仮想現実から現実へと戻ったルカは、頭の奥にこびりつく違和感を振り払うように首を振った。冷えた金属の廊下に立つと、仮想の地球の温かな光景とは対照的な冷徹な現実感が押し寄せてくる。廊下には妙に湿った空気が漂い、薄い酸の匂いが鼻を刺していた。
「聞いたか? 再生処理プラントのせいで、湿度が異常に上がってるらしいぞ」
金属壁の反響を通じて、微かに届く船員たちの会話。ルカは足を止め、声の主がいる通路の隅に目を向けた。視界には入らないが、音から話し手の苛立ちが伝わる。
「農場エリアじゃ、もう植物が枯れ始めてるって話だ。俺たちが使う水も不足するかもしれないんだとさ」
「ったく、上の連中が優先されるのはいつものことだろ。俺らには配給制限の通知ばっか来やがる」
会話を交わしているのは、くたびれた作業服を身にまとったDクラス船員のようだった。ルカは通路の陰に身を寄せたまま、目を伏せる。自分が姿を見せる理由はどこにもなかった。
「農場エリアだけじゃないぞ。居住区でも湿度が上がりすぎて、空調の機械が悲鳴を上げてるって話だ」
「それでいて、Bクラス以上の奴らは平然としてやがる。どうせ俺たちの分を横取りしてるんだろうさ」
苛立ちを隠さない声が響くたび、ルカの胸には何とも言えない重さがのしかかった。彼はCクラス船員として、Dクラスよりは僅かにましな待遇を受けている。それでも、Bクラス以上の特権層とは比較にもならない生活を強いられている現実があった。
やがてルカはその場を離れた。彼が歩く廊下の天井から、船内アナウンスが低く響く。
『注意:一部区域で湿度が上昇しています。居住者は水の使用を控え、節約にご協力ください』
視線を上げると、廊下に設置されたモニターが赤い警告表示を繰り返している。その画面を見上げるDクラス船員たちは、肩を落としながらもどこか諦めの色を浮かべていた。
一瞬、画面に配給制限の詳細が表示された。ルカはそれに気づくと、思わず声を漏らす。
「デッキ下層は制限率15%……上層デッキは通常供給?」
言葉に出した瞬間、怒りが込み上げると同時に、冷たい現実が心に刺さる。上層にいるBクラス以上の船員が最優先される一方で、負担は下層クラスに押し付けられる――その構図が露骨に示されていた。
「俺たちには……本当に生きる価値が平等にあるのか?」
湿った空気に溶けるような小さな呟きだった。誰も振り返らないその声に、ルカ自身も答えを持たない。ただ、仮想現実で目にした地球の美しい光景が脳裏に蘇り、今の現実との差を浮き彫りにしていく。
彼の視界に映るモニターは、次々に切り替わる情報を無機質に示している。それが意味するのは、上位クラスが享受する特権の裏で、自分たちのような下位クラスが犠牲を強いられていることだ。
遠くから機械音が聞こえる。鈍い音とDクラス船員たちの怒号が混ざり合い、廊下に反響している。ルカはその場に立ち尽くしながら、微かな違和感を覚える。胸の奥を締め付けるようなその感覚は、仮想現実で見た夢物語が現実をさらに暗く見せていることに気づいたからだ。
「自由も平等も、どこにもないんだな……」
誰に向けるでもない言葉が喉から漏れた。ルカは深く息を吐くと、ゆっくりと歩き出した。その背中には、薄暗い廊下の光が影を濃く映し出していた。
ルカが農場エリアに足を踏み入れると、湿度の重さが肌に纏わりつくように感じられた。空気には蒸気が混じり、植物の葉がしなだれたまま黄色く変色しているのが見える。緑の生命力が抜け落ちていくその光景に、彼の胸は鈍く痛んだ。
周囲では、Dクラス船員たちが忙しなく作業を続けていた。配管を調整する者、水不足で弱った植物に応急処置を施す者。それぞれが疲労の色を隠しきれない中、ひときわ響いたのはBクラス管理者の怒鳴り声だった。
「おい、もっと急げ! 水の供給が戻る保証なんてどこにもないんだぞ!」
その声には苛立ちと焦りが混じり、作業員たちの動きに一層の緊張を与えていた。汗に濡れた顔、疲れた目――それらは、限界を超えた労働がもたらす現実そのものだった。
ルカは立ち止まり、その場の空気に飲み込まれるような感覚を覚えた。助けたいと思いながらも、自分に何ができるのかは分からない。期待される訓練生としての立場は、この光景の不条理を変えるには無力すぎた。
「どうしてこんな状況になっても変わらないんだよ……」
彼の声は自分自身への問いかけにも似ていた。仮想現実の中で見た地球の光景――豊かな緑、平等な社会、人々が穏やかに生活する姿。それらが目の前の現実とあまりにもかけ離れている。あの夢のような世界に触れた記憶が、現実の不平等をさらに際立たせ、胸の奥を締めつけてくる。
「俺たちは、本当に希望を持つべきなのか?」
誰に向けるでもない呟きは、湿気に満ちた空気にかき消された。答えのない問いが胸に渦巻き、彼の足は無意識のうちに後ずさりしていた。農場エリアを去ろうとした、その時だった。
鋭い警報音が空間を切り裂いた。廊下の端末が一斉に赤く点滅し、無機質な機械音声が低く響く。
『警告:再生処理プラントにおける異常が深刻化しています。一部エリアでの水供給が停止される可能性があります』
ルカは端末の表示を見上げたまま、背筋を強張らせた。船内全体に影響が広がりつつあるその警告が、心の奥に潜む焦燥をかき立てる。
「再生処理プラント……ウプシロンとライアンも、まだそこで対応しているはずだよな」
独り言のように呟き、足を動かした。どこへ向かえばいいのかは分からない。それでも、この状況でただ立ち尽くしているわけにはいかなかった。
廊下を進むたびに、汗ばむ肌に湿った空気がまとわりつく。耳に届くのは遠くで響く機械音と、怒声にも似た作業員たちの声。ルカの視線は先を見据えながらも、足取りには戸惑いが滲んでいた。
(自分に何ができる? いや、何かできるはずだ)
心の中で何度も繰り返す。その度に芽生える衝動が、彼の動きを徐々に加速させていった。冷たい金属の廊下に靴音を響かせ、彼は再生処理プラントに向かって歩き続けた。