆっくりと下降を始めた。最初はスムーズな動きだったが、途中から金属の擦れるような音が響き、ライアンは壁に片手をついてバランスを取る。時折、エレベーターが急にガクンと揺れ、天井の薄暗い照明がちらついた。
「これ、落っこちたりしねえだろうな……」
ライアンは不安を紛らわせるように冗談めかして言ったが、内心は決して穏やかではなかった。
「少なくとも、私がいる限りは大丈夫よ」
ウプシロンがクスリと笑う。
「それに、あなたのライフユニット残量はまだ十分残ってるもの」
エレベーターは船の中心部を抜け、さらに深く降下していく。強化ガラス窓の向こうには、手付かずの配管の絡み合う巨大な機械群がぼんやりと見え、どれも老朽化の兆候を示していた。ライアンはその光景に息を飲み、思わず呟く。
「……ここ、本当に使われてねえんだな」
エレベーターが最深部の手前に差し掛かると、突然、小さな揺れとともに速度が低下した。無重力空間にいるかのような妙な浮遊感がライアンの身体を包む。手元のパネルが警告音を発し、ウプシロンが冷静に確認しながら状況を把握する。
「少し電圧が不安定ね。問題はないけど……私たちが帰る頃には、もっと悪化しているかもしれないわ」
「そりゃあ心強いこった……」
ようやくエレベーターは最深部の未使用エリアへと到達した。扉が軋む音を立てながら開くと、冷たい空気が流れ込む。目の前には、長い間放棄されていたことを示す薄暗く静かな通路が広がっていた。壁には朽ち果てた表示パネルや、用途不明の古い機器が並んでいる。
「さて……ここからが本番ね」
ウプシロンが先へと足を踏み出す。彼は肩をすくめ、深く息を吸い込むと、未知のエリアへと踏み込んだ。
エレベーターの扉が完全に開ききると、未使用エリアの薄暗い通路が彼らの目の前に広がった。壁際に並ぶ老朽化した機材、ところどころ剥がれ落ちたパネル、微かに聞こえる機械の低い唸り声。長年の放置が、この場所を異物のように静かで不気味な空間へと変えていた。
ライアンは慎重に足を踏み入れ、金属床が軋む音に眉をひそめる。
「……どう見ても人がいた気配はねえな。ここ、本当に部品があるのか?」
ウプシロンは静かに廊下を見渡しながら答えた。
「あるわ。少なくとも、データ上ではね。でも、予想以上に老朽化が進んでいるようね……」
彼女の左眼に流れ込む黄金染料の視界には、通路の奥へと続く無数の未来の断片が映し出されていた。ウプシロンは慎重に一歩ずつ進みながら、背後のライアンを見やる。
「歩幅を一定にして。床の一部が腐食しているわ」
ライアンは舌打ちしながら、彼女の指示に従って歩調を合わせる。すると、オートノームが無言で彼らの後ろに並び、赤い視覚センサーを瞬かせながら周囲を警戒するように動いた。
「こいつ、何か反応してるぞ?」
「異常はないけれど……何かを記録しているみたいね」
ウプシロンは端末を操作しながら、オートノームのデータログを解析する。
「未使用エリアの一部には、古いセキュリティプログラムが稼働している可能性があるわ。慎重に進みましょう」
通路を進むにつれ、ライアンの中で得体の知れない違和感が強まっていく。先ほどまでの緊張とは異なる、まるで懐かしさと警戒心が入り混じったような感覚だ。壁に沿って並ぶ機材を見つめる彼の瞳に、一瞬、過去の断片がよぎる。
(……ここ、どこかで見たことがあるような……)
彼は頭を軽く振ってその感覚を振り払うが、足が無意識に1つの部屋の前で止まる。重量のある鉄製扉の表面には、かすれかけた識別コードが記されていた。
「おい、人間モドキ……」
「ええ、気づいてるわ。ここの扉、微妙に開いてる」
ウプシロンは手を伸ばし、慎重にドアを押し開けると、内部から湿った空気が流れ出した。部屋の奥には、埃を被った作業台と無造作に積み上げられた部品コンテナが並んでいる。
ライアンは片膝をつき、作業台の端に指を滑らせる。そこに刻まれた微かな刻印を見た瞬間、彼の胸が騒ぎ始めた。
「これは……」
彼は低く呟いた。
「なんで、俺はこれを知ってる気がするんだ……?」
ウプシロンは無表情のまま彼の横に屈み、部品のひとつを手に取った。彼女の左眼には、何十年も前のデータが断片的に流れ込んでいる。
「ライアン、ここはあなたがかつて……」
そう言いかけて、彼女はふと口を閉ざした。
「俺がかつて何だって?」
ライアンは鋭い視線を向けたが、ウプシロンは穏やかに微笑むだけだった。
「大したことじゃないわ。ただ、あなたが思っているより、船はあなたに馴染み深い場所かもしれないってこと」
彼の表情には疑念が浮かんだが、これ以上問い詰めるのはやめておいた。ライアンは溜め息をつき、コンテナを開けて部品を調べ始める。
「おい、ウプシロン。これが使えそうだぜ」
彼が取り出した部品は、意外なほど良好な状態を保っている。だが、その背後でオートノームのセンサーが警告音を発した。
ライアンが手に取った部品は見た目こそ良好に保たれていたが、手触りは妙に乾燥し、内部の劣化が進んでいる可能性を示していた。彼は小さく舌打ちし、ウプシロンに視線を向ける。
「これって使えそうか?」
ウプシロンは左眼のスキャナを起動させ、部品の識別番号と状態を丁寧にスキャンする。ホログラムに浮かび上がる解析データを見て、彼女は首をかしげた。
「再利用は可能だけれど、長期間の使用には耐えられないわ。補助的な役割にしか使えない……」
ライアンは奥歯を噛みしめた。再生処理プラントの再稼働を目的とした修理なら、より確実な部品が必要だ。未使用エリアの奥へ進むべきか、一度戻って計画を練り直すべきか――彼の思考が交錯する。
その時、オートノームのセンサーが低く警告音を鳴らした。ライアンは反射的に身構える。
「何だ?」
ウプシロンが端末に指を滑らせると、センサーの捉えたデータがホログラムに映し出される。廊下の奥、埃の堆積した床に微かな靴跡のようなものが浮かび上がっていた。
「誰かが最近、ここに……?」
ライアンは緊張を帯びた声で呟き、オートノームに周囲の警戒を指示した。彼女は慎重に進むよう促しながらも、部品探索を続行する意志を固めている。
「まだ使えそうな部品が残っているはず。ここをもう少し調べるべきよ」
ライアンは溜め息をつき、防護服のポケットから取り出した小型ライトで周囲を照らした。埃が舞い上がり、まるでここに何かが眠っているかのように空気が重く感じる。
「ちょっと嫌な予感がするな……」
そう言いながらも、彼はウプシロンと共に、未使用エリアの更なる奥へと進んでいった。