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05「船内独自通貨ライフユニット」


 食堂のドアが開くと、濃厚なスパイスの香りが鼻をくすぐった。再生処理プラントのすぐ近くという場所柄、空気には僅かに化学的な匂いも混ざっている。室内は船内で比較的開放的な空間だが、それでも他の場所と同じように低い天井とむき出しの配管が支配的だった。


 ウプシロンは視線を周囲に巡らせると、静かにライアンに告げた。


「ライアン、あそこの席に座りましょう。他に最適な選択肢はなさそうです」


 彼女が指差したのは、食堂の片隅、薄暗い壁際のテーブルだった。既に人が数人ほど座っていたが、空いている席が2つだけある。


「なんでそこなんだよ。もっと空いてる席があるだろ?」

「空間の流れを読むのも、私の特技の1つです。混雑しない場所を選ぶべきなの」


 ライアンは彼女の言葉に溜め息をつきながらも、言い返すことなくその席に向かった。席に近づくと、彼らを見つめる数人の視線を感じる。そのうちの一人、白い制服に身を包んだCクラス船員が、ウプシロンに気づいて目を細めた。


「おや、樹形素体フィトモルフじゃないか。今日も船内で何か問題を解決してたのか?」


 彼の声には微かな嫌悪が混じっていたが、ウプシロンはそれを無視するかのように微笑みを返した。


「問題解決が私の役目ですから」


 もう一人、作業服に身を包んだDクラスの船員が黙って俯いていた。腕には幾筋もの油の跡があり、肌は有機合成素体シンセティックらしい人工的な質感をしている。彼の首元には目立つ通信端末が取り付けられていたが、使用頻度が高いのか劣化が進んでいる。


 ライアンは彼に気づくと軽く声をかけた。


「よう、お前も休憩中か?」


 Dクラス船員は一瞬驚いたように顔を上げるが、すぐに視線を逸らし、か細い声で答えた。


「……はい、作業の合間に少しだけ」


 ウプシロンが興味深げに彼の顔を見つめ、穏やかに話しかける。


「通信端末、故障しかけていますね。すぐに交換申請を出しなさい」


 Dクラス船員は驚いたように首を振った。


「……いや、大丈夫です。まだ使えますから」

「無理に使い続ければ、貴方の作業効率に影響します。申請手続きなら私が代わりに行うこともできますよ」


 その申し出に船員は言葉を失う。目の前のウプシロンが、ただの人形以上の存在であることを一瞬だけ忘れたように。


 二人が席に着くと、ライアンがウプシロンを小声でからかった。


「お前、誰にでも優しいんだな。でも俺にはそんな気遣いはないよな?」


 ウプシロンは彼を一瞥し、僅かに口元を緩めた。


「ライアン、あなたは特別です。特別な存在には、特別な方法で接するべきだと考えています」


 その言葉に、ライアンは苦笑いを浮かべた。彼女の意図がどこにあるのか、どうにも掴みきれない。しかし、その時ふと思い出したようにウプシロンが付け加えた。


「……例えば、次にあなたが何を注文するか、もう分かっていますから」


 ライアンが驚いて声を上げる。


「なんだよ、それ! どうして分かるんだ?」

「だって、貴方の選択肢はいつも限られているの。未来を知る私にとっては、意外性がなくてつまらない結果ばかりでしたね」


 ライアンは呆れたように頭を掻きながら、彼女の目を見ることを避けた。その視線の奥にあるものが、彼を奇妙に不安にさせていたからだ。


 ウプシロンは食事を前に、座席に腰掛けながらも周囲の動きに集中している。ライアンが食事を受け取ると、テーブルの上に広げられた料理を見つめ、しばらく黙っていた。


 配膳された料理はお世辞にも豪華ではないが、再生処理プラント近くの食堂としては、標準的な栄養が補給できる質素な内容である。ウプシロンはその退屈な料理に対し、まるで何かを学び取るような目つきで眺めている。


 ライアンは少しだけ溜め息をつき、食事を取りながらもふと顔を上げた。


「お前も食べろよ、そんなに見てても料理が変わるわけじゃないだろ」


 ウプシロンは微笑みながら、少し首をかしげた。


「それは、私にとって料理を『食べる』という行為が少々複雑だからです。植物としては、物質を吸収することが最も自然な形ですが、人間のように味わうことができないのですから」


 ライアンはその説明に納得した様子を見せることなく、食べ進める。少し口に詰めた後、気づいたように会計のことを思い出した。


「じゃあ、何のために食堂に来たんだよ」


 ウプシロンは席を立つと、注文カウンターに向かって歩き始めた。


「私は、全てのデータを保持しているから、実際には食事の必要はありません。しかし、あなたが食事をしているのなら、私もその『プロセス』に参加しておくべきでしょう」

「……マジかよ、お前、食う気なのか?」


 半ば呆れながらもライアンは席を立ち、支払いの準備をするべくカウンターへ向かう。ちょうどその時、ウプシロンが食事を受け取ろうとすると、食堂スタッフが素早く視線を向け、制止するような声をかけた。


「すみません、お客様。ライフユニットが必要です」


 ウプシロンはその言葉に一瞬立ち止まり、スタッフを見返す。


「ライフユニット? それは、何かの単位でしょうか?」


 スタッフは少し困惑しながら、眉をひそめた。


「ええ、ここでは食事やサービスに対してライフユニットをお支払いいただくことになっています」


 ウプシロンはスタッフの言葉に戸惑いながらも、自分の視界に流れ込む無数の未来の断片に目を向ける。その中でも、ライフユニットの仕組みについて全く理解できていない自分に、少し驚いている様子だった。


 その様子を見たライアンは、すぐに近づきウプシロンに声をかけた。


「おい、なんだよ、それ。お前、ライフユニットのこと知らなかったのか?」


 ウプシロンは顔を上げ、少し困惑した表情を浮かべると小さく頷く。


「それについては、よく理解できていません。私が知らない何かが、足りないのでしょうか?」


 ライアンは一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐに溜め息をつきながら、あまり感心しない様子で説明を始めた。


「ライフユニットってのは、簡単に言うと船内で使う通貨みたいなもんだ。食事からエネルギー、その他のリソースに至るまで、必要なものを手に入れるために使う。1ライフユニットLIFE_UNITで、1日生きるために最低限必要なリソースが賄われるんだ」


 ライアンは言いながら、自分の胸元を軽く触れた。そこには、体内に埋め込まれた小さなデバイスがあり、リアルタイムで彼のデータ通信量が記録されている。


 デバイスはまるで無意識のうちに、ライアンが消費したリソースを常に監視し、その情報を他の船内システムとリンクさせていた。言ってみれば、その通信量こそが通貨となり、必要な支払いを行うための基盤となっている。


「つまり、私が食事を取るには、そのリソースを支払わなきゃいけないということでしょうか?」

「まあな。ほら、俺の体内にもこれがあるんだよ」


 ライアンは軽くデバイスの位置を触れると、見せるように説明を続けた。


「これが、リアルタイムで消費データを記録してる。食べると、使った分がリアルタイムでデータとして計上されるんだ。つまり、これが全てのリソース通貨として使われるわけさ」


 ウプシロンはその説明をじっと聞きながら、理解を深めるように頷いた。


「なるほど。そういう仕組みが存在するのですね。しかし、私はデータで成り立っているため、物理的な支払いという概念がどうしても馴染みません」


 ライアンが軽く肩をすくめ、苦笑を浮かべる。


「まあ、そんなもんだよな。でも仕方ねぇ、俺が支払うから、食べてみろよ」


 ウプシロンは少し驚いた表情を浮かべ、ライアンに感謝の意を込めて静かに言った。


「ありがとうございます、ライアン。しかし、次回は私が支払う番かもしれませんね」


 ライアンはウプシロンの言葉に軽く笑いながら支払いを終え、彼女が食事を取る様子を見守った。その時、ウプシロンの顔に浮かんだ微かな混乱と、未来を見通す瞳の奥にある深い考えが、彼には少しだけ感じられた。

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