複雑な地形が入り組む魔獣の生息地。
武道の体さばきを鍛えるのにもってこいの裏山を、ルーカスは疾風のごとく駆け抜けていた。
腰から黒い角がぶら下がり、先端から毒液が少しずつ滴っていたが、薬浴の恩恵を受けるルーカスが毒の影響を受けることはない。学園でポイントと交換できる貴重な素材であるため、なくさぬよう大切にぶら下げていた。
――ドンッ!
炸裂した拳威に豹の外見を持った魔獣は地に叩きつけられ、口から泡を噴き出していた。
2級魔獣――魔豹。
この魔獣の俊敏さと膂力は脅威であり、その毛皮は魔力を増幅させる特性を持つため、魔法のマントの素材として優れている。
魔導士であろうと捕獲するのが難しいこの魔獣だが、ルーカスの拳の前ではひとたまりもなかった。
「旨いな」
焚き火を囲みながらルーカスは呟く。
剥いだ魔豹の皮を下に敷き、座り心地の良さに満足しながらルーカスは魔獣の山で最初に仕留めた獲物の肉を齧っていた。
食事を終えたルーカスは、黒い角を魔豹の皮で包み、鬱蒼とした森の探索を再開した。
魔獣の山は数十万年の歴史を誇る。
昔、ここには数え切れないほどの上級魔獣が生息していた。
学園が設立されてから、周辺一帯の上級魔獣は殆ど駆逐された。そうでなければ、生徒の修行場として山が開放されることはなかっただろう。
疾走するルーカスは、数々の魔獣を目の当たりにした――怪しげな赤い光を瞳から放つコウモリ、不気味なほどの巨大な頭を持つネズミ——。
気味の悪い魔獣はそっとしておいて……
1時間も経たないうちに、ルーカスの体からさまざまな魔獣素材がぶら下る――どれも錬金術に役立つ貴重な材料だ。
「ここは…分かりやすくくらい魔獣が少なくなってきた」
しばらく進んだルーカスが足を止め、辺りを見渡す。
ここは、魔獣山脈の腹地。
異様なほどに辺りは静まり返っていた。
――ヴォォォォ……!ウォォォ―ン……!
静寂を裂くように、何かが蠢く音が遠くから響いてくる………
ルーカスはすぐさまに音の方向へ視線を向ける――距離はおよそ一キロ。
地面を蹴って矢のごとく疾走するルーカスは、数呼吸しないうちに100メートルを駆け抜けた。
少しして、とある山洞の入り口にルーカスは立っていた。
洞窟の中から響く音は、ここでは一層ハッキリと聞き取れた。
ガルルルルーッ、警戒するかのような急促な音——。
「俺を脅しているのか?」
笑みを浮かべてルーカスは中を覗いた。
やがて、洞窟の奥から別の音が響く——突如として激しい風が巻き起こった。
烈風と共に、馬の頭ほどある巨大な頭を二つ持つ狼が姿を現し、4つの青白い眼が鋭くルーカスを射抜く。
「へぇー…
ルーカスの目が突如として輝いた――道理でこの辺りの魔獣が少ないわけだ。
――グワォォォン……!
対の狼頭。その左は凍てつく青に染まり、右のそれは橙の焔を宿していた。
二つの頭は揃って舌を吐き出し、ぎょろりと洞窟の闇から顔を覗かせる。
だが、巨大な胴体はなおも影の中に潜み、決してその全貌を明かそうとはしない――6級魔獣には知能があるのだ。
魔獣の知能は3級ごとに大きな隔たりがある――1~3級の魔獣は本能のままに動き、4~6級となると魔獣は思考を持つようになるのだ。
7級になれば高度な思考力を発揮できるようになる。
この
その事実に、双頭魔狼の瞳に不安が滲む。
|ガウッ、ガァァーッ、グルルルルルルルルーッ……《なぜ、この貧相な人間に、規格外の力が宿っているのか?……》
「俺を追い払いたいってわけか?」
笑みを浮かべるルーカスに「立ち去れ」と言わんばかりの威圧が向けられる。
「まずは拳で挨拶だ」
ルーカスは一歩前に踏み込み、拳を青色の狼頭に叩き込んだ。
道中で遭遇した最上級の魔獣は3級までだったが、こうして6級魔獣に出会えたのだ――格好の対戦相手となり得る相手をみすみす見逃したりはしない。
ルーカスの動きに反応した双頭魔狼が素早く動いた。
青色の狼頭が口を開き、青白い冷気を吐き出す――水と火、相反する2つの属性を併せ持つ珍しい魔獣だ。
――バキィン!
ルーカスは回避もせずに、そのまま拳を寒気の中に突っ込んだ。
たちまち拳の表面に薄氷が張る。
しかし、その強靭な力で氷をそのまま砕き、狼の頭に拳が直撃する。
――ヴァゥゥゥン……ッ!
身を捩じり苦痛に喘ぐ双頭魔狼へ、さらなる拳が振り下ろされる…
力では敵わぬと悟った双頭魔狼は、たちまち橙の頭から炎の塊を噴き出した。
――ゴゥッ!
淡い青の炎が揺らめき、凄まじい高温が放たれた。
――ジューッ!
しかし、橙の頭が拳をまともに受けると、両方の頭が仰け反りかえり、狼の巨躯がじりじりと後退し始める。立て続けに打ち込まれた拳に魔獣の脳が揺ぐと、6級魔獣の知性を持つこの個体は悟った――この人間に敵わない、と。
――逃げなければならない。
深い巣穴へ戻り、この恐るべき敵から距離を取るのだ。
だが、逃がすつもりなどないルーカスは洞窟の入り口に立ち、両拳を軽く握り締めると左の拳は冷たい青、右の拳は燃え立つ橙に変わり、強大なエネルギーが周囲を渦巻いた。
そして、数秒経って拳が元に戻る。
「アッハハ、逃がさないぞ」
ルーカスの胸が高鳴る。こんなに熱くなれる戦いは久しぶりだった。
小柄な体が、一瞬で大きな洞窟の奥へとバネのように飛び込んだむ。
洞窟の内部は広大だった。
全速で逃げる双頭魔狼。
しかし、ルーカスのほうが速かった。追いつくや否や、人の腕ほど太い狼尾を掴み、ルーカスは魔狼を一気に引っ張ると、巨大な狼の体は、折り畳まれるように寄せられた。
――グルルル……!
二つの狼頭が必死に威嚇音を発し、極寒の霧と青い豪火が吹き出される。
双頭魔狼。その皮は厚くて強靭で防御は申し分なく、氷の霧と火炎による遠距離攻撃を得意としていたため、7級の魔導士ですら油断できない相手だったが――ルーカスの前では、この程度の強さは意味を成さなかった。
寒気と炎を軽くかわしながら、ルーカスは容赦なく拳を叩き込んだ。
強靭なはずの皮が、悲鳴を上げるように裂かれ、血が垂れる。
――ガウッ、ガゥーーッ!
地に伏し、苦悶の声を上げる魔狼は執念深く、一撃を与えようと足掻く――
「ハハッ、武道って楽しいもんだな!」
ルーカスは声を上げて笑った。
これほどの魔獣と、ここまで戦えるとは――心地が良い。
余裕の表情を浮かべる小さな人間。
それを己への侮辱と捉え、怒りの炎を燃やしながら魔狼が暴れ狂う。
――ヒュォォォー!
――ゴォォォォー!
冷気と炎が洞窟の隅々まで吹き荒れるも、小さな標的はそれを難なく躱した。
洞窟内の激突が、山を揺るがすように轟く。
尋常ならざる地響きに怯え、恐れおののいた山の下級魔獣たちは身を伏せる。
全長4メートルをゆうに超える巨躯の魔狼が巣食うこの山も、ルーカスにとっては広めの"修行場"に過ぎなかった。
そして、1時間に及ぶ戦いが終わりを迎える――洞窟の壁には焼け跡と氷が残り、激闘の余韻を物語っていた。
最後の力を振り絞り、魔狼は襲いかかったが――ルーカスは無傷のまま佇んでいた。
床一面に散乱する狼の抜け毛が、無情な現実を突きつけていた。
魔狼の毛は、ただの抜け滓にあらず――マント素材として重宝され、学園内でも高値で取引されるのだ。
「持ち帰れば、すごいポイントが手に入るな」
ルーカスはわずかに口角を上げた。
夜風が頬を撫で、戦いの疲れさえ心地よく感じられた。