周囲を山々に囲まれた山間の渓谷。
その中に、一つの村があった。
木造建築の家が多い中、数軒だけモルダル造りの建物が見て取れる。
一見すると、寺院のようにも見えた。
そのうち一軒の木造の家から一人、女が出てきて庭先に声をかける。
「フィル。フェリオを連れて、食料を調達してくれる?」
ピンク色の長髪を頭部で一つ、おだんごにまとめた初老間もない女が、薪割をしている一人の少年へ声を掛けた。
身長178cmで、細身の少年は薪から顔を上げ、額の汗を袖で拭う。
「いいよ母さん。でも……今日は父さんと、俺、召喚の練習じゃなかった?」
「そうだったけれど、お父さんは今、寺院で高等召喚との契約が思いの他長引いてるみたいなのよ……」
どうやら女は、少年の母親らしい。
初老だが、美人で綺麗な顔立ちをしている。
「そうなんだ。分かった。じゃあそうするよ」
そう答えた少年は、男の割りに女と間違える程の美少年だ。
「ごめんねフィル。ありがとう」
斧の柄から手を離し、礼を述べる母親へと向き直る。
「嫌だな。母さんが謝らなくていいさ」
「くれぐれも無理しない程度でいいから、気をつけて行って来てね」
「ああ! じゃあ、行って来る!」
こうして、庭から見送る母親へ笑顔で手を振り、家を後にした。
短く整えられた、青色の髪と同色の瞳の美少年――フィリップ・ジェラルディンは、現在19歳で愛称はフィル。
16歳から召喚術を、この村より学び始めている。
ここは人口およそ80人程が暮らしている、召喚師の村だ。
召喚師は表向き禁術だが、要人を守護する為、世間へは極秘にてこの村は築かれている。
云わば召喚師の隠れ里だ。
数分ほど歩いた先にて、山に入る手前の原っぱでピンク色の短い髪と同色の瞳の子供が、何かを熱心にやっているのをフィリップは見つけた。
「小さき炎よ、この手の中に灯れ!」
すると、線香花火の先端のような火が出現したかと思ったら、すぐ短い煙になり消滅した。
「んもぅ! 違う! せめてマッチ棒くらいの火でなくちゃ!」
子供は悔しそうに、握った両手の拳を振り下ろす。
これを見たフィリップは、クスリと小さく笑ってから子供の背後へ、声を掛ける。
「おいリオ。こんなところでそんなことして、山火事にでもする気か?」
「フィルお兄ちゃん!」
彼の声に、その子供はすぐに嬉しそうな笑顔になって、兄のフィリップへと振り返る。
子供は中世的な顔立ちが可愛らしい、身長140cmで10歳になるフェリオ・ジェラルディン、愛称リオだ。
「だって、召喚術を学べるようになるのはまだ6年後だから……その間に自分が出来る可能性をもっと伸ばしたくて……」
「気持ちは分かるけど、そんなに焦る必要はない。今日は母さんが食料調達に行ってくれだってさ」
「食料調達!? うんうん! ボクも行くー!!」
大はしゃぎするフェリオに、フィリップはクスクス笑った。
「ホント、リオは食べ物に目がないな」
こうして、フィリップは徒歩一時間先にある川で魚釣り、フェリオはその周辺の山の幸を採りに分かれた。
まだ10歳のフェリオ一人、山に入らせても大丈夫かと思われそうだが、ここは彼らには庭みたいなもの。
心配は無用だろう。
フィリップは、持ってきた釣竿の糸を、川底へと垂らす。
釣りとは、辛抱強さが大切だと言われる。
人によっては、退屈な作業と言う者もいる。
しかし、今日の釣りは違った。
釣り糸を垂らして、三分もしないうちに
フィリップは、タイミングを見計らって、竿を引き上げる。
釣り針には、20cm程の魚が食いついていた。
「よしよし。やったぞ」
フィリップは満足げに、魚を持参したカゴの中へと放つ。
そして、再度同じように釣り糸を川へと、垂らす。
すると今度は、更に早い時間で竿に引きがあった。
「おっ!? それ!」
フィリップは再度、竿を引き上げる。
今度は、先程よりも釣竿が重い。
これにより彼は、より強く竿をもう一度引き上げる。
水面から、魚が躍り出る。
驚いた。
次は30cmもあろうかの、大物だ。
こうして繰り返す事6回、短時間の中で魚を釣り上げる。
よって、今日は川に到着して間もなく、8匹もの魚が釣れた。
「今日は順調だな」
フィリップは釣果の調子の良さに、一人ごちる。
しかし上流から何やら、声が聞こえた気がした。
耳を澄ませるフィリップ。
「……――女の人の声……?」
段々その声が近づいてきたので、フィリップは声のする方へ顔を向けて、目を疑った。
まさか、川の上流から人が流れてくるとは、思いもしなかったからだ。
川幅は広くない上に、流れも穏やかなのでどうにかなりそうだと、フィリップは川に飛び込みその女を救出する。
「ゼェ、ハァ……助けて頂き、ありがとうございます」
腰ほど長い波打つブルネットの髪は水を吸い、その毛先から伝い落ちる水分が川原の石を濡らす。
「一体また、どうして川に流されて?」
「はい……実は川で洗濯をしていると、上流から大きな桃が……それを拾おうとしてこんな事に。やっぱり人間、欲張ってはろくなことがありませんね」
川原の石の上へ、力なくへたり込む姿勢の女。
「……桃なんて、流れてきませんでしたが」
フィリップは、1m程斜めに離れた場所で濡れた上着の裾を絞りながら、女の言葉を訝しむ。
「そんな事より、助けて頂いたお礼をさせてください」
言うや否や、女が突然びしょ濡れの衣類を脱ぎ始めた。
「ちょっ! 人前ですよ! 着替えるなら別の場所で……!!」
慌てるフィリップを、女は艶かしく美しい
「いいえ。この体で、あなたにお礼を……」
女は、
「!? いいえ! 必要ありませんから!!」
それでも、男でありながらフィリップは、怯まない。
「ではせめて、口づけだけでも……」
女は言いながら立ち上がり、歩み寄ると顔をフィリップへ近付けゆっくり、息を吹きかけてきた。
「その必要も、ありま、せん……?」
女の息を吸い込んでしまったフィリップは、突然意識が混濁してその場に座り込む。
すると女の姿は、皮膚が裂け始めたかと思うと人くらいの大きさをした、何らかの蟲の姿に変わったのだ。
蜘蛛のようであり、蜂のようであり、
こんな蟲など、今まで見たこともなかったが何せフィリップは言葉を発する事が出来ず、仰向けに倒れて動けなくなってしまっていた。
その蟲は、まるで蜻蛉のような尻をつの字に曲げ、フィリップの上半身の服を引き裂きその露わになった腹の上に、直径2cm程の大きさをした粘着質のある卵を、産み付け始めた。
卵の中が薄っすらと透き通り、何かが蠢いている。
それは数分もせず孵化し、宿主の柔らかい腹を食い破り肉体を内側から養分として、成虫になると眼窩から溢れ出て飛び立って行くのだ。
しかしその時、何かが蟲に激しくぶつかり、フィリップの上から弾き飛ばされてしまった。
「フィルお兄ちゃんに何をする!!」
フェリオだった。
今度は自分へ向かってきた蟲に、フェリオは手に持っていた殺虫スプレーで蟲へ立ち向かった。
なぜ、都合良く殺虫スプレーを持っていたかと言えば、フェリオは普段しょっちゅう山遊びをしている為、心配した母親が日頃からそれを持たせていたのだ。
フェリオは無我夢中で、スプレーが空になるまで噴射しているうちに、気付いたら蟲を倒していた。
「ウエエ……気持ち悪い。何だこんな虫、見たこともない……フィルお兄ちゃん、大丈夫!? しっかりして!!」
フェリオは、兄の腹部に付いている卵を払い除け、採れたばかりの木の実を一粒彼の奥歯に入れると、顎を押さえ込んで噛み潰させた。
刹那、フィリップは虚ろだった両目をカッと見開き、言葉にもならない声を上げ川の中へ頭を突っ込んだ。
それは強烈な苦味と辛味成分がある、スパイスの一つだった。
「おっ、恐ろしい目に遭った!!」
「うん、そうだろうね」
川から顔を上げたフィリップへ、フェリオはニッコリ笑顔を見せた。
「しかしリオ。随分タイミング良く来てくれたな」
ようやく落ち着いたフィリップは、フェリオへ尋ねる。
「そりゃあね。食材探していたら女の人の悲鳴が聞こえたし、山の上からだとこの川が良く見えるもん」
フェリオは、ケロッとした様子をして答える。
「なるほど……それで駆けつけたと」
「うん。だけどこれ……一体何だろう? 虫……であることは確かだよね?」
フェリオは拾い上げた長い棒で、死んだ蟲の屍をつつき回す。
「でも……川から流された女の人は、どうなったのお兄ちゃん?」
すると、フィリップがビクリと体を弾ませる。
「どうしたのお兄ちゃん。顔が青いよ?」
フェリオは、兄の顔を覗き込む。
「当たり前だろう! この虫が女だったんだから!」
「???」
キョトンとするフェリオ。
「だからっ! あの女がこの虫だったんだよ! つまりその……女がこの虫になって、俺の体に卵を……っっ!! 人が虫になったんだぞ!? いや、虫が人に化けれるだけでも驚きだろう!! それがよりにもよって弱々しい“女”にだぞ!? こんなわけ分からない虫だけでも十分怖いのに、
……この瞬間、フィリップの中の何かが一つ壊れた……。
「とりあえず、こんな状況だと単独行動は危険だ。俺の方はもう家族の人数分以上は、すぐに魚が釣れたし、今から山の方の食料調達は、二人一緒に行動しよう」
「フィルお兄ちゃんと一緒に!? ヤッタァ!!」
フェリオは、飛び跳ねて大喜びすると、フィリップと腕を組んだ。
「アハハ! リオは本当に俺が、お兄ちゃんが大好きなんだな」
フィリップは、フェリオのピンク色した髪を、わしわしと撫で回した。
「そりゃあそうだよ! だってボクのお兄ちゃんなんだからね!」
フェリオは、嬉しそうに肩を竦め兄の顔を見上げると、満面の笑みを見せた。
太陽が、丁度真上に来た頃、それまで山菜や木の実を採っていたフィリップが、額の汗を腕で拭ってフェリオへと声をかける。
「もう昼だな。リオ! これだけ採れば十分だろう! 家に帰ろう!」
「これだけ収穫があれば、今日はご馳走だね! 川では大変な目に遭ったけど」
「思い出させないでくれ……」
フィリップが刹那、顔を青くする。
山道を下りながら、家までもう少しと言う所に差しかかった時。
突然、側の枝が揺れたかと思うと、頭上から二人が今まで見たこともない生物が、出現した。
人間の“女”の上半身と、鳥の翼になっている腕と同じく下半身である三羽の怪鳥だったのだ……。