蒸気が立ち込める再生処理プラントの奥深く、ライアンは異質な物体を前に立ち尽くしていた。防護服の警告音が断続的に鳴り響き、ヘルメットの内側に響く電子音が心拍数をさらに加速させる。濃い霧が視界を遮り、空気には金属の錆びた匂いが漂っていた。
目の前に佇む物体は、ただの廃材に見えるにはあまりに異様だった。細かい刻印が施された黒い金属の表面には、薄く輝く奇妙な模様が浮かび上がっている。その光が蒸気に反射し、何か生きているかのような錯覚を与えていた。
「なあ人間モドキ……ちょっと妙だぞ。これ……なんだ?」
ライアンが低く囁き、手を伸ばしかけた瞬間、背後で金属の軋む音が響いた。冷たい汗が背筋を伝う。息を詰めて振り返ると、蒸気の中からゆっくりと影が現れる。
それは、暴走した
通常のオートノームならば整然とした動きで作業をこなすが、目の前のそれは違った。異常なまでにぎこちない動作、体内から漏れ出す火花、そして滴り落ちる赤黒い液体――まるで壊れた人形が無理やり動かされているかのようだった。
「……ふざけんな。なんでこんな場所に暴走機械が……!」
ライアンの声が緊張でかすれる。次の瞬間、オートノームが突進してきた。鋭い金属音を響かせながら、両腕を振り上げ、彼を押し潰そうと迫る。
「くそっ!」
彼は反射的に身を翻し、狭い通路で間一髪かわした。防護服のセンサーが危険を告げる電子音を立て続けに発する中、彼の視線は床に転がる工業用レンチへ向けられた。アンドロイドの保守点検用に設計されたそれは、一本で成人男性の腕ほどもある金属の塊。
「これで……なんとかするしかねえ!」
ライアンはレンチを掴むと、迫り来るオートノームの頭部目がけて全力で叩きつけた。金属同士がぶつかる鈍い衝撃音とともに、火花が散る。しかし、それでもオートノームの動きは止まらない。機械音がさらに大きくなり、執拗に彼を追い詰める。
「いい加減にしろ……!」
息を荒げながら、ライアンは再びレンチを振り上げ、全力で胸部に叩きつけた。金属の外殻が歪み、内部の機構から高温の蒸気が噴き出す。それでもオートノームは動きを止めず、軋む音を響かせながら彼に向かって手を伸ばした。
「これで……終われ!」
三度目の一撃が、オートノームの動力部に直撃した。その場に崩れ落ちる機械の残骸からは、煙と焦げた金属の匂いが立ち上る。ライアンは荒い息をつきながら残骸を見下ろした。
「……クソったれ。これで終わりか?」
だが、安堵も束の間だった。倒れたオートノームの胸部に、見慣れない奇妙なマークが刻まれているのを目にした瞬間、再び不安が胸を締め付ける。それは、船内の公式ロゴとは明らかに異なる、何か別の組織を示すデザインだった。
「おい植物野郎、聞こえるか? オートノームが暴走してた。それに、変なマークがあったぞ」
通信の向こうで短い沈黙があり、やがてウプシロンの冷静な声が返ってきた。
「ライアン、大丈夫なの? すぐにそちらに向かうわ。場所を教えて」
ライアンはヘルメット内のインターフェースを操作し、現在地を送信した。
「了解だ。でも、急いでくれ。この状況、どう考えてもただの事故じゃない」
ウプシロンが到着するまでの数分間、ライアンは倒れたオートノームの周囲を調べた。焦げた破片、漏れた液体、そして不自然に切断された配線――すべてが意図的な破壊を示唆している。彼は眉をひそめ、小さく呟いた。
「一体、誰がこんなことを……?」
蒸気に包まれた再生処理プラントの奥で、ライアンの心に重い疑念が渦巻いていた。
ライアンはウプシロンの到着を待つ間も、周囲の調査を続けていた。蒸気の隙間から見える焦げた配線や腐食した金属片は、明らかに自然な経年劣化ではない。全身に張り詰めた神経を感じながら、彼はふと視線を上げた。
「ふざけんなっ……誰が、何のためにこんなことを?」
彼の呟きが空気中に消えると、蒸気の中で微かな光が揺れる。それはウプシロンが近づいていることを示していた。
「ライアン!」
ヘルメット越しに響くウプシロンの声に、ライアンは軽く手を挙げる。
「助かった。こっちだ」
ウプシロンは迅速に近づき、左眼に映し出されたホログラムで周囲をスキャンし始めた。その瞳に映るデータは、異常な圧力と湿度の上昇を示している。
「このセクションの配管が怪しいわ。圧力が限界を超えた形跡がある」
「了解だ。こっちは任せろ」
ライアンはウプシロンから専用の工具を受け取り、慎重に配管のバルブを開けた。内部から放出された蒸気が一気に霧を深くする中、彼はサーモスコープ越しにパイプの内側を確認する。
「……これは酷い。内側がボロボロだ。これじゃあ汚染水が漏れるのも無理はない」
錆びついた金属の表面には腐食の痕跡が目立つ。それを確認したウプシロンは、小さく眉を寄せた。
「老朽化だけじゃないわ。誰かが意図的にここを放置していた可能性が高い」
その冷静な分析に、ライアンの表情が険しくなる。
「故意にだと? 一体、何のために?」
彼の疑問に応える間もなく、次の問題が彼らを待ち受けていた。腐食した配管を取り外すことには成功したものの、新しい部品を取り付けようとした瞬間、ウプシロンが眉をひそめて端末を操作し始めた。
「待って……ここにあるはずの部品が……」
彼女の言葉が途切れたのを見て、ライアンも近くの収納ロッカーを確認する。だが、そこには何も見当たらない。ただ空っぽの収納スペースがあるだけだった。
「嘘だろ? ここに予備部品がないなんて、どういうことだよ」
ウプシロンは視線を端末のホログラムに戻し、保管データを確認した。その顔には、不安とも疑念ともつかない微妙な表情が浮かんでいる。
「……倉庫エリアにあると思っていたけど、どうやら違うみたい。この近くにはない。未使用エリアに保管されているわ」
「未使用エリア? なんでそんな場所に保管されてるんだ?」
ライアンが苛立ちを抑えながら問いかけると、ウプシロンは冷静に答えた。
「おそらく、ここを放置していた誰かが故意に移動させたのかもしれない。もしくは……単なる管理ミス」
その可能性のどちらも、ライアンにとって納得のいくものではなかった。彼は拳を軽く握りしめ、近くのパイプを見つめた。
「とにかく、その未使用エリアとやらに行くしかないってことか」
ウプシロンは小さく頷き、パイプに簡易的な防錆剤を塗り込みながら応急処置を施した。
「ここを完全に修理するには時間がかかるし、部品がないままでは意味がない。このまま放置するのは危険だけど……」
「わかったよ。でも、戻ってきた時にもっと酷くなってたら泣きたくなるな」
ライアンは工具を片付けながら皮肉めいた口調で言った。ウプシロンはそんな彼に一瞬だけ視線を向けると、軽く微笑む。
「私たちが早く動けば、それも避けられるわ」
二人は通路を抜け、蒸気が薄れた場所へと向かって歩き出した。だが、道中の異様な静けさがライアンを不安にさせる。
「なあ、なんか気味が悪いほど静かじゃないか?」
「蒸気が多すぎて、機械の動作音が遮られているだけかもしれない。でも……」
ウプシロンの声に微かな不安が混じる。それがライアンの警戒心をさらに高めた。
「まさか、この先でまた何か起きるんじゃないだろうな」
「そうならないことを祈りましょう。でも、準備はしておくべきよ」
ウプシロンがそう答えた時、ライアンの耳に微かな金属音が響いた。それが何を意味しているのかは、この時点では誰にも分からなかった。